39話 静寂の森
私たちは、王都を西から出て北上し、さらに西に入った森の中にいた。
南部と東部とは違い、北の地は森が広がり、その先には山脈が連なる。
それは故郷にも続いている。
そしてその先は、魔族の土地だ。
霧の中は肌寒い。
背負われた所長の背中の温かさと匂いだけが鮮明に感じ取れた。
どこまで霧が深いんだろう?
いつまで音は消えているんだろう?
所長はコンパスを確認しながら、迷いもなく霧の中を進んでいく。
下ろしてくれとは言えない。魔導師のローブでないことだけが救いだが、降りたら最後たちどころに足手まといになる。
振り返るとロープが霧の中に消えている。
ピンと張られたロープの先にはスヴェトラーナがいるはずだ。
軍の魔導反応はない。
近づいてくれば、私の中の魔導の流れに引っかかるはず。
私は所長の背中に「いつまで音が消えているのですか?」と書いた。
それに気がついた所長は首を振った。
そのとき、アイカが所長のローブに噛み付いて引っ張った。
所長が止まり、私を下ろしてしゃがみ込む。
ロープが緩み、スヴェトラーナとイリアが近づいて来た。
同じように身をかがめる。
イリアがホルスターから魔導銃を取り出す気配がした。
アイカが姿勢を低くしている。
そのとき、霧が動いた。
霧を割って、一頭の虎が獣臭さとともに現れた。
この無音の中、鉢合わせに驚いたように牙を剥き出し威嚇を始めた。
——プルガ虎だ……
白地に黒の縦縞、その圧倒的な体躯に私は固まった。
心臓の鼓動は激しいはずなのに、それさえ聞こえない。
魔獣化は?
いや、魔導は感じない。
アイカが間髪容れずに、その虎の前で身を低くする。
それと同時にプルガ虎が、こちらに牙を剥き出して跳んだ。
思わず所長にしがみつき、所長が左手をかざす。
次の瞬間、硝煙の匂いが漂い、プルガ虎の顔が黒く染まった。
イリアの魔導銃から煙が出ている。
プルガ虎は目の前で、巨体を地面に打ちつけた。
起き上がろうと、苦しげにもがいた。
魔導弾を使った……
魔導反応で居場所が割られる……?
私は所長を見る。
所長が私の腕を引っ張った。
次いでロープを引く。
二人も手を挙げて、立ち上がる。
私たちはプルガ虎の横を慎重に通り過ぎた。
また所長に背負われる。
所長の足が速くなった気がした。
魔導銃を撃ったときに、イリアからわずかな魔導反応があった。
魔導弾の反応もあった。
干渉魔導師なら、離れていても感知できる?
私の心臓の鼓動が激しくなる。
軍に見つかったら、間違いなく殺し合いになる。
オルロフ大佐とグロモフ局長のやり取りを思い出す。
オルロフ大佐なら、迷わず殺せと命じる。
——嫌だ。
こんなところで死にたくない。
私は、ぎゅっと所長にしがみついた。
鹿が横合いから走り抜けて、びくっとなる。
故郷の森では、地面を駆け抜ける地響きが必ずあった。
大きな鳥が飛び出す。
音がないのに、不思議な騒がしさがあった。
いつ軍の干渉魔導師が霧の中から出てくるか分からない。
虎もいれば熊も狼もいるだろう。
消音の中では詠唱そのものができない。つまり、新たな魔導は使えない。
途中、休憩しスヴェトラーナが担いできた背嚢の水を飲む。
そのとき、大きな魔導反応があった。
魔導を通していなくても、ビリビリと感じる。
距離から見て、軍があのプルガ虎と遭遇した……?
確実に近づいてきている。
野生動物が出るたびに緊張が走るが、軍の魔導師は出なかった。
所長はコンパスを片手に森のさらに奥に進む。
ロープはしっかりと張られている。
何度も目で追ってしまう。
しばらく行くと所長が立ち止まった。
水の匂いがする。
霧の中、足元で川面が光っている。
北の雪解け水が、水量を増やしているようだった。
少し戻り、森の中を川に沿って北上する。
視界もなく音も聞こえない。
川に落ちたら一大事。
水が流れているはずなのに、音がない。
白い霧の下で、川だけが不気味に波飛沫を上げていた。
また行く手を川に阻まれる。
霧の中、どの程度の川幅かわからない以上、渡河は不可能だった。
いい加減、不安になってくる。
遭難して餓死してしまうのも、見つかって殺されるのも変わらないかも、と思い始めたときに、所長が止まった。
岩壁が目の前に迫っていた。
苔むした岩を回っているときに、洞窟を見つけた。
中は狭く暗く、洞窟というより深く抉られたような空間だった。
中にまで霧は入っていた。
所長は私を下ろし、ジェスチャーで休憩を告げた。
そのとき、強い魔導を感じた。
——近い。魔導師のものだ……
緊張が走る。
所長が警戒のため洞窟の入り口に向かいその姿が見えなくなる。
ピンと張られたロープだけが、頼りだった。
ロープを手繰ると、イリアとスヴェトラーナの顔が朧気に浮かんだ。
スヴェトラーナが私をかばうように腕を肩に回し、イリアが魔導銃を構える。
ロープが緩み、霧が動いた。
所長が、こちらに戻ってくる気配がする。
イリアが射撃体勢を取り、スヴェトラーナの手に力がこもった。
人影が、二つに増えていた。
軍に、見つかった?
所長の後ろから来た人影がぼんやりと霧の中に浮かんだ。
——ソコル少佐……?!
なんで……?
所長が魔導陣を開き、左手で文言を刻んだ。
「ドミトリ中佐……」
ソコルは洞窟に入ると、小さく息を吐いた。
「声が出る……?」
「ああ。この空間だけ解除した」
所長が短く答えた。
「さすがですな中佐。詠唱しなくても解除できるように文言が刻んである」
「ほんの一部だけだ。霧に覆われてしまうまでだ」
ソコルは魔導陣を見て感嘆の声を上げた。
どうやら所長を捕まえに来たわけではなさそうだった。
「グロモフ局長は、どうなった?」
「捕縛されています」
所長がソコルに聞き、イリアが息を吐いた。
「ソコル少佐の家柄で、何とかならないか?」
「大佐の家とは同格ですが、今は表立って対立しないほうが良いでしょう」
「……そうか。ゾロトワ家に頼むしかないな……」
ソコル少佐は所長の協力者……
でも、それがバレたら……
「ヴェーラ師は、今後、絶対に魔導を流したらいけません。中佐の封印が解かれたとき、肝を冷やしました」
「……分かりました」
でも、私は気になっていたことがあった。
「所長は? 所長は今後、どうなりますか?」
「大佐が失脚すれば、処刑までは行きません。ですが……軍からはもう出られないでしょうな」
そう言って、ソコル少佐は笑った。
それじゃ、この旅が無事終わって、すべてが解決したら、所長とお別れ……?
「まず、ここから逃れないとな」
「この先の川のほとりに猟師の小屋と小舟がありました」
ソコルは声をひそめた。
所長の地図を指し示す。
「私は、もう行かなければなりません。中佐、無事に切り抜けることを魔導神に祈ります」
「恩にきる。少佐」
また洞窟の中は霧で覆われ始めてきていた。
ソコルは洞窟で魔導陣を開き詠唱をすると、ふわりと浮き上がる。
そして、そのまま飛び去った。
「所長? いつまで霧と消音は続くのですか?」
「範囲は?」
イリアも不安そうに尋ねた。
「おそらく三日ほどは残滓が残る。消音も霧に付属させた」
「……三日」
私とイリアは呆然とした。
とんでもない威力だった。
「さすがは、ドミトリさまですわ」
スヴェトラーナが誇らしげに言った。
「……ゾロトワ家の婿養子になれば、不自由はさせませんのに」
所長はその言葉が聞こえなかったように、地図を閉じた。
再び霧で無音に包まれる前に、かろうじて所長は告げた。
「さあ、出発だ。川を行けば集落があるはずだ」
世界から切り離されたような静寂の中、私たちは再び北へ歩き出した。




