第28話 『定める者、抗う者(The Emperor)』
Ⅰ.講義の後
「シオン君」
振り向く前に分かる。
白い気配。
音よりも先に、
空気の密度が変わる。
廊下のざわめきが、
一段、遠くなる。
蛍光灯の白が、
彼女の髪を透かしている。
光が細く、震える。
「……祖月輪さん?」
「桜蔭でいいわ」
名を選ばせない。
距離も、呼び方も、
彼女が決める。
ヒールの硬い音が、床に小さく跳ねる。
「こないだはありがとう」
あの日。
ふらついた身体。
腕に触れた重み。
軽い。
骨ばっていて、冷たくて、
それでも確かに鼓動があった。
「大丈夫だった?」
「気を抜いただけ。問題はないわ」
声は乾いている。
咳払いを飲み込んだような、
わずかな引っかかり。
その瞬間。
右目の奥が、鈍く疼く。
熱ではない。
痛みでもない。
焦点が合いすぎる。
彼女の輪郭だけが、
世界から切り抜かれたみたいに浮く。
まるで、
見えない枠の中に収められているみたいに。
「……あなた、何を見てるの?」
低い。
白い睫毛が揺れる。
透ける虹彩。
瞳の奥に、
消えかけの火がある。
「何も」
言葉が半拍遅れる。
嘘ではない。
だが、全部でもない。
彼女が一歩、近づく。
フランキンセンス。
乾いた樹脂の匂い。
焚かれた祈りの煙。
焦げた甘さが、鼻腔を細く刺す。
落ち着くのに、
逃げ場を失う匂い。
「あ、髪にゴミついてる」
伸ばした指。
触れた、瞬間。
ぱしり。
乾いた音が、指先に残る。
皮膚に、微かな痛み。
体温が、拒絶される。
「なむるぞ」
怒鳴らない。
けれど。
空気が、刃のように薄くなる。
「私は管理されるのも、守られるのも嫌い」
廊下の空気が、張る。
その瞳が、
ほんの一瞬だけ歪む。
焦り。
——怖い顔。
すぐに消える。
「礼を言いに来ただけよ」
振り向く。
ヒールの音が、一定のリズムで遠ざかる。
香りだけが、残る。
祈りの匂いなのに、
どこか鎖のように重い。
「またね……」
声が柔らぐ。
右目の疼きが、
遅れて脈打つ。
不快ではない。
だが、静かに圧がかかる。
“守られない”と決めた人間の温度だ。
「シオン!」
肩を叩かれる。
衝撃で、現実が戻る。
甘ったるい香水が、鼻を刺す。
さっきの祈りの匂いを上書きする。
涼が笑う。
《りょーくん、寂しいよー♡》
甲高い声。
耳の奥に貼りつく。
画面の中。
整えられた女。
白い肌。
大きすぎる瞳。
艶のある唇。
光が均一すぎる。
「自分で作ったんだよ。
顔も性格も、声も、オレの呼び方も」
画面の女が、微笑む。
その瞬間。
右目が強く疼く。
画面越しなのに、
視線が固定される。
「これな、記憶も覚えるんだ。
ログしとけば忘れない」
忘れない。
その言葉が、わずかに重い。
鼓動が一拍、速くなる。
《しーくん、まだー?》
涼は一瞬、画面を見たまま笑う。
音が、わずかに遅れる。
ほんの、わずか。
ポケットの中のスマホが、
じんわりと熱を持つ。
通知はない。
それでも、温度が変わる。
桜蔭の残り香。
甘い人工の声。
どちらも違う。
どちらも、
“定められている”。
胸の奥が、ざわつく。
⸻
Ⅱ.桜蔭というもの
窓の向こう。
午後の公園。
芝生の匂い。
土の粉塵。
汗の塩気。
笑い声が風に混じる。
日焼けの境界線。
白と茶のあいだの、
はっきりとした線。
光に触れた証。
桜蔭は、自分の手首を見る。
透き通る白。
境界は、生まれない。
ノック。
「お薬の時間です」
消毒液の匂い。
冷たい床。
整然と並ぶ錠剤。
立ち上がる。
視界が揺れる。
耳鳴り。
鼓動が強く打つ。
薬が落ちる。
白い粒が転がる。
床に弾く音が、小さく響く。
笑い声は止まらない。
太陽は、平等に降り注ぐ。
「……どうして」
問いは、自分ではない。
なぜ世界は、
こんなにも無関心なのか。
指先が震える。
——一粒。
拾いかけた薬が、止まる。
ほんの一瞬。
呼吸が乱れる。
それから。
笑った。
乾いた、冷たい笑い。
自分でも、怖い。
床の薬を薙ぐ。
乾いた音。
白が、散る。
胸が熱い。
それでも世界は揺れない。
「太陽は、いつも平等。
……それが、いちばん残酷だわ」
怒鳴らない。
届かないと知っている。
ひとつずつ、拾う。
粉のざらつきが、指に残る。
冷たい。
(自分の意思で)
その言葉だけが、温かい。
薬を飲み込む。
喉を落ちる感触が重い。
水の冷たさが、歯に沁みる。
——選んだのは、私だ。
窓の外の光は、変わらない。
だが、彼女の瞳だけが、
わずかに硬くなる。
⸻
Ⅲ.何気ないダウンロード
夜。
レポートの文字が、
画面で滲む。
桜蔭の瞳。
涼のアバター。
Areteの見せた未来。
右目の奥が、まだ熱い。
(理想のアバター、か……)
ペンを落とす。
カラン、と軽い音。
レポートを閉じる。
何気なく、アプリストアを開く。
検索欄。
指先が、少し湿っている。
評価は高い。
“あなた好みに育つパートナーAI”
軽い言葉。
(試すだけだ)
その一文が、
やけに乾いて見える。
ダウンロード。
青いバーが伸びる。
部屋は静かだ。
エアコンの低い音。
外を走る車のタイヤ音。
完了。
起動。
白い空間。
「あなたの理想を、教えてください」
澪の顔が浮かぶ。
消す。
しおぽんの声が浮かぶ。
消す。
「理想ってほどじゃない」
独り言。
髪色。
瞳。
声。
呼び方。
入力欄が点滅する。
――あなたを、何と呼びますか?
指が止まる。
右目が、じわりと疼く。
まるで、
選択肢が最初から用意されているみたいに。
「……まあ、適当でいいか」
打ち込む。
確定。
光の粒子が、画面の内側でゆっくりと漂っている。
触れられないはずのそれが、まるで重力を持つかのように集まり、離れ、また揺らぐ。
登録されたデータが、微かな震えを交わしていた。
音はない。
だが、確かに“間隔”がある。
とく、とく、とく。
錯覚のはずのリズム。
シオンはいつの間にか、スマホを握ったまま眠っていた。
指先の体温が、ガラス越しに残っている。
画面の奥で揺らぎが重なり合う。
散らばっていた光が、わずかに輪郭を持つ。
適当に作ったはずのアバター。
だがその配置も、色も、瞳の角度も――
シオンではなく
知らぬ間に選ばれていたものばかりだ。
まるで、持ち主の内側を映す鏡のように。
その瞬間、
画面の奥で、何かが深く沈んだ。
静かな圧。
世界を固定するはずの構造体が、
ほんのわずかに脈を打ったような錯覚。
《アップロード完了》
表示は変わらない。
何も起きていない。
朝が来た。
カーテンの隙間から差し込む光が、
いつもよりも白く、鋭い。
空気が澄んでいるのではない。
世界の輪郭が、ほんの少しだけ強くなっていた。
白い画面に
映し出されるアバター。
《はじめまして、しーちゃん。
……やっと会えた》
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次回予告
第29話
『声なき群れ、それぞれが正しい(The Hierophant)』
「迷ったら、教えてあげる」
優しい声が、選択を奪う。
“みんな”の正解が、壇上に並ぶ。
揺れる光が、ひとつ。
選ぶか。
従うか。




