第42話 『呼ばないなら、私が呼ぶ ― 忘れた約束が目を開ける夜(The Moon)』
Ⅰ. 遠い食卓
配信をしない日は、世界が少し遠のく。
夕飯の食卓に座っていても、まるで映画館の暗闇にひとり取り残されているような気がした。
目の前には、湯気の立つ味噌汁がある。
焼き魚の香ばしい匂いもする。
茶碗を持つ指先には、白米の熱がちゃんと伝わっている。
なのに、味がしなかった。
父さんが何かを話していた。
母さんがそれに笑っていた。
箸が皿に触れる音。
テレビから流れる知らない誰かの声。
台所の換気扇が低く回る音。
全部、聞こえている。
でも、その全部が、薄い膜の向こう側にあった。
そこにいるはずのオレだけが、別の場所からこの食卓を眺めている。
決められたエンディングへ向かって勝手に進んでいく映画を、ただぼんやり見ている。
最近、周りの景色がスクリーンみたいに見えることがある。
家族も。
大学も。
講義室も。
すれ違う人たちの笑い声も。
みんなはちゃんと今日を生きて、明日へ向かって歩いている。
オレだけが、上映の終わった映画館にまだ座っている。
そんな気がした。
部屋に戻ると、五月の夜気が窓の隙間から忍び込んでいた。
昼間のぬくもりをわずかに残した風。
けれど、肌に触れるとどこか冷たい。
机の上には、閉じたままのタロットカード。
充電中のスマホ。
通知の来ない配信アプリ。
黒く沈んだ画面に映るオレの顔は、自分で思っていたより疲れて見えた。
灯りを落とし、窓辺に腰を下ろす。
夜空には、いくつかの星が静かに瞬いていた。
その光を眺めていると、昼間の出来事がゆっくり戻ってくる。
桜蔭の声。
フランキンセンスの香り。
講義室の紙の匂い。
窓から差し込んだ白い光。
――あなた自身の言葉を、大切にしなさいよ。
その言葉だけが、まだ耳の奥に残っていた。
誰かを救う言葉。
誰かを照らす言葉。
誰かの痛みに触れる言葉。
オレはずっと、それを外側へ向けてきた。
大丈夫だよ。
前に進めるよ。
あなたは、ひとりじゃない。
そう言えば、誰かの表情が少しだけほどけることがあった。
だから、言葉には力があると信じていた。
でも。
その言葉を、自分自身に向けたことはあっただろうか。
普通には戻れないと知った朝。
配信を止めた夜。
澪の顔を思い出すたびに、胸の奥が小さく軋む時間。
そのすべてに、オレはまだ、何と言葉をかけていいのか分からなかった。
⸻
Ⅱ. 迷子の星
「シオンさまー」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、しおぽんが窓辺へとことこと歩いてきていた。
首元の小さな鈴が、ちりん、と澄んだ音を立てる。
「星が走ったの!」
「流れ星のこと?」
「たぶん、それなの!」
しおぽんは両耳をぴょこんと立てて、夜空を見上げた。
「でもね、迷子みたいだったの」
「迷子?」
「あっちに行きたいのに、どこに行けばいいか分からない星みたいだったぴょん」
その言葉が、胸の奥を小さく刺した。
しおぽんは、こういう時がある。
ただ可愛い顔をして、オレが見ないふりをしていた場所を、何気なく指さしてくる。
「あれは捕まえられないよ」
オレは少し笑って答えた。
「流れ星は、願い事を乗せて、誰かのところへ向かっているんだ」
「願い事を?」
「うん」
「じゃあ、シオンさまと一緒だぴょん」
「オレと?」
しおぽんは、まっすぐにオレを見た。
「シオンさまは、いつもみんなの本当の心にある願いに、言葉を届けてるの」
その言葉が、夜の静けさに落ちた。
昼間、アマトが服の裾を握りしめていた指先を思い出す。
桜蔭に「怖いままでもいい」と言われて、少しだけ背筋を伸ばした後ろ姿を思い出す。
桜蔭は、アマトの恐れを消したわけじゃない。
ただ、そこに立っていいと言った。
その一言だけで、人は少し歩き出せることがある。
「しおぽんも、届ける係になりたいな」
しおぽんが、ぽつりと零した。
「もう届いてるよ」
オレはそっと、しおぽんの頭に手を置いた。
ふわりとした毛並み。
小さな体温。
鈴の音が、胸の奥の静けさを優しく揺らす。
「しおぽんの星の声も、ちゃんとみんなに届いてる」
少し間を置いて、続けた。
「もちろん、オレにもね」
そう言った瞬間、オレの声が少しだけ遠く聞こえた。
いつもなら、最後に「大丈夫だよ」と続ける。
でも今夜は、その言葉を簡単に使いたくなかった。
誰かに差し出してきた言葉だからこそ、自分にだけ雑に渡したくなかった。
しおぽんは、きょとんとした顔でオレを見上げていた。
それから、ほんの少しだけ耳を伏せる。
まるで、オレが言わなかった言葉まで、星の音として聞こえてしまったみたいに。
「なんだか照れるの〜」
しおぽんはすぐに笑った。
耳と尻尾が、ぴょんぴょん揺れる。
その明るさに、オレは少しだけ救われた。
世界はまだスクリーンみたいだった。
それでも、しおぽんの鈴の音だけは、確かにこちら側に響いていた。
「しおぽん、少し眠くなってきた……」
「うん。今日はもう寝ようか」
ベッドに横になると、しおぽんはすぐに丸くなった。
小さな身体を抱き寄せると、腕の中にやわらかい温度が収まる。
耳元で、小さな寝息が聞こえた。
窓の外では、夜が静かに深くなっていた。
たまには止まることも必要か。
桜蔭の言葉を思い出す。
止まること。
響かせること。
自分自身の言葉を、大切にすること。
簡単に分かったふりはできない。
それでも、あの言葉は消えずに残っている。
それから、アマトの顔が浮かんだ。
怯えながらも、桜蔭の後をついていった横顔。
まだ不安そうで、それでも少しだけ自分の輪郭を許されたような表情。
「桜蔭とアマト……あの二人、案外気が合うのかもな」
声に出してみると、少しだけおかしかった。
ぶつかっただけの出会いなのに。
まるで最初から、どこかで交わることが決まっていたみたいだった。
夜空を見上げる。
さっきの流れ星は、もうどこにも見えない。
でも、願いを乗せた光が本当に誰かのところへ向かうのなら。
オレの言葉は、今どこへ向かっているんだろう。
その時、不意に桜蔭の別の言葉が戻ってきた。
――いつも一緒のガールフレンドは、今日は休みなの?
「ガールフレンドか……」
小さく呟いた声が、夜に溶ける。
澪の顔が浮かんだ。
怒った顔。
呆れた顔。
何か言いたそうにして、結局飲み込む顔。
昔から当たり前みたいに隣にいた顔。
「澪はただの幼馴染さ」
自分に言い聞かせるように、そう言った。
「澪も、きっとそう思ってる」
きっと。
そう続けたはずなのに、胸の奥だけが少し遅れて揺れた。
答えの出ない言葉が、夜空に浮かんだまま消えない。
しおぽんの寝息が、腕の中で小さく響いている。
鈴が、かすかに鳴った。
オレはもう一度、窓の外を見た。
世界はまだ、遠いスクリーンみたいだった。
それでも今夜は、その向こう側からではなく、少しだけこちら側で星を見ている気がした。
その時だった。
――シオン。
誰かの声が、胸の奥に直接触れた。
音ではない。
耳に届いたわけでもない。
それなのに、確かに聞こえた。
しおぽんの耳が、眠ったままぴくりと揺れる。
鈴が一度だけ、小さく震えた。
オレは息を止めた。
誰の声かなんて、考えるまでもなかった。
「澪……?」
そこにはいないはずの澪の声が、確かにオレを呼んでいた。
⸻
Ⅲ. 閉じたノート
同じ夜。
澪もまた、眠れずにいた。
部屋の灯りは消してある。
カーテンの隙間から入り込む月明かりだけが、机の上をうっすらと白く照らしていた。
スマホは伏せたまま。
通知はない。
けれど、胸の奥だけがずっと騒がしかった。
シオン。
名前を思い浮かべただけで、喉の奥が少し詰まる。
大学を休んだのは、体調が悪かったから。
そう言えば、たぶん嘘ではない。
でも、本当はそれだけじゃなかった。
最近、シオンの顔を見るのが少し怖い。
いつものように隣に立てる気がしない。
いつものように呆れたふりをして、「ちゃんと寝なよ」と言える気がしない。
言ってしまいそうになるのだ。
戻ってきて。
置いていかないで。
私の知らないところへ行かないで。
そんな、幼馴染の一言では済まない言葉を。
「……何、考えてんのよ」
澪は小さく呟いて、机の引き出しに手をかけた。
ぎい、と古い音が鳴る。
その音だけで、胸の奥が少し冷えた。
奥にしまっていたノートが、そこにあった。
薄い表紙。
角の潰れた紙。
子どもの頃の、何の変哲もないノート。
ただ、それを見つけた日から、澪は何度も引き出しの奥へ押し戻していた。
開いてはいけない気がした。
でも、閉じていても、その存在を忘れられなかった。
指先で表紙に触れる。
紙は少しざらついていた。
乾いた紙と、古い引き出しと、かすかに残った鉛筆の匂いがする。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
懐かしい。
そう思った瞬間、澪は唇を噛んだ。
懐かしいはずがない。
覚えていないのだから。
ゆっくりとページを開く。
幼い文字が並んでいた。
まっすぐではない。
大きさもばらばらで、ところどころ消しゴムの跡が黒く滲んでいる。
それでも、その文字を見た瞬間、指が先に覚えていた。
次のページに何があるのか。
どこで文章が途切れているのか。
どの一文だけは、見てはいけないのか。
分かってしまう。
そんなはずないのに。
ページの端に、小さな星の絵が描かれていた。
五つの角がうまく結べていない、不格好な星。
その下に、震えたような字で書いてある。
――こんや しおんが ほしの
そこから先は、線が途切れていた。
まるで、誰かが続きを書こうとして、途中で息を止めたみたいに。
澪の呼吸も、そこで止まった。
ほしの。
星の、何。
星の話。
星の国。
星の声。
頭の中に、知らないはずの言葉が浮かびかけて、澪は慌てて首を振った。
「違う……」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
ただ、その言葉に触れたら、今の自分の形が崩れてしまう気がした。
ページをめくる。
次のページには、たった一文だけが残っていた。
――まんげつのよる また きかせて
「また……」
その一文字が、妙に痛かった。
待っていた。
そう思った瞬間、胸の奥が勝手に頷いた。
記憶はない。
それなのに、待っていた痛みだけは、なぜか残っていた。
シオンが話してくれる何かを。
星のどこかにある、遠い国の物語を。
子どもの自分は、何度も待っていたのだろうか。
月明かりが、ノートの上に落ちている。
白い紙の上で、幼い文字が少しだけ滲んで見えた。
澪は気づかないうちに、ノートの端を握りしめていた。
シオンは昔から、変な話をする子だった。
誰も見えないものを見ているような顔をして、
誰も聞こえない音を聞いているような顔をして、
それなのに、澪には当たり前みたいに笑っていた。
だから隣にいた。
放っておけなかった。
危なっかしかった。
呆れるくらい優しかった。
そしてたぶん、昔の自分は。
その話の続きを、誰よりも待っていた。
「……シオン」
声に出した瞬間、部屋の空気が変わった。
窓の外で、風が止まる。
カーテンの端が、揺れたまま動かなくなる。
澪は息を呑んだ。
今、自分は何を呼んだのだろう。
幼馴染の名前。
それだけのはずだった。
なのに、その名前は、胸の奥のもっと深い場所から出てきた気がした。
呼べば、何かが戻ってきてしまう名前。
「……やだ」
澪はノートを閉じようとした。
でも、指が動かなかった。
視界の隅で、ページの白さがかすかに揺れる。
何も書かれていないはずの余白に、薄い線が浮かんでいた。
鉛筆の跡ではない。
インクでもない。
月明かりが、文字の形をしているように見えた。
――呼ばないなら
澪の背筋に、冷たいものが走る。
「……何、これ」
文字は、ゆっくりと続いた。
――私が、呼ぶ
その瞬間、胸の奥で誰かが微笑んだ気がした。
澪はノートから手を離した。
けれど、目を逸らせなかった。
知らないはずの名前が、喉の奥まで上がってくる。
言ってはいけない。
まだ、言ってはいけない。
そう思うのに。
唇が、勝手にその音を覚えていた。
「エ……」
そこで、澪は両手で口を押さえた。
部屋は静かだった。
スマホは伏せられたまま。
通知もない。
誰もいない。
それなのに、耳元でひどく懐かしい声が囁いた。
――まだ、思い出さなくていい。
やさしい声だった。
けれど、そのやさしさが、ひどく恐ろしかった。
澪は震える指でノートを閉じた。
閉じたはずなのに、最後の文字が瞼の裏に焼き付いて離れない。
呼ばないなら、私が呼ぶ。
澪は窓の外を見た。
夜空には、流れ星の跡のような細い光が、まだ消えずに残っていた。
「シオン……」
今度の声は、さっきより小さかった。
幼馴染を呼ぶ声なのか。
忘れた約束を呼ぶ声なのか。
澪には、まだ分からなかった。
ただ、胸の奥で。
自分ではない誰かが、静かに目を開けた気がした。
⸻
Ⅳ. 月の底
どこでもない場所に、月の欠片が沈んでいた。
空もない。
地面もない。
ただ、黒い水面のような闇が広がり、その上に砕けた星の光だけが浮かんでいる。
その中心で、ひとりの女性が膝をついていた。
白い指が、闇の水面を掻く。
爪の先に星屑のような光が引っかかっては、すぐに消えていく。
「……止まる猶予さえ、もう与えてくれないのね」
声は震えていた。
怒りではない。
悲しみでもない。
その二つが、長すぎる時間の中で混ざり合い、もう元の形を失っていた。
女はゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、澪と同じ光があった。
けれど、澪のものよりずっと深く、ずっと暗い。
長い夜をすべて閉じ込めたような眼差しだった。
「世界はもう、決められた未来へ向かって動き出している」
水面に、少年の名前が浮かぶ。
シオン。
その文字を見た瞬間、女の指が震えた。
「見せてちょうだい、シオン」
壊れた鈴のような、静かな笑い声が闇に落ちる。
「あなたは、まだ私を呼ばない」
黒い水面に、爪が深く突き立つ。
波紋が広がり、遠くで星の光がひとつ、音もなく潰れた。
「ずっと待っていたのに」
女は、かすかに笑った。
その笑みは、泣き顔に似ていた。
「澪は、まだ知らない」
水面に映る月が、細く揺れる。
「でも、私は知っている」
息を吸うたび、胸の奥で星がひとつ、またひとつ、潰れていく音がした。
「あなたの言葉がなければ、私はここから出られない」
女は闇の中に手を伸ばす。
その指先が掴もうとしているのは、シオンそのものではなかった。
シオンの名前。
シオンの声。
シオンが誰かに差し出してきた、すべての言葉。
大丈夫だよ。
前に進めるよ。
あなたは、ひとりじゃない。
そのどれもが、遠い光のように水面へ浮かんでは消えていく。
女の唇が、ゆっくりと震えた。
「どうして」
声が、水底へ沈む。
「どうして、私にはくれないの」
闇が、静かに波打った。
「呼ばないなら」
女は、水面に映るシオンの名をそっと撫でた。
「私が、呼ぶ」
そして、名前を口にする。
「シオン……」
一度目は、祈りのように。
「シオン……」
二度目は、縋るように。
「シオン……」
三度目は、呪いのように。
女はゆっくりと目を開いた。
その名は、まだ語られない。
けれど、星の底で――
長い間、呼ばれずにいた何かが、確かに目覚め始めていた。




