第35話 『Re:アバーター ― 歪んだ想いは、黒を纏う(The Moon)』
Ⅰ. 歪んだ想い
Re: JUDGEMENT。
――音が、歪んだ。
最初に裂けたのは、空気だった。
耳で聞くはずのない圧が、
内側から、頭蓋を押し広げる。
叫び。
だがそれは声ではない。
空間そのものが、
きしみながら“意味”を持ってしまった。
骨の奥にまで染み込む振動が、
ゆっくりと、確実に、意識を侵していく。
――何かが。
今この瞬間、
初めて呼吸を始めた。
冷たい。
違う。
温度が、存在しない。
そこにあるのに、
触れた感覚だけが欠け落ちる。
シオンの手の中のカードが――
ドクン。
ドクン。
脈打つ。
指先に伝わる鼓動は、
生命のものではない。
重い。
鈍い。
だが確かに、“いる”。
そしてその脈は、
引き寄せられるように、
由依へ――流れ込んだ。
触れていない。
距離もある。
それでも、逃げ場はなかった。
「……っ……」
由依の喉が震える。
だがそれは恐怖ではない。
抗いでもない。
――受け入れている。
もっと深く。
もっと早く。
“それ”に身を委ねようとしている。
もう迷わなくて済むなら。
その一瞬の甘さに、
心が沈む。
カードは完全に由依へと根を下ろし、
内側から、形を作り始める。
骨がきしむような音。
皮膚の下を、何かが這う。
黒が、
にじみ出る。
それは滴ではなく、
意志を持った“広がり”だった。
やがて、それは鎧となる。
黒き憎悪の鎧。
光を吸い込む。
反射しない。
存在しているはずなのに、
輪郭だけが遅れてついてくる。
視界と現実が、
わずかにズレる。
覗き込めば、
心の方が先に落ちる。
【Re:アバーター】
「フフフフ……」
笑いが、遅れて届く。
口が動くより先に、
皮膚の裏へ染み込んでくる。
「……なんて、気持ちいいのかしら」
柔らかい声。
だが、触れた場所から
ひび割れていくような錯覚。
「未来が決まってるって……素晴らしいわ」
瞳が、澄んでいく。
濁りが消える。
迷いが消える。
揺らぎが、削ぎ落とされていく。
それは、
あまりにも整いすぎていた。
「私はもう迷わない」
「もう、選ばなくていい」
言葉が落ちるたびに、
空間の“揺れ”が止まる。
未来の枝が、
音もなく切り落とされていく。
「あんな奴と結婚なんてしない」
「私にふさわしい人は、他にいるわ」
その奥にあるものを、
シオンは見ていた。
怒りではない。
拒絶でもない。
――傷ついたままの願い。
報われなかった時間。
選び続けた末の、疲労。
ただ、
幸せになりたかっただけの記憶。
だから、怖い。
もし自分でも、
“選ばなくていい未来”を差し出されたら。
手を伸ばさないと、
言い切れるのか。
「それが、私の未来よ」
「見えるの……幸せに暮らす、私の姿が」
その瞬間。
世界が止まる。
可能性が、閉じる。
未来が――固定される。
「……いや、まだだ」
かすれた声。
だが、消えていない。
「まだAreteは、その未来を固定していない」
一歩。
圧が、増す。
肺が潰れる。
息が、刃になる。
それでも止まらない。
「それは、由依の“本当の望み”じゃないはずだ」
「うるさいッ!!」
Re:アバーターが、
ラッパをひと吹き鳴らす。
由依の心のノイズが、
漆黒の波となって押し寄せる。
重い。
意思を持った質量。
逃げられない。
――確定された未来。
Re:アバーターの唇が、
ゆっくりと吊り上がる。
「気持ちいい」
それなのに。
由依の声が混じる。
泣きそうな、
怒りそうな、
壊れそうな声。
「……ずっと我慢した」
黒い鎧の隙間から、
熱とも痛みともつかないものが噴き上がる。
「なんで私ばっかり傷つくの」
「なんで優しい言葉をくれない」
「なんで、あの人じゃない誰かで
幸せになっちゃいけないのよ!」
沈黙。
その叫びだけが、
生々しく残る。
だから、怖い。
それは怪物の声ではない。
誰の胸の中にも沈んでいる、
言葉になれなかった心の痛みだった。
シオンは一歩もひかない。
全てを受け入れるが如く。
刹那。
前に出る影。
ヴァーミラ。
背中で、受ける。
逃げない。
崩れない。
きしみながら、
それでも立つ。
「――ルクス・テラス」
光が広がる。
優しさではない。
知っている光。
痛みを知った光。
「シオン」
声が震える。
だが、逸らさない。
「私は――たとえ傷や苦しみを負っても」
呼吸が浅い。
それでも、
離れない。
「共に歩みたい」
言葉は短い。
だが、残る。
「由依も……きっと、辛いと思う」
黒の奥で、
わずかに揺れる。
「だからお願い」
「由依の心に――灯火を」
静寂。
圧。
止まりかけた世界。
「……そうだな、ヴァーミラ」
「ありがとう」
わずかな熱が戻る。
まだ、終わっていない。
ヴァーミラの肩は震えていた。
痛みのせいだけではない。
彼女もまた、
胸の奥に醜いものを持っている。
由依を哀れみながら、
同時に少しだけ羨んでしまう自分を。
あれほどむき出しに
「欲しい」と叫べることを。
自分は優しくありたい。
支える側でありたい。
自分の存在を認めてほしい。
そう思うほど、
心の底で囁く声がある。
――本当は、私だけを見てほしい。
その醜さを知っているから、
由依の痛みが分かる。
分かってしまうから、
切り捨てられなかった。
「……由依」
ヴァーミラは、
砕けそうな光の中で小さく息を吐く。
「私だって、綺麗なだけじゃない」
その一言は、
誰に向けたものか分からないほど小さかった。
けれど確かに、
彼女自身の本音だった。
⸻
Ⅱ. 言霊の衝突
重圧。
呼吸が削れる。
冷気が肺を刺す。
シオンは、一歩前へ出る。
黒が揺れる。
視線が絡む。
「……まだ、抗うの?」
穏やかな声。
だからこそ、歪んでいる。
「見えてるのよ」
「この先の私が」
「笑っている私が」
「満たされている私が」
「――何も迷っていない私が」
そのたびに、
選択肢が消える。
音はない。
ただ、消える。
「それが……幸せなのよ」
シオンは目を閉じる。
一瞬だけ。
呼吸。
そして開く。
「……それは、本当に“見えてる”のか?」
わずかに、止まる。
「なに?」
「その未来――」
圧が絡みつく。
それでも。
「都合よく切り取った未来じゃないのか」
空気が、揺れる。
「苦しかった時間も」
「傷ついた瞬間も」
「全部、見ないふりして」
静かに。
逃がさない。
「それも含めて、未来じゃないのか」
沈黙。
わずかに、緩む。
「違うッ!!」
初めて、乱れる。
「私は見たのよ!!」
「苦しい未来なんて、いらない!」
「もう傷つきたくないの!!」
その声は、
ただの人間だった。
「……そうだな」
否定しない。
「誰だって、そうだよ」
間。
「それでも」
「選んできた未来があっただろ」
ヴァーミラを通して、
由依を見つめる。
黒が弾ける。
記憶が滲む。
笑った日。
壊れた日。
それでも、
続いていた時間。
「それを捨てて」
由依の目を射抜く。
「楽な未来だけ選ぶのは」
「選んでいない」
間。
落とす。
「逃げてるだけだ」
――亀裂。
固定された空間に、
ひびが走る。
「……ちが……」
黒が剥がれる。
「わたし……」
ラッパを鳴らす。
だが、鳴らない。
「私は……ただ……」
沈黙。
その奥から、
ようやく滲み出る。
「……幸せに、なりたかっただけ……」
崩れる。
完全ではない。
だが、揺らぐ。
シオンは、
その声をまっすぐ受け止めた。
目を逸らさない。
「……違うだろ」
由依が息を呑む。
「おまえは幸せになりたかった」
「でもそれだけじゃない」
空気が張る。
「悔しかったんだろ」
黒が、微かに震える。
「認めたくなかったんだろ」
「それでもまだ、相手を憎みきれない自分も」
由依の瞳が揺れる。
シオンの声は静かだった。
だが、逃がさなかった。
由依の唇が震える。
否定したい。
でも、できない。
その沈黙こそが答えだった。
シオンは拳を強く握る。
「間違えたくないし、失いたくない」
「救えなかったって思いたくない」
「本当は、全部うまくいってほしい」
苦く息を吐く。
「でも、それでも」
顔を上げる。
「選ぶしかないんだよ」
空間が震える。
「痛かった時間も」
「悔しかった自分も」
「醜いって思った願いも」
「無かったことにしないで」
声が、届く。
「救いたいんじゃない。
おまえに、まだ自分を諦めてほしくないんだ」
由依の瞳から、
一筋、黒い涙のようなものが落ちる。
「……大丈夫だよ」
小さく。
戦いではない。
ただ、置く。
「まだ、間に合う」
その言葉に、
わずかな熱が戻る。
――だが。
「ダマレ」
「ダマレ」
「ダマレー」
黒が、再び粘度を持つ。
「そんな言葉じゃ」
「足りないんだよ!」
悲鳴。
現実の重さ。
ラッパが勝手に鳴る。
シオンへのノイズ。
ヴァーミラが背で受ける。
光が、腐食され、
それでも。
「……シオン」
崩れながら、
微笑みかける。
「信じて」
間。
「可能性を」
指先が触れる。
鼻にちょんと。
冷たい。
だが、残る。
温もり。
それでも、
ヴァーミラは一歩もひかない。
Re:アバーター。
沈黙。
しかし、圧が増す。
由依は、微笑んでいる。
あまりにも穏やかに。
だから、痛い。
「固定された未来を壊すな」
それは命令ではない。
――懇願。
光の枝が、一本に収束する。
他の明日が消える。
【Arete】
《観測対象:SHION》
《未来分岐:敗北》
《状態:不確定》
戦いは、
最終局面へ。
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次回予告
第36話
『不確定の先に、灯るもの(The Magician)』
観測された敗北。
収束していく未来。
閉じようとする可能性。
それでもなお、
消えきらないものがある。
痛みを知った光。
諦めきれない言葉。
そして、選び直したいと願う心。
固定された明日の先で、
シオンが掴もうとするのは
勝利ではない。
まだ消えていない、
“灯せる未来”そのものだ。
――次回、
『不確定の先に、灯るもの(The Magician)』
大丈夫だよ。
未来はまだ、ひとつじゃない。




