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契約魔導師のレシピ帖  作者: タキ マサト
三章 メドヴィクの解放

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39話 静寂の森


 私たちは、王都を西から出て北上し、さらに西に入った森の中にいた。

 南部と東部とは違い、北の地は森が広がり、その先には山脈が連なる。

 それは故郷にも続いている。

 そしてその先は、魔族の土地だ。


 霧の中は肌寒い。

 背負われた所長の背中の温かさと匂いだけが鮮明に感じ取れた。


 どこまで霧が深いんだろう?

 いつまで音は消えているんだろう?


 所長はコンパスを確認しながら、迷いもなく霧の中を進んでいく。

 下ろしてくれとは言えない。魔導師のローブでないことだけが救いだが、降りたら最後たちどころに足手まといになる。


 振り返るとロープが霧の中に消えている。

 ピンと張られたロープの先にはスヴェトラーナがいるはずだ。


 軍の魔導反応はない。

 近づいてくれば、私の中の魔導の流れに引っかかるはず。


 私は所長の背中に「いつまで音が消えているのですか?」と書いた。

 それに気がついた所長は首を振った。


 そのとき、アイカが所長のローブに噛み付いて引っ張った。

 所長が止まり、私を下ろしてしゃがみ込む。


 ロープが緩み、スヴェトラーナとイリアが近づいて来た。

 同じように身をかがめる。


 イリアがホルスターから魔導銃を取り出す気配がした。

 アイカが姿勢を低くしている。


 そのとき、霧が動いた。

 霧を割って、一頭の虎が獣臭さとともに現れた。

 この無音の中、鉢合わせに驚いたように牙を剥き出し威嚇を始めた。


——プルガ虎だ……


 白地に黒の縦縞、その圧倒的な体躯に私は固まった。

 心臓の鼓動は激しいはずなのに、それさえ聞こえない。


 魔獣化は?

 いや、魔導は感じない。


 アイカが間髪容れずに、その虎の前で身を低くする。

 それと同時にプルガ虎が、こちらに牙を剥き出して跳んだ。


 思わず所長にしがみつき、所長が左手をかざす。


 次の瞬間、硝煙の匂いが漂い、プルガ虎の顔が黒く染まった。

 イリアの魔導銃から煙が出ている。


 プルガ虎は目の前で、巨体を地面に打ちつけた。

 起き上がろうと、苦しげにもがいた。


 魔導弾を使った……

 魔導反応で居場所が割られる……?


 私は所長を見る。


 所長が私の腕を引っ張った。

 次いでロープを引く。


 二人も手を挙げて、立ち上がる。

 私たちはプルガ虎の横を慎重に通り過ぎた。


 また所長に背負われる。

 所長の足が速くなった気がした。


 魔導銃を撃ったときに、イリアからわずかな魔導反応があった。

 魔導弾の反応もあった。

 干渉魔導師なら、離れていても感知できる?

 

 私の心臓の鼓動が激しくなる。

 軍に見つかったら、間違いなく殺し合いになる。


 オルロフ大佐とグロモフ局長のやり取りを思い出す。

 オルロフ大佐なら、迷わず殺せと命じる。


——嫌だ。


 こんなところで死にたくない。

 私は、ぎゅっと所長にしがみついた。


 鹿が横合いから走り抜けて、びくっとなる。

 故郷の森では、地面を駆け抜ける地響きが必ずあった。

 大きな鳥が飛び出す。

 音がないのに、不思議な騒がしさがあった。


 いつ軍の干渉魔導師が霧の中から出てくるか分からない。

 虎もいれば熊も狼もいるだろう。


 消音の中では詠唱そのものができない。つまり、新たな魔導は使えない。

 途中、休憩しスヴェトラーナが担いできた背嚢の水を飲む。


 そのとき、大きな魔導反応があった。

 魔導を通していなくても、ビリビリと感じる。


 距離から見て、軍があのプルガ虎と遭遇した……?

 確実に近づいてきている。

 野生動物が出るたびに緊張が走るが、軍の魔導師は出なかった。


 所長はコンパスを片手に森のさらに奥に進む。

 ロープはしっかりと張られている。

 何度も目で追ってしまう。


 しばらく行くと所長が立ち止まった。

 水の匂いがする。

 霧の中、足元で川面が光っている。

 北の雪解け水が、水量を増やしているようだった。


 少し戻り、森の中を川に沿って北上する。

 視界もなく音も聞こえない。

 川に落ちたら一大事。

 水が流れているはずなのに、音がない。

 白い霧の下で、川だけが不気味に波飛沫を上げていた。


 また行く手を川に阻まれる。

 霧の中、どの程度の川幅かわからない以上、渡河は不可能だった。


 いい加減、不安になってくる。


 遭難して餓死してしまうのも、見つかって殺されるのも変わらないかも、と思い始めたときに、所長が止まった。


 岩壁が目の前に迫っていた。

 苔むした岩を回っているときに、洞窟を見つけた。

 中は狭く暗く、洞窟というより深く抉られたような空間だった。

 中にまで霧は入っていた。


 所長は私を下ろし、ジェスチャーで休憩を告げた。

 そのとき、強い魔導を感じた。


——近い。魔導師のものだ……


 緊張が走る。


 所長が警戒のため洞窟の入り口に向かいその姿が見えなくなる。

 ピンと張られたロープだけが、頼りだった。


 ロープを手繰ると、イリアとスヴェトラーナの顔が朧気に浮かんだ。

 スヴェトラーナが私をかばうように腕を肩に回し、イリアが魔導銃を構える。


 ロープが緩み、霧が動いた。

 所長が、こちらに戻ってくる気配がする。


 イリアが射撃体勢を取り、スヴェトラーナの手に力がこもった。


 人影が、二つに増えていた。

 軍に、見つかった?

 所長の後ろから来た人影がぼんやりと霧の中に浮かんだ。


——ソコル少佐……?!


 なんで……?


 所長が魔導陣を開き、左手で文言を刻んだ。


「ドミトリ中佐……」


 ソコルは洞窟に入ると、小さく息を吐いた。


「声が出る……?」

「ああ。この空間だけ解除した」


 所長が短く答えた。


「さすがですな中佐。詠唱しなくても解除できるように文言が刻んである」

「ほんの一部だけだ。霧に覆われてしまうまでだ」


 ソコルは魔導陣を見て感嘆の声を上げた。

 どうやら所長を捕まえに来たわけではなさそうだった。


「グロモフ局長は、どうなった?」

「捕縛されています」


 所長がソコルに聞き、イリアが息を吐いた。


「ソコル少佐の家柄で、何とかならないか?」

「大佐の家とは同格ですが、今は表立って対立しないほうが良いでしょう」

「……そうか。ゾロトワ家に頼むしかないな……」


 ソコル少佐は所長の協力者……

 でも、それがバレたら……


「ヴェーラ師は、今後、絶対に魔導を流したらいけません。中佐の封印が解かれたとき、肝を冷やしました」

「……分かりました」


 でも、私は気になっていたことがあった。


「所長は? 所長は今後、どうなりますか?」

「大佐が失脚すれば、処刑までは行きません。ですが……軍からはもう出られないでしょうな」


 そう言って、ソコル少佐は笑った。

 それじゃ、この旅が無事終わって、すべてが解決したら、所長とお別れ……?


「まず、ここから逃れないとな」

「この先の川のほとりに猟師の小屋と小舟がありました」


 ソコルは声をひそめた。

 所長の地図を指し示す。


「私は、もう行かなければなりません。中佐、無事に切り抜けることを魔導神に祈ります」

「恩にきる。少佐」


 また洞窟の中は霧で覆われ始めてきていた。

 ソコルは洞窟で魔導陣を開き詠唱をすると、ふわりと浮き上がる。

 そして、そのまま飛び去った。


「所長? いつまで霧と消音は続くのですか?」

「範囲は?」


 イリアも不安そうに尋ねた。


「おそらく三日ほどは残滓が残る。消音も霧に付属させた」

「……三日」


 私とイリアは呆然とした。

 とんでもない威力だった。


「さすがは、ドミトリさまですわ」


 スヴェトラーナが誇らしげに言った。


「……ゾロトワ家の婿養子になれば、不自由はさせませんのに」


 所長はその言葉が聞こえなかったように、地図を閉じた。

 再び霧で無音に包まれる前に、かろうじて所長は告げた。


「さあ、出発だ。川を行けば集落があるはずだ」


 世界から切り離されたような静寂の中、私たちは再び北へ歩き出した。


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