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TAROT BREAKER ― 星の言霊使い ―  作者: 詩韻


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第41話『揺れる輪郭、ほどける声 ― 自分に届く言葉(Temperance)』

Ⅰ. 普通すぎる五月


穏やかに見える日常だった。


いや、そう見えていただけなのかもしれない。


五月の空気は、柔らかく肌を包んでいた。

強すぎない日差しがキャンパスの石畳を白く照らし、風が渡るたびに、木々の葉がささやくような音を立てる。


どこかで小鳥が鳴いていた。

名前も知らない花の、甘く控えめな香りが鼻先をかすめる。


季節だけは、何事もなかったかのように流れていた。


講義室も、いつもと変わらない。


白い壁。

整然と並んだ机。

教科書の紙の匂い。

窓辺から差し込む光。

学生たちのざわめき。


ありふれた風景だった。


そのすべてが、あまりにも普通すぎて、逆に息苦しかった。


昨日と同じ場所に立っているはずなのに、昨日と同じ自分ではいられない。


その違和感だけが、胸の奥に残っていた。


講義室を出ようとした時だった。


「シオンくん」


背後から声をかけられ、オレは振り返った。


「桜蔭……」


そこに立っていたのは、桜蔭だった。



Ⅱ. 香煙のような彼女


「久しぶりだな。最近、欠席が多かっただろ?」


オレがそう声をかけると、彼女は表情をほとんど変えずに答えた。


「仕事が忙しかったから」


その声は、いつも通り穏やかだった。


けれど、彼女の周囲だけ空気が違う。


すれ違うほどの距離で、フランキンセンスの香りが漂った。

甘さより、祈りに近い。

教会の奥で静かに揺れる香煙のような、澄んだ匂い。


桜蔭は、目立とうとしていないのに人の視線を集める。

言葉は多くないのに、なぜか続きを聞きたくなる。


そういう不思議な引力を持っていた。


「最近、配信してないのね」


「えっ」


思わず声が裏返った。


「なんで知ってるんだ?」


桜蔭は視線を逸らした。

光の中で、横顔が淡く染まって見えた。


「……私も、フォローしてるから」


「え?」


「別垢でね」


「別垢?」


「本垢は仕事用よ。あのOUINが、無名の占い配信者をフォローしているなんて知られたら、余計な憶測を呼ぶでしょう?」


「そ、そうだよな……」


オレは苦笑いするしかなかった。


胸の奥が、ちくりと痛む。


分かっている。

桜蔭が本気で馬鹿にしているわけではない。


それでも、今のオレには少し刺さった。


無名の占い配信者。


確かに、そうなのかもしれない。


配信を止めた。

言葉も止めた。

自分が何者なのかさえ、輪郭がぼやけ始めている。


「何かあったの?」


桜蔭の声が、静かに落ちてきた。


「毎日配信してたじゃない」


「よく知ってるな」


オレはまた苦笑した。


喉の奥で、言葉が引っかかる。


星界のこと。

しおぽんのこと。

戦いのこと。

澪のこと。


どれも、ここで説明できるものじゃなかった。


「課題が溜まってて、試験勉強とか……」


「嘘が下手ね」


桜蔭は責めるでもなく、ただこちらを見ていた。


「言えない事情があるなら、それでいいわ」


「……」


「シオンくんは、案外顔に出るタイプだったのね。配信の時はポーカーフェイスなのに」


彼女の口元が、わずかに緩む。


「そういう人間臭いところ、嫌いじゃないわ。ふふ」


「なっ!」


思わず声が大きくなった。


周囲の視線を感じて、オレは慌てて咳払いをする。


桜蔭は楽しげに目を細めた。


「冗談よ」


「冗談には聞こえなかったけど……」



Ⅲ. 止まること


「たまにはいいんじゃない?」


「何が?」


「止まること」


桜蔭の声が、少しだけ深くなった。


講義室のざわめきが遠のく。

窓から入る風が、彼女の髪を静かに揺らした。


「どんな事情かは知らない。でも、よっぽどのことなんでしょう?」


「……」


「あなたの言葉には、揺らぎがある」


桜蔭は、まっすぐオレを見た。


「だからこそ、人の魂に届くのよ」


その言葉は、大きな声でも、励ましでもなかった。

ただ、静かな事実として置かれた。


「それで救われる人も、確かにいる」


胸の奥が、熱くなった。


嬉しいのか。

痛いのか。

自分でも分からない。


「でも今は、人に響かせるより先に——」


桜蔭は視線をやわらげた。


「自分自身に、響かせる時なのかもしれないわね」


オレは言葉を失った。


ずっと誰かに届けようとしてきた。


大丈夫だよ。

前に進めるよ。

あなたは、ひとりじゃない。


でも、自分自身には、何も言えていなかったのかもしれない。


「それより」


桜蔭は急に、いつもの調子に戻った。


「いつも一緒のガールフレンドは、今日は休みなの?」


「ガールフレンド!?」


声が跳ね上がる。


桜蔭は首を傾げ、何でもない顔で言った。


「あら。二人は付き合ってるんじゃないの?」


「ち、違うよ。澪はただの幼馴染だ。今日は用事があって休み」


「幼馴染ね」


桜蔭は意味ありげに微笑んだ。


「シオンくんがそう思っているだけかもしれないわよ。彼女は、それ以上の感情を抱いているかも」


澪の顔が脳裏に浮かんだ。


怒った顔。

呆れた顔。

当たり前のように隣にいる顔。


そして時折、何かを言いかけて、結局飲み込むような顔。


胸が小さく揺れた。


「じゃあね、シオンくん」


桜蔭が背を向けようとした、その瞬間だった。


廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。


次の瞬間、鈍い衝突音が響いた。



Ⅳ. ぶつかった光


「ご、ごめんなさい!」


アマトだった。


勢いのまま桜蔭にぶつかり、彼女の身体が傾く。

アマトは反射的に腕を伸ばし、桜蔭を支えた。


まるで、抱きとめるような形になった。


「アマト!」


「桜蔭!」


オレが駆け寄るより早く、桜蔭はアマトの腕から離れ、乱れた髪を指で整えた。


「大丈夫よ」


声は落ち着いていた。


けれど、一瞬だけ足元がふらついたのを、オレは見逃さなかった。


「桜蔭さん……本当にすみません。大丈夫ですか?」


「忘れ物を取りに戻ろうとしていて……」


アマトの声が震えていた。


桜蔭はゆっくりと顔を上げ、アマトをまっすぐ見つめる。


「大丈夫。あなたは……アマトさんよね?」


「えっ、覚えててくれたんですか?」


アマトの表情が、ぱっと明るくなる。


桜蔭は背筋を伸ばし、凛とした声で言った。


「ええ。それと、桜蔭でいいわ。同い年でしょう?」


「で、でも……」


アマトは困ったように視線を伏せた。


桜蔭は、そんなアマトを静かに見つめていた。


値踏みするような目ではなかった。


輪郭。

姿勢。

視線の揺れ。

隠そうとしているもの。

それでも隠しきれないもの。


それらを、静かに見ている目だった。


「立ち姿が綺麗ね」


「え……?」


「人の目を引く空気を持ってる」


アマトは戸惑い、服の端をぎゅっと握った。


「モデル、してみない?」


「わ、私が……ですか?」


「ええ」


桜蔭は静かに頷いた。


「今度の撮影で、“強さと儚さが同じ場所にある人”を探していたの」


「でも……」


アマトの声が小さくなった。


喜んでいる。


それは分かった。


名前を覚えてもらえたこと。

自分を見て、声をかけてもらえたこと。

綺麗だと言われたこと。


その全部が、アマトの瞳の奥で一瞬だけ光った。


けれど、その光はすぐに揺らいだ。



Ⅴ. 答え合わせされる怖さ


アマトは服の端を握る指に、さらに力を込めた。

白くなるほど、ぎゅっと。


「私、そういう場所に立っていいのか、分からないんです」


声は震えていた。


周囲のざわめきに紛れてしまいそうなほど、小さい。


「見られるのが、怖い時があって」


アマトは笑おうとした。

けれど、その笑顔はうまく形にならなかった。


「綺麗って言われるのは……本当は、嬉しいんです」


その一言を口にするだけで、胸の奥から何かを引き剥がしているようだった。


「でも、嬉しいって思ったあとに、いつも怖くなる」


桜蔭は何も言わなかった。


急かさない。

否定しない。

簡単な励ましで塗りつぶさない。


ただ、アマトの沈黙ごと受け止めていた。


アマトは、ゆっくりと言葉を続けた。


「写真に残ったら、誰かに答え合わせされる気がして」


その一言に、オレは息を呑んだ。


答え合わせ。


誰かに見られる。

誰かに決められる。

誰かに分けられる。


そのたびに、自分の中の大切な何かを、勝手に採点されるような感覚。


アマトは、それをずっと抱えてきたのかもしれない。


「私のことで、桜蔭さんの仕事に迷惑がかかったら……」


アマトの声はそこで途切れた。


言いきれなかった言葉が、足元に落ちる。


自分が傷つくことより、誰かの迷惑になることを先に心配している。

そのことが、余計に痛々しかった。


桜蔭は半歩だけ距離を詰めた。


周囲には届かないくらいの声で、静かに言う。


「知らずに声をかけているわけじゃないわ」


アマトの指先が止まった。


「……え?」


「あなたが、どこで立ち止まってきたのか。全部を語ってもらわなくても、見えるものはある」


桜蔭の声はやわらかかった。

けれど、そこには揺るがない芯があった。


「でも、私はそれを勝手に名前で呼ぶつもりはない」


アマトの瞳が揺れる。


「あなたを説明する言葉が欲しいわけじゃないの」


「説明する、言葉……」


「そう」


桜蔭は頷いた。


「私は、誰かが決めた“正解の形”を撮りたいわけじゃない」


その言葉は、まっすぐだった。


「あなたがそこに立つときに生まれる光を見たいの」


アマトは何も言えなかった。


桜蔭は、きっと分かっている。


けれど、それを暴かない。

触れているのに、踏み込まない。

知っているのに、決めつけない。


その距離感が、驚くほど静かだった。



Ⅵ. 名前をつけないまま


「もちろん、無理にとは言わないわ」


桜蔭は言った。


「嫌なら断っていい。怖いなら、やめていい。あなたに無理をさせるつもりはない」


その言葉を聞いた瞬間、アマトの肩から力が抜けた。


逃げ道を与えられて、初めて前を向ける人のように。


「でも」


桜蔭は、そこで少しだけ声を強くした。


「“私なんかじゃ駄目だ”という理由で断るなら、私は止める」


アマトが顔を上げた。


「……どうして」


それは、問いというより、心の奥から漏れた声だった。


どうして、そんなふうに言えるのか。

どうして、私を選べるのか。

どうして、私でいいと思えるのか。


その全部が、声にならないまま滲んでいた。


桜蔭は迷わず答えた。


「あなただからよ」


短い言葉だった。


けれど、その一言には、説明よりも強いものがあった。


アマトの瞳が、静かに揺れる。


「私、自信なんてないです」


「ええ」


「人前に立つのも、怖いです」


「ええ」


「綺麗に見られたいって思う自分も、まだ少し怖いです」


桜蔭は、わずかに目を細めた。


「それでもいいわ」


アマトの唇が震えた。


「怖いままでも……いいんですか?」


「いいわ」


桜蔭は即答した。


「怖さまで消してから立とうとしなくていい。隠してから笑わなくていい。完璧に強くなってからじゃなくていい」


アマトは、服の端を握っていた手をゆっくり緩めた。


「……私で、本当にいいんですか?」


声はまだ震えていた。


けれど、さっきとは違う。


逃げるための震えではなく、扉の前に立つ人の震えだった。


桜蔭は当然のように答えた。


「ええ」


そして、少しだけ微笑む。


「あなたがいいの」


その瞬間、アマトの表情が崩れそうになった。


泣きそうなのか。

笑いそうなのか。

本人にも分からないような顔だった。


でも、確かにそこには光があった。


強くはない。

まぶしくもない。


けれど、消えずに残る小さな光。


桜蔭はそれ以上、何も言わなかった。


言葉を重ねすぎないことが、たぶん一番の優しさだった。



Ⅶ. あなただから


「さ、あっちで詳しい話をしましょう。アマト」


「は、はい……」


アマトは一歩踏み出しかけて、慌てたように足を止めた。


「忘れ物だけ、取ってきます」


「ええ。待っているわ」


アマトは小さく頭を下げ、講義室の中へ戻っていった。


桜蔭は何も言わなかった。

ただ、その背中を静かに見送っていた。


やがて、アマトが戻ってくる。


「お待たせしました。お、桜蔭……」


「ふふ。敬語もやめなさい」


桜蔭は、少しだけ笑った。


「行きましょう、アマト」


アマトはまだ戸惑いながらも、桜蔭の後をついていった。


歩き出す前に、アマトは一度だけ自分の服の裾を見た。

それから、少しだけ背筋を伸ばした。


その仕草が、妙に胸に残った。


怖さが消えたわけじゃない。

自信が突然生まれたわけでもない。


それでも、そこに立っていいと言われた人の背中になっていた。


桜蔭が何かを言うたび、アマトは小さく頷いている。


その横顔には、まだ不安が残っていた。


けれど、それだけではなかった。


ほんの少しだけ、自分の輪郭を許されたような顔をしていた。


去り際に、桜蔭がこちらを振り返る。


「シオンくん」


「……え?」


「あなた自身の言葉を、大切にしなさいよ」


その声は、さっきよりずっとやわらかかった。


二人の背中が遠ざかっていく。


講義室のざわめきも、廊下の足音も、外の小鳥の声も、すべてが薄い膜の向こう側にあるように感じられた。


澪はいない。

配信も止まっている。

画面の向こうの誰かの声も、今は聞こえない。


残ったのは、桜蔭の言葉だけだった。


――あなた自身の言葉を、大切にしなさいよ。



Ⅷ. オレ自身の言葉


誰かを救う言葉。

誰かを照らす言葉。

誰かの痛みに触れる言葉。


オレはずっと、それを外側に向けていた。


大丈夫だよ。

前に進めるよ。

あなたは、ひとりじゃない。


そう言うたびに、誰かの表情が少しだけほどけるのを見てきた。


だから、言葉には力があると思っていた。


でも。


その言葉を、自分に向けたことはあっただろうか。


普通には戻れないと知った朝。

配信を止めた夜。

澪の顔を思い出すたびに胸が軋む時間。


その全部に、オレは何を言えばいいのか分からなかった。


大丈夫だよ。


そう言えばいいのかもしれない。


でも今のオレには、その言葉がまだ遠かった。


嘘にはしたくなかった。

慰めにもしたくなかった。


誰かに差し出してきた言葉だからこそ、自分にだけ雑に使いたくなかった。


春の残り香が漂う廊下で、オレは小さく息を吐いた。


アマトは、自分の怖さを抱えたまま歩き出した。

桜蔭は、それを名前で縛らず、ただそこに立っていいと言った。


なら、オレは。


オレは、自分の痛みに何という言葉を渡せるのだろう。


答えはまだ出ない。


けれど、逃げるように閉じていた胸の奥で、何かがかすかに動いた気がした。


「……オレ自身の言葉か」


口にした瞬間、その言葉はまだ頼りなかった。


けれど、消えなかった。


頼りないまま、そこに残った。


まるで、まだ名前を知らない花の香りみたいに。


五月の風が、廊下を静かに抜けていく。


その中でオレは、もう一度だけ小さく呟いた。


「探さなきゃな」


誰かに届く前の、オレ自身に届く言葉を。

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