4話 三つ目の魔導陣
「一つ、チーズと粉を合わせて丸め、弱火で両面を黄金に焼き上げよ!(一つ、この者の身柄の拘束をヴェーラの名において契約する)」
朦朧とする意識の中、最後の詠唱をやり遂げた。
香ばしい匂いが留置部屋に漂った。
その直後、蛮族の詠唱が途切れ、その体に刻まれた魔導陣が消失した。
同時にぐったりと蛮族の頭が落ちる。
それを確認すると私の膝が崩れた。
——もう限界……
所長が私の体を受け止める。
「よく頑張った」
噛んだのに……?
なんで、成功した?
「魔導拒絶反応の高い個体だったな……よくやった」
初めての所長からのねぎらいの言葉だった。
「なぜ? ……私、詠唱を噛みました」
蛮族は黄色い牙を剥き出したまま、泡を吹き出していた。
「噛んだ? いつも通りのレシピだったぞ?」
そのとき扉の魔導陣が解除され、人が入ってきた。
「間に合ったか……この部屋……」
そう呟いた男は上級解析魔導師の紋章をつけた男だった。
護衛の衛兵を伴っている。
魔導銃を油断なく構えている。
解析魔導師は早速、魔導陣の解析を始めた。
しかし、すぐにその動きが止まった。
「この拘束、誰がやった?」
「え?」
最後に拘束した蛮族の魔導陣を見て、男は首を傾げた。
「この拘束の契約は?」
「はい……私です」
私はふらつく足で一歩前に出た。
上級解析の紋章をつけた魔導師は、まだ若そうだった。
目鼻の整った秀麗な顔に、ぴくりと眉が寄った。
別の蛮族の魔導陣を展開し、確認すると一つうなずく。
「こちらは、ドミトリ……中佐殿ですね」
「軍は辞めた。ドミトリでいい」
「ドミトリ師の魔導陣はさすが、剛健そのものです」
「そりゃ、どうも」
「……私の魔導陣に、何か問題でも?」
私は自分の魔導陣について尋ねた。
心臓がドクンと跳ね上がる。
——まためちゃくちゃと言われたら……
最後、噛んだから?
いつかの解析魔導師が言ったという言葉がよみがえる。
「この、魔導陣……」
解析魔導師は、言葉に詰まった。
「下級魔導師には、まず読めません」
——やっぱり……
解析魔導師は私にではなく所長に言った。
「ほう……?」
「やっぱり、私、詠唱を噛んだから……読めないんですね?」
「噛んだ? 詠唱を?」
ありえないという顔をして首を振った。
「本当に噛んだのなら、魔導陣は発動しません」
首を傾げて魔導陣を展開する。
それは三層になった。
精密な魔導陣展開に私は息を呑んだ。
「見ればわかりますが、魔導陣解除契約、拘束契約は丁寧に刻まれています」
「本当だ……」
まるで教科書で見るような魔導陣展開だった。
思わず見入ってしまう。
講義口調で、展開した魔導陣の解説を始めた。
「……ほう。実際はこう見えるのか」
ドミトリが納得したかのようにつぶやいた。
「ご覧のように魔導陣が三つかかっています」
「なんで? 三つ?」
私は二つしか、かけた覚えはない。
「それだ」
ドミトリの口角が上がった。
「この一番上の魔導陣が下の魔導陣に張り付いている」
「……これは、なんですか?」
見たことのない魔導陣だった。
「下級魔導師には、影になって全体が読めないでしょう」
「何が書かれている?」
ドミトリが身を乗り出した。
「……読めません」
男は悔しそうに言った。
「こんな魔導陣は今まで、見たことがない。私が読めないなんて、ありえない」
一瞬その目が、人を殺しそうな光を放った。
「この魔導陣が下の魔導陣に干渉していることは間違いない……が」
解析魔導師は展開した魔導陣を見ながらひとりごちた。
「レシピ……の詠唱の原因?」
事務員が口を開いた。
——また、レシピ……
うんざりする。
だが、その声にドミトリが大きくうなずいた。
「だが、本人に自覚がない」
「私は文言通りに正確に詠唱しています」
その言葉に所長は肩をすくめた。
私には三人が話していることが、まったく分からなかった。
「つまり、ヴェーラ。お前の魔導陣はもう一つの謎の魔導陣が邪魔をしている」
「……もう一つの魔導陣?」
「俺にかけた干渉魔導の封印の魔導陣が消えない理由だ……」
解析魔導師が同意した。
「聞いています。ドミトリ師の魔導拒絶反応を半年も抑え込める魔導師がいると」
ドミトリ中佐の軍からの離脱は、衝撃をもって各方面に伝わっていたのは確かだった。
軍の上層部の誰も、封印できるとは思っていなかったのだろう。
まさか、それをこんな私のような駆け出しの契約魔導師が行えるなんて。
解析魔導師の目が私をとらえ、そしてため息をついた。
ありえない、とその口が動いた。
「この謎の魔導陣を解除できなければ、その下の本来の魔導陣が解除できないのです」
「つまり?」
沈黙が落ちた。
その秀麗な口から搾り出すような言葉が漏れた。
「読めなければ、誰にも……解除できない」
その言葉に、留置部屋に冷気が入ってきたように感じられた。
「……誰にも? 解除できない?」
それは魔獣への悪魔化禁止の魔導陣以外、聞いたことがなかった。
なんだか寒気がする。
「王宮魔導師部隊の上級断絶魔導師でも、無効化できるか……」
そのつぶやきは私の想像を超えていた。
留置部屋の温度がさらに急激に下がった。
「王宮魔導師部隊……? 上級断絶魔導師でも?」
そのとき扉の向こうから「キリル主任」と呼ぶ声があった。
「ああ、もうこんな時間だ」
男は私たちを見回して、事務員にうなずく。
「私は解析魔導師のキリル。この部屋の契約魔導陣が問題ないことを確認しました。では」
キリルは去り際に、私に鋭い視線を向けた。
「また近いうちに、お会いすることになるでしょう」
その視線は、まるで実験用の魔鼠を見る研究者の目だった。
私の足が凍りついた。
「では、書類の手続きを。報酬の支払いは所定の銀行で行います」
事務員に促されて部屋を出る。
やけに疲れていた。
まだ体は緊張していた。
三つ目の魔導陣……? そんなもの、私は知らない。
「じゃ、帰るか」
私は長椅子にぐったりと座り込んでいた。
いつの間にか所長は書類に記入していた。
本当は私がやるべき仕事だった。
「お疲れさん」
私は魔導バスでそのまま自宅に帰った。
別れ際、所長は屋台でシルニキを買ってくれた。
そして、日報は明日でいいと所長は言った。
お腹が空いていた。
朝から何も食べていないことに気がついた。
部屋に帰るとシルニキの包みを解く。
甘くてもちもちした食感に体が癒される。
フォークに突き刺したシルニキを眺める。
——キリルさん。もしかしたら、あの人だったら……
今まで私が、なぜ魔導陣の構築に失敗してきたのか。
その謎を解き明かしてくれるかもしれない。
ずっと謎だった。
王宮魔導師部隊でも解除できない……?
その断絶魔導師でも、無効化できない……?
それよりも、なぜ、詠唱を噛んだのに成功した?
留置部屋で感じた寒気は、まだ体に残っていた。




