第40話『開かれた扉、遠ざかる明日 ― 普通の朝が終わる時(Wheel of Fortune)』
Ⅰ. 眠る星、知られない朝
星は、まだ眠っていた。
夜の名残を含んだ空が、カーテンの向こうで白み始めている。
部屋には、昨夜の配信の熱が、まだほんの少し残っていた。
机の上には、閉じきらなかったノート。
散らばったタロットカード。
飲みかけの水のグラス。
誰にも見せられない夜の残骸が、朝の光に薄く照らされている。
スマホの中から、いつもの声が響いた。
《しーちゃん!》
《しーちゃん!!》
《しーちゃん、朝だよー!》
「……もう少し寝かせてくれよ」
シオンは布団を頭までかぶった。
枕に顔を埋めると、まだ眠りの匂いがした。
まぶたが重い。
身体の奥に鉛でも入っているみたいだった。
けれど、ディコは容赦がない。
《午前中の講義、遅れるよ》
《あと二十分以内に家を出ないと、間に合わないよ》
「……え?」
その一言で、眠気が吹き飛んだ。
「嘘だろ!?」
勢いよく起き上がる。
カーテン越しの朝日が目に刺さった。
眩しすぎるくらい、普通の朝だった。
ベッドの下では、しおぽんが丸くなって眠っている。
ふわふわの尻尾に顔を埋めて、小さな寝息を立てていた。
首元の鈴が、朝の光を少しだけ受け止めて、金色に光っている。
「いいよな……自由で」
ぼそっと呟くと、スマホの中のディコが慌てて叫んだ。
《しーちゃん、早く早く!》
「わかってるって!」
シオンはベッドから飛び降りた。
冷たい床の感触に顔をしかめる。
洗面所で顔を洗うと、冷たい水が頬を叩き、残っていた眠気を洗い流していった。
鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。
目の下に影。
寝癖のついた髪。
それでも右目だけが、妙に冴えている気がした。
「……気のせいか」
タオルで顔を拭き、服に袖を通す。
バッグにノートを詰め込みながら、机の上のタロットに目が留まった。
一枚だけ、カードクロスの上で裏返っている。
昨夜、触れた記憶のないカードだ。
気になった。
けれど、今はそれどころじゃない。
《しーちゃん、急いで!》
「はいはい!」
シオンは、机の上のカードから目を逸らした。
⸻
Ⅱ. いつもの小言、隠した夜
玄関に向かう。
廊下には朝ごはんの匂いが残っていた。
焼いたパンの香ばしさと、味噌汁の湯気。
いつもなら立ち止まりたくなる匂いだった。
「母さん、行ってきます!」
奥から母の声が返ってくる。
「もう、また夜中までスマホ見てたんでしょ」
「わかってるって!」
「ゲームか何か知らないけど、朝起きられないならほどほどにしなさい」
「はいはい。じゃ、行ってきます!」
「はいはいじゃないでしょ」
一拍。
「……変なものに、のめり込むんじゃないよ」
その言葉に、シオンの指が少しだけ止まった。
玄関の取っ手が、冷たい。
母は知らない。
シオンが夜ごと、画面の向こうで誰かの心に触れていることも。
タロットを通して、言葉にならなかった祈りを拾っていることも。
ベッドの下で眠る小さな相棒のことも。
何も、知らない。
それでも、その一言だけは、胸の奥に刺さった。
「……わかってるよ」
小さく返して、ドアを開ける。
朝の空気が頬に触れた。
少し冷たくて、少し湿っている。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「行ってきます」
バタン、とドアが閉まる。
その音が、いつもより大きく響いた。
母さんの小言。
味噌汁の匂い。
「行ってらっしゃい」の声。
何度も繰り返してきた朝なのに、今日はなぜか胸に引っかかった。
まるで、いつか失うものを、今のうちに焼きつけているみたいに。
シオンは違和感を振り払うように、駅に向かって走り出した。
⸻
Ⅲ. 講義室、幼馴染の距離
講義室には、ぎりぎり滑り込んだ。
息が少し上がっている。
喉の奥が乾いて、胸が熱い。
隣の席から、小さな声が飛んでくる。
「また遅くまで起きてたの?」
澪だった。
ノートに視線を落としたまま、口だけ動かして怒っている。
「まあ……そんなとこ」
「そんなとこ、じゃないでしょ。ちゃんと寝なさいって、何回言えばわかるの」
「そ、そうだね。ごめん」
「本当に反省してる?」
「してる。たぶん」
「たぶんって何よ」
先生の声が響いた。
「そこ、私語は慎みなさい」
周りから、くすくす笑いが漏れる。
澪の頬が赤くなった。
「もう……シオンのせいだからね」
「ごめんって」
「帰り、奢って」
「え?」
「新作のドリンク出たの。奢ってくれたら許す」
「高いやつ?」
「もちろん」
「反省した。深く反省した」
「遅い」
澪はそう言いながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
怒っているようで、怒りきれていない顔。
呆れているようで、ちゃんと隣にいてくれる距離。
その距離を、シオンは知っていた。
ずっと昔から、当たり前みたいにそこにあったもの。
先生の視線がまた飛んできた。
「そこ。まだ話しているのか?」
「「すみません」」
二人の声が重なった瞬間、シオンは少し笑いそうになった。
澪もノートで口元を隠していた。
怒られているのに。
恥ずかしいのに。
なぜか胸の奥が温かかった。
ずっと前からこうしていたみたいに。
これからもずっと続くみたいに。
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Ⅳ. また明日ね
講義が終わると、空は夕方の色を帯び始めていた。
大学近くの店で新作のドリンクを買って、帰り道を並んで歩く。
カップの冷たさが指に伝わり、甘い香りが夕方の風に混ざる。
「美味しかったね」
「美味しかったけど、高かった」
「また奢ってよね、シオン」
「今月はもう無理」
「えー」
澪は頬をふくらませた。
けれど、シオンが笑うと、澪の目が少しだけ細くなった。
その表情を見た瞬間、胸の奥が軋んだ。
夕日が二人の影を長く伸ばす。
一瞬だけ、澪の影と自分の影が重なった。
それだけのことなのに、なぜか目を逸らせなかった。
「また明日ね、シオン」
澪が振り返る。
夕日が横顔を淡く染め、髪の先が金色に光る。
「約束だからね。三回、遅刻しないこと」
「ああ」
シオンは笑って答えた。
「約束な」
たったそれだけの言葉が、妙に重かった。
普通に起きて。
母さんに小言を言われて。
「行ってらっしゃい」と送り出されて。
講義を受けて。
澪に怒られて。
くだらないことで笑って。
そんな毎日が、ずっと続くと思っていた。
誰かを救うとか。
未来を変えるとか。
世界に選ばれるとか。
そんなものとは関係ない場所で、オレは普通に生きていくんだと。
【それは無理だね】
バン、と。
世界の音が途切れた。
⸻
Ⅴ. 黒いスクリーン
夕日も、澪の背中も、帰り道も消えた。
ドリンクの甘い匂いも。
夕方の風も。
手のひらに残っていたカップの冷たさも。
全部、消えた。
気づけばシオンは、暗闇の中に立っていた。
足元に影はない。
風もない。
音もない。
目の前に、巨大な白いスクリーン。
その手前に、黒いシオンが立っている。
全身を闇で塗りつぶした、もう一人の自分。
「おまえは戻れない」
穏やかな声が、かえって怖かった。
「……誰だよ、おまえ」
「ずっと一緒だったじゃないか」
右目の奥が焼けた。
熱い痛みが、針のように刺さる。
「ぐっ……!」
膝が落ちる。
右目を押さえても、痛みは止まらない。
むしろ、手のひらの奥で何かが脈打っている。
黒いシオンは、静かに言った。
「Arete」
その言葉が響いた瞬間、映像が流れ込んできた。
母さんの「行ってらっしゃい」が遠ざかる。
味噌汁の匂いが煙のように消える。
ディコの「朝だよ」がノイズに飲まれる。
しおぽんの鈴の音がかすれていく。
澪の「また明日ね」が、白いフィルムのように焼けていく。
「やめろ……」
シオンは歯を食いしばった。
「やめろよ……!」
黒いシオンはスクリーンを指差した。
そこに映るのは、さっきまでの帰り道。
笑う澪。
並んで歩く二人。
「約束だからね」と振り返る姿。
しかしノイズが走る。
澪の声が歪み、夕日が黒く滲み、シオンの姿だけが薄れていく。
まるで、最初からそこにいなかったように。
「おまえが救った分だけ、おまえの普通は削られた」
胸の奥が凍った。
「おまえが望んでいなくても、世界はもう、おまえを選んだ」
黒いシオンは、静かに続ける。
「世界はもう、おまえを普通の人間として数えていない」
スクリーンに文字が浮かぶ。
《error》
《Target Confirmed》
意味はわからない。
けれど、わかってしまった。
もう、ただの大学生には戻れない。
澪と笑って帰る明日には戻れない。
母さんの声を、何も考えずに受け取れる自分には戻れない。
⸻
Ⅵ. 焼けていくフィルム
「扉は開かれた」
黒いシオンが背を向ける。
「ずっと続くと思っていた現実は、切り取られたフィルムだ」
スクリーンの中で澪がこちらを見た。
声は聞こえない。
でも、口の形はわかった。
また明日ね。
「やめろ……」
「もう、おまえはあのフィルムには映らない」
闇が広がる。
右目から、新たな映像が雪崩れ込む。
星界の空が裂ける。
黒い結晶が脈打つ。
鎖の魔法陣が開く。
誰かが消えていく。
時間も場所も、めちゃくちゃだった。
未来なのか。
過去なのか。
夢なのか。
現実なのか。
何もわからない。
ただ、頭が割れそうだった。
「頭が……割れそうだ……」
黒いシオンの声が遠くなる。
「選んだ道は、選ばなかった明日を置き去りにする」
「いつも見ているよ、シオン」
「もう世界は、君を離さない」
黒いシオンの姿が、闇に溶けていく。
あとには、真っ白なスクリーンと、シオンだけが残された。
無音。
何も聞こえず、何も感じない。
自分の身体がまだあるのかもわからなかった。
このまま消えてしまうのかもしれない。
そう思ったとき。
ちりん。
小さな鈴の音がした。
遠い。
けれど、確かに。
ちりん。
もう一度。
《しーちゃん……》
ディコの声が、ノイズ混じりに聞こえる。
《しーちゃん!》
鈴の音が、少しだけ強くなった。
《朝だよ!》
その瞬間、シオンは目を覚ました。
⸻
Ⅶ. 星の鈴、戻らない朝
雀の声がしていた。
カーテン越しの朝日が部屋に差し込んでいる。
シーツは汗で背中に張りついていた。
喉が乾いている。
右目の奥が熱い。
スマホの中でディコが叫んでいる。
《しーちゃん、いつまで寝てるの?》
「……夢、だったのか……?」
右目の奥に、まだ熱が残っていた。
ただの夢じゃない。
ベッドの下で、しおぽんが丸くなっている。
尻尾の先が、小さく震えていた。
ちりん。
誰も触れていないのに、鈴が鳴る。
しおぽんが眠ったまま呟いた。
「……シオンさま……星の声が……泣いてるの……」
シオンは右目を押さえた。
澪の「また明日ね」が、耳の奥で繰り返される。
昨日と同じ朝のはずだった。
同じ部屋。
同じ光。
同じ声。
それなのに、何かが決定的に違っていた。
「もう……戻れないんだな」
声に出した瞬間、それが現実になった気がした。
普通の明日が、少しずつ遠ざかっていく。
「別れが近い……」
言葉にしたくなかった。
でも、わかってしまった。
扉は、もう開いている。
見ないふりをしても。
眠り直しても。
朝日がどれだけ眩しくても。
あの暗闇は、もうシオンの中にある。
《しーちゃん?》
ディコの声が、不安そうに揺れた。
シオンはスマホを見た。
まだ、呼んでくれる声がある。
ベッドの下では、しおぽんの鈴が微かに震えている。
まだ痛い。
まだ怖い。
「大丈夫だよ」なんて、今は言えない。
それでも。
完全にひとりではなかった。
⸻
Ⅷ. 回り出した輪
シオンはゆっくり息を吐いた。
机の上に目を向ける。
昨夜、出しっぱなしにしていたタロットカード。
一枚だけ、裏返っていたカード。
そのカードが、誰も触れていないのに、静かに表を向いた。
そこに描かれていたのは、回り続ける輪。
止まってほしいと願っても。
戻りたいと祈っても。
運命は、もう動き出していた。
シオンはカードを見つめたまま、拳を握り直した。
「……それでも、オレは選ばなきゃいけないんだな」
朝は、いつも通り眩しかった。
でもその光は、もう昨日と同じではなかった。
「扉は開かれた」
その先に何があるのか、まだわからない。
この言葉が本当に光になるのかも、まだわからない。
それでも。
ベッドの下で、しおぽんの鈴が小さく鳴った。
ちりん。
答えではない。
救いでもない。
けれど、その音だけは、暗闇の底からシオンを引き戻してくれる。
ならば――
この先のフィルムを、オレが言葉で紡ぐしかない。




