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契約魔導師のレシピ帖  作者: タキ マサト
三章 メドヴィクの解放

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40話 夜明けの川


 古い小舟は、四人と一匹では窮屈だった。

 古びたオールが二本、船尾には櫂がついていた。


 川には霧がたゆたい、消音の世界は続いている。

 所長が最初に乗ると大きく揺れた。


 イリアがオールを握る。

 所長が船尾で櫂を手にした。

 船首でスヴェトラーナが前を向く。

 私はイリアと所長に挟まれ、アイカを抱えるように身を縮めて座った。


 膝が当たり、アイカがその狭さに不服なように私を見上げた。

 誰もがお腹を空かせていた。


 白い霧が徐々に夕闇に溶け込む中、小舟は進む。


 白い世界から闇に変わっていくが、見えないことには変わらない。

 オールが水を叩く音も、櫂で水を漕ぐ音も聞こえない。

 不安が募り、アイカに抱きつく。


 所長はコンパスを見ながら舵を取る。

 

 小屋で休めば良かったのにと思った。けれど見つかってしまったら、そこでこの旅は終わる。少しでも離れなければいけない。


 私の目の前には、何も見えない。

 でも、狼や虎や熊が出る森の中より、川の方がいくらか安全だった。

 そのとき、また大きな魔導反応が遠くで感じられた。


 軍が獣と出会ったのだろう。

 霧の中、軍の捜索も難航していると思うと少しほっとした。


 静寂の中、揺れが眠気を誘う。

 長い一日。


 朝の訓練に始まり狙撃され、悪魔化した魔熊に襲われ、オルロフ大佐に連行され、そして所長が来てくれた。


 頼れる所長とイリアに挟まれ、温かなアイカの体温を感じるうちにいつしか眠りに落ちていった。


「クリューチナ……ここは本当に辺鄙なところだな」


 馬車に揺られていた。

 左隣に魔導師が座っていた。

 深い森の中、こんなふうにいつも霧がかかっていた。


 そうだ、学院に初めて向かう馬車だ。

 私は初めて村を出たんだ。


 短い夏の終わり、九の月の入学に間に合うように後見人に付き添われて王都に向かったときだ。


「鉄道駅のある街まで、馬車で二日かかるからな……」


 右隣でお父さんが答えた。

 そうだ、毛皮を売りにいったんだ。

 いつもは組合の人が売りに行くけど、このときはお父さんがついて来てくれた。


「フロロフ師。娘を、ヴェーラをお頼みします」


 そうだ、フロロフ師。

 最初は気にかけてくれた師だったけど、学年が上がるにつれ、落ちこぼれていく私に、ため息混じりの説教が増えていったんだ。


 その師も私が卒業するときに、亡くなってしまった。

 無事卒業できて、ほっとした表情を見せていたけれど、最後まで私の行く末を気にかけてくれた。


 フロロフ師、干渉魔導師は取れなかったけど、無事に契約魔導師の資格を取れました。


 今年は、お墓参りにはいけない……


「……ヴェーラ」


 遠くで、誰かが私を呼んだ気がした。

 

 そのとき、私は揺り起こされた。

 目を開けるとイリアが覗き込んでいた。


「くしゅっ」


 肌寒くて、小さなくしゃみが出た。

 朝靄の中で、うっすらと周囲が明るくなっている。

 体の節々が痛かった。


 小舟は、岸につけられている。

 アイカが私を見上げて、小さく吠えた。


 小舟には、イリアとアイカしかいなかった。

 

(所長は? スヴェトラーナさんは?)


 口をぱくぱくと動かすと、イリアが指先を岸に向けた。

 そこには桟橋があった。


「消音の効果は、ここでは薄いようだ」


 そう言ってイリアは笑った。


「本当だ……」


 霧の範囲を出た?

 鳥の鳴き声、馬のいななきが小さく聞こえてくる。


 似たような船が霧の中で何艘か揺れている。

 やがて所長とスヴェトラーナが戻って来た。


「おはよう」

「おはようございます」

「この先に集落がある。食糧を分けてもらった」


 村の朝は早い。

 よく見ると煮炊きの煙が上がっているのが見えた。


「馬を二頭、用立ててもらえそうです」

「金貨を六枚も出せば、それはそうだろう」


 スヴェトラーナが言って、所長が首を振った。

 金貨六枚って、私の二年分の給料だ……


「さあ、食事にしましょう」

「バウバウッ!」


 スヴェトラーナが分けてもらったパンや肉を背嚢から出した。

 久しぶりの食事にイリアが目を輝かせた。

 アイカが、ハッハッハッとじっと肉を与えられるのを待っている。


「俺は馬に乗ったことはないが……」

 

 食事をしながらイリアが言う。


「スヴェトラーナと俺は乗れる」


 肉にかぶりつきながら所長が答える。


「ヴェーラは俺と、イリア師はスヴェトラーナと乗ってくれ」

「……分かりました」


 スヴェトラーナが私を見て、ため息をついた。


「アイカは?」

「アイカは走れるだろう?」

「バウ」


 肉を一瞬で平らげたアイカが私たちを見上げた。

 

「……もう霧の範囲は抜けたのですね?」


 所長は地図を広げる。


「出来るだけ、人目につかないようにしなければ」

「ラジオでニュースになってるでしょうね」


 主要道路や駅は臨検されているはず。


「馬でどのくらいで行けますか?」

「早くて一週間だな」


 食事を終えると私たちは集落に向かった。

 村人たちが畑や猟に出ていくざわめきが聞こえてくる。

 故郷の村を思い出して、胸が熱くなった。


 私とイリアを集落の入り口で残し、所長とスヴェトラーナが馬を受け取るために集落に入っていく。


 二人の後ろ姿を複雑な気持ちで見つめる。


 ゾロトワ家の婿養子って……?


 心の奥がもやついてくる。

 その様子をイリアが見ていることに気がついた。


「イリア師、……巻き込んでしまってすみません」

「いや、俺が決めたことだ。局長のお墨付きも、もらったしな」


 そう言ってイリアが笑った。

 そして真面目な顔になる。


「ヴェーラ……ヴェーラのことは、俺が守る」

「イリア師……」

「イリアでいい」

「……ありがとうございます」


 イリアの気持ちは嬉しかったけど、素直には受け取れなかった。

 十三歳で学院に入ってからは、勉強と魔導の訓練の毎日。

 落ちこぼれてからは異性の目も冷たくなった。


 イリアが熱い目で、私をじっと見つめた。

 頬が赤くなるのを感じ、顔を背ける。

 なぜか、所長の魔導単車の後ろ、あのときの背中の温もりが頭をよぎった。


 やがて所長とスヴェトラーナが騎乗して戻って来た。


「さあ、エフロシーニャ師のところに行こう」


 エフロシーニャ師……


 先月、便りがなかったことを思い出す。


 何事もなければいいけど……


 かすかな不安が胸に芽吹くのを感じた。


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