29話 鍵
射撃訓練が終わると、イリアが午後の予定を告げた。
「午後は、昨日の連中が捕まえてきた魔狼の悪魔化防止の魔導陣をかける」
「魔狼……?」
「そうだ。六人がかりだったそうだ」
「駆除はしないんですか?」
「若い個体だ。繁殖すれば、悪魔化を防げる」
イリアと並んで本部の食堂に向かう。
「ヴェーラには、連唱をしてもらう」
「!!」
「俺と合わせてもらう」
「……はい」
大丈夫だろうか……
また詠唱が、レシピになったらイリア師は合わせられるだろうか?
「最初は見学からと思ったが、さっきの魔導銃の威力を見て、気が変わった」
イリアは私の不安に気が付かないように話し始めた。
「部長からも、悪魔化防止の強化は、早いほうが良いと言われている」
「……はい」
私の謎の魔導陣がかけられれば、抉られる可能性は低くなるはず。
「分かりました」
「それが、終わったら——」
「終わったら?」
イリアはふっと笑った。
「それは、そのときのお楽しみだ」
「?」
「お前向けに用意されたやつだ」
食堂に着くと、ブッターブロートとシャシリクを注文した。
「ヴェーラ師。食えるのか?」
イリアが驚いた顔をした。
「所長……ドミトリ師に、肉を食えと言われているんです」
「それはそれは」
イリアは肩をすくめた。
シャシリクにかぶりつく。
悪魔化禁止を破った犯人と、もし遭遇したら……
今の私では、太刀打ちできない。
——肉を食え……
所長の声が懐かしく思い出された。
はい、食べてます。
シャシリクを無理やり詰め込んだ。
午後は、魔獣管理部の魔導部屋に行く。
「ヴェーラ師。ここの魔導部屋は、魔族への強制契約部屋と同じ作りになっている」
「はい」
部屋に入ると、床に魔導陣が刻まれているのに気がついた。
「ここでは悪魔化禁止以外の魔導はかけない」
魔狼は低い唸り声を上げていた。
魔導灯の薄暗い照明が、影を落とす。
「ヴェーラ師。いくぞ」
「はい!」
《一つ、悪魔化しない》
文言はそれだけ。
しかし、開いた魔導陣がその場で霧散した。
「魔導抵抗がすごいだろう。ヴェーラ師、極限まで魔導を研ぎ澄ますんだ」
「はい」
私はまた魔導を左手に通し、魔導陣を開く。
文言を刻む指が、びりびりと痺れた。
「くっ……」
文言が少ない理由が、初めて分かった。
一文字刻むごとに、体中から魔導が根こそぎ吸い取られるような気がした。
さらに体の中の魔導を、絞るようにして左手に集める。
体の中を魔導が流れる感覚が、研ぎ澄まされていく。
「……え?」
いつもと違う。
魔導が、外ではなく内側に沈んでいく。
精神に刻まれた魔導の源流が、記憶の底から蘇っていく。
——あれは、エフロシーニャ師……?
懐かしい師の書斎……
それは記憶の断片が薄れるように、ふっと頭から消えた。
一つ深呼吸をすると、最後の一文字を刻んだ。
「刻めました……」
「よし! 連唱だ」
その様子を見ていたイリアが向かいで魔導陣を開いた。
「「一つ、悪魔化しない」」
ばちばちと音を立てて、魔狼の体に二つの魔導陣が刻まれていく。
匂いがしなかった。
——レシピじゃない?
「あっ……」
目の前が真っ暗になった。
体を駆け巡っていた魔導の流れが途絶えた気がした。
意識が薄れていく。
体が柔らかい布地に触れた。
かすかにイリアの匂いがした。
——私、抱っこされてる……
「ヴェーラ……よく頑張ったね」
記憶の底でエフロシーニャ師のしわくちゃの笑顔が浮かんだ。
——老師……
ふわふわと心地よい揺れの中で、意識を失っていった。
*
「ヴェーラ……」
エフロシーニャ師の書斎。
羊皮紙と古ぼけた魔導書の懐かしい匂い。
「……老師」
懐かしさで目頭が熱くなる。
私の目の前のテーブルに魔導係数測定機があった。
十二歳で初めて魔導係数を測ったときだ。
「……11.2ということに……しておきましょう」
——しておきましょう? 本当は、違うの……?
でも、そんな記憶はなかった。
私の背後に誰かの気配があった。
魔導師のローブを着た誰かがいた。
老師はその誰かと話をしている。
後ろから冷たい男の声が響いた。
「……大丈夫なのか?」
そうだ、誰かあのときにいた。
私は振り返った。
だけど、はるか上にあるその顔は、ぼやけて見えない。
「……鍵をかけます」
——鍵……?
「魔導陣ではありません。この地方に伝わる、まじないの一つです」
「まじない……?」
そうだ、あのとき師は私に何かをした……
「……ならば、学院への入学は、問題ないな?」
後ろから男の声が響いた。
「ええ。制御を学ばなければなりません」
私の向かいのソファに腰掛ける師の手に、何かが光った。
「ヴェーラ……」
師の声は、どこまでも優しかった。
「制御ができたとき、開錠できるでしょう……」
そこで私の記憶は途切れた。
・
・
・
・
何か夢を見ていた。
けど、思い出そうとすると頭の中が疼いて、思わず声が出てしまう。
「ヴェーラ……起きたか」
「……イリア師? ここは?」
私は寝台の上で身を起こした。
消毒薬と薬草の匂いがつんと鼻を刺した。
「ヴェーラ師。まだ無理はしないで」
私の枕元に、回復魔導師の紋章をつけた女性魔導師がいた。
魔導医……じゃ、ここは医務室?
「まだ、魔導の流れが不安定です」
「……魔狼は? っ……!」
左手の疼きが襲ってきた。
「ヴェーラ師、深呼吸をして、魔導を体全体に流して」
「はい……」
目を閉じて全身の力を抜くと、左手の痛みが和らいできた。
「魔狼は無事、悪魔化阻止ができた……」
イリアは部屋の隅の椅子に、腰掛けていた。
「ヴェーラなら、行けると思った。部長から大目玉だな、これは」
でも、ほっとしたようにそう言った。
「では、先生。よろしくお願いします」
「今晩は、こちらで経過観察をします」
「ヴェーラ……済まない」
「イリア師……」
イリアは頭を下げて病室を出ていった。
もう窓の外は、真っ暗だった。
「一過性の魔導素低下症です」
「……はい」
「悪魔化禁止の魔導に、必要以上に魔導素を使いましたね」
魔導銃の訓練でも、そうだ……
あの大きな弾痕を思い出した。
「……制御って、どうやったら、できるんですか?」
ふと声に出た。
何か夢の中で、そのような言葉が出てきたような気がした。
「……魔導の制御ですか?」
魔導医は困惑した声を出した。
「人は、持っている魔導素以上のものを出せません」
そして考え込んだ。
「無理をしすぎたのです」
「……でも、魔導銃が暴発した」
「……」
「あれは制御できなかったからでは、ないのですか?」
「ご存じでしょうが……」
魔導医はゆっくりと言い聞かせるように話し出した。
「……魔導係数はあくまで、平均値です」
「はい」
「ヴェーラ師は、一点突破型です。一瞬にして大量の魔導素を出し切ったのです」
「……」
「制御というならば、過集中が原因かもしれません」
悪魔化した魔狼、魔熊、今回の悪魔化禁止の魔導陣……
そのときの詠唱はレシピじゃなかった。
匂いがしなかったから、分かる。
体が動かなくなったのも同じ。
所長に背負われた魔狼のときも……
さっきはイリアが抱っこして運んでくれた。
それを思い出すと、顔が赤くなった。
でも……
——鍵……?
なぜだか、その単語が頭に残っている。
「今後、魔導素欠乏によるショックを起こす可能性があります」
「……はい」
「薬を飲んで一晩寝れば、魔導素の流れは落ち着くでしょう」
「……分かりました」
「リラックスですよ。ヴェーラ師」
「……はい」
私は苦い薬湯を飲まされた。
でも、飲みきって寝台に横たわると体の奥から温まってくるのを感じた。
左手の痛みも楽になっていた。
それと同時に眠気が襲ってくる。
あくびが出る。
「ヴェーラ師、お休みなさい」
そういえば、さっき気を失っていたときに、懐かしいエフロシーニャ師の夢を見たような気がした。
師だったら、制御の仕方について何かわかるだろうか?
でも、疲れがそれ以上の思考を妨げた。
——鍵……
その言葉だけが、まどろみの中に落ちていった。




