48話 神の魔導陣
物心ついてからは、エフロシーニャ師とはあの治療院以外の場所で会ったことはなかった。ときどき、森に薬草を取りにいくと言って何日も帰って来ないことがあった。
治療院と森では、こんなに人が変わるの?
エフロシーニャの穏やかな笑顔を懐かしく思い出した。
記憶の中の師とも、最近夢で見た師とも、今のエフロシーニャの姿は別人のようだった。
私はシカの大きなツノを見ながら、灰色のローブをまとった小さな師の背中を見ていた。シカはゆっくりと歩き、私はその硬く長い毛に両手を絡ませるようにしっかりと握っていた。
木々の間から月が覗いている。
アイカが足元で私を見上げ、小さく吠えた。
「ヴェーラ……私は専門は取れずに、村に帰って来ることを望んでいました」
エフロシーニャはため息をつきながら、治療院での言葉遣いで話しかけた。
以前、そのようなことを言っていたのを思い出した。
「それは、こうなることを分かっていたからなのですね?」
「そう……ヴェーラの母親には上手くいったのです」
両親は魔導抵抗が強く、魔導は使えないと聞いていた。
魔導素が少ないか、魔導抵抗が強すぎると魔導係数は測定できない。
大半の人々が魔導を使えない。
長きにわたる魔族の支配の中で、魔導への抵抗が強くなったためだと学院で習っていた。
でも、その口ぶりだと、本当は使えるのに封じられているだけなの?
その疑問が頭に浮かぶ。
「ヴェーラが、その魔導を制御できるか、または諦めるかで、こうした事態を避けようとしていたのです」
「だから……詠唱がレシピになったのですね?」
私はため息をついた。
諦めさせるために……酷すぎる……
「ヴェーラの詠唱は、レシピになりましたか……私のまじないは、一番苦手なもので魔導を使えなくするのです」
「……」
「ヴェーラの料理は、おいしくないと聞いていますから」
「……」
そう言ってエフロシーニャは笑った。
学院に入る前は、母親に料理を習っていた。
村のたいていの子どもは、手仕事を両親から覚える。
私もたくさんの料理のレシピを覚えさせられたけど、実際作ってみると食べられるものにはならなかった。
「ヴェーラの旦那さんは、可哀想……」
母はそう言って、嘆いたものだった。
学院に入ると、レシピそのものを忘れてしまっていた。
「制御する鍵……って、なんですか?」
「おや……思い出したのですね」
エフロシーニャはため息をついた。
「それは自分で見つけるものです」
教えてくれないのは予期していた。
でもあの夢は本当にあったことだと分かった。
「私の本当の魔導係数はいくつですか?」
「11.2でしたよ」
「でも、私は悪魔化した魔狼に強制契約をかけました。所長、ドミトリ師の干渉魔導の封印も。本当に11.2なら、無理だと思うんです。だから……」
私は今まで知りたかったことを勢い込んで聞いてみた。
私が疑問を持つと決して引き下がらないことを知っているエフロシーニャは、観念したように首を振りながら答えた。
「それは……」
エフロシーニャは黙った。
森を渡る風の音だけが響く。
「あの疾風ヴォルトと同じ、神の魔導陣をかけることができるからです」
「……神の……魔導陣?」
「私には、できません」
「!」
神話の時代に最も近づいたと言われる魔導師——ヴォルト。
それを、私が……?
「ヴェーラ、あなたの魔導陣を、あのとき開いてみました。それで分かったのです」
「……神の魔導陣だから、解読できないのですね?」
あの謎の魔導陣の正体……
これをキリルに知らせても、よいのだろうか?
「解析局のキリル主任が、今も解析していると思います」
「優秀なのですね。並の魔導師には、見えませんから」
冷たい風が吹いた。
ドラグが血を流しながら歩いていた。
「あの、蛮族。ドラグとやら。あれは自分の意思でヴェーラに従っています」
「!!」
言葉に詰まった。
契約ではなく、命懸けで自分の意思で守ってくれたの?
胸の奥が熱くなる。
「さあ、隠れ家につきましたよ」
森の中に、古い小さな神殿が現れた。
レリーフに魔導神と十二人の使徒が刻まれている。
それはところどころ欠けていた。
苔がむし、雑草が割れた岩壁の間から生えていた。
「犬たちは、帰ってよろしい」
「バウ!」
「……アイカはいいよ」
魔犬はアイカを残して森の中に消えていく。
それに手を振って別れた。
エフロシーニャはシカを座らせて飛び降りると、灯りの魔導をかけた。
ぼうっと赤く周囲が浮かび上がる。
イリアが手を差し伸べ、続いて私も降りる。
「……ありがとう。イリア」
「ヴェーラ。もう大丈夫なのか?」
エフロシーニャから衝撃的なことを聞いて、私の顔は青ざめているのに違いなかった。立ち上がるとふらついて、イリアが私を支えた。イリアにもたれて立っているのがやっとだった。
スヴェトラーナの視線を感じる。
スヴェトラーナに、ますます誤解されてしまうと思ったが、どうしようもなかった。
小さな木の扉が神殿の奥に見えた。
エフロシーニャは魔導陣を開き、小さく詠唱を唱えると扉の鍵がガチャと鳴った。
開くと下に続く階段があった。
「まずは、蛮族……ドラグを治療しないといけませんね」
エフロシーニャは呟いて、階段を降りていく。
ドラグは四つ這いで戸をくぐった。
ぎりぎり通れる大きさだった。
下に降りると空間が開けた。
「ここは、古い観測魔導所です」
ドーム状の広場の中央に、巨大な魔導陣が刻まれていた。
何層にも円が複雑に重なっている。
魔導書の神話の挿絵に出て来る魔導陣のようだった。
「かつて多くの観測魔導師が、ここで魔族の動向を見張っていました」
ドームから続く通路に扉が並んでいる。宿舎が併設され、空き部屋がたくさんあるという。
その一つの扉へドラグと私たちを連れていった。
診療所の匂いがした。
寝台が二つあり、ビンや壺に入った薬草が並んでいる。
寝台にドラグを座らせ、破れた服を慎重に剥がすように脱がす。
エフロシーニャはイリアとスヴェトラーナに次々と指示を出していった。
イリアは地下の井戸で水を汲み、スヴェトラーナは暖炉に火をつけ湯を沸かした。
私も丸薬を飲ませられ、隣の寝台に寝かせられた。
硬い木の寝台、毛布をかぶると疲れから瞼が重くなる。
エフロシーニャの指示とドラグの抑え切れない呻き声が、次第に遠くなっていく。
*
目覚めたとき、時間の感覚がなかった。
窓はない地下室。
魔導灯が淡い光を放っている。
隣にドラグが鼾を立てて寝ていた。
体を起こすと節々が痛む。
「ヴェーラ。起きたのかい?」
エフロシーニャが診療机に向かって腰掛けていた。
「所長は? ドミトリ師は!?」
「おはようヴェーラ」
勢い込んで尋ねた私に、エフロシーニャは諭すように挨拶を返した。
「おはようございます。今は、いつ頃ですか?」
「もう、昼過ぎじゃ」
またエフロシーニャの口調は変わっていた。
こっちが地なのだろう。
村人に向ける優しい視線とは全然違っている。
よく眠れたようで体は軽くなっていた。
寝ているドラグに視線を向けた。
「ドラグは、まだ起きんじゃろう。まあ一命は取り留めた」
「……はあ……良かった」
昨晩、あの傷で置いていくと言われたときは、どうしようもないと思った。
だって誰も連れていけない。
あのまま置いて行ったら、本当に死んでいたかもしれない。
私はエフロシーニャに差し出された薬湯を受け取った。
苦そうな色と匂いに、口をつけるのを躊躇する。
「……ドミトリ師は?」
「まだじゃ……大きな魔導反応が一昨日の夜に東の方であった」
「……それは、ドラグの魔導反応の後ですか?」
あの所長と別れた晩のことだ。
あの眠れない夜に、何かが所長の身に起こっていた。
嫌な予感が胸を締め付ける。
「私、あの晩、途中で分からなくなって……」
「魔族と軍の大規模な戦いがあったようじゃ」
やっぱり……
軍に魔族をぶつける作戦が、上手くいったんだ。
でも、所長はだからと言って、逃げ出すようなことはしない。
「どっちが勝ったんですか?」
「分からぬ……ただ、魔族の反応は少なくなっていたようじゃ」
それがなければ、昨日の魔族と軍の襲撃はあの程度では済まなかったのかもしれない。所長の安否が、ただただ気に掛かった。
「これから、どうすれば良いのですか?」
「ヴェーラは、どうしたい?」
その問いに、どう返せばいいのか分からず、言葉に詰まった。
出来るなら、また所長とあの事務所で働きたい。
でも、それはもう無理だった。
首を振った。
「分かりません」
エフロシーニャはため息をついて、立ち上がった。
「ここは、破壊されたことになっておる。知る者はヴォルトの系譜だけじゃ」
うつ伏せで寝ているドラグの背中に当てた軟膏を、取り換え始める。
「しばらく、休むといい……ドミトリの奴も生きていれば、来るじゃろ」
「所長はこの場所をなぜ知っているのですか?」
エフロシーニャは手を止める。
「奴もここで戦ったヴォルトの子孫じゃ……」
「!!」




