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第223話 子供という楔

魔導情報局の執務室は、冷気にも似た静謐に支配されていた。


窓の外では春の嵐が窓を叩き、風の唸り声が遠く響いている。


ゼノンは、黒檀の机を挟んで、フィオナと対峙していた。


彼の顔色は蝋のように白く、目の下の隈は以前よりも濃く、深く刻まれている。


握りしめた拳は小刻みに震え、革の手袋がきしむ音だけが、室内の沈黙を破っていた。


彼は、喉に詰まった鉛を吐き出すように、重い口を開いた。


「……フィオナ。お前に、知恵を借りたい」


フィオナは、手元の羊皮紙から視線を上げず、羽ペンを走らせたままで応じた。


「軍事機密に関わることなら、所定の手続きを踏んで。……個人的な悩みなら、リアムの教会へ行きなさい」


その声は氷のように冷たいが、拒絶の色は薄い。


彼女は、目の前の男がどれほどの重圧と矛盾に晒されているかを知る、数少ない理解者の一人であったからだ。


ゼノンは、机に両手をつき、身を乗り出した。


その瞳には、狂気にも似た切迫した光が宿っていた。


「リリスのことだ。……彼女を、繋ぎ止める楔が欲しい」


フィオナの手が止まった。


彼女はゆっくりと顔を上げ、琥珀色の瞳でゼノンを射抜いた。


「……楔? 管理番号704の首輪と、帝国の隷属刻印では不十分だと言うの?」


「違う。……そんな物理的な拘束の話ではない」


ゼノンは首を振り、喘ぐように言った。


「彼女は、消えようとしている。……俺の前から、俺の人生から、自らの存在を抹消しようとしているのだ。……愛という名の献身で、俺を正しい道へ押しやろうとしている」


彼は、自分の胸を強く叩いた。


「耐えられない。……彼女が、俺のために自分を殺し続けるのを見るのは、もう限界だ。……だから、俺は欲しい。彼女が、絶対に俺から離れられない、決定的な理由が」


ゼノンは、一息つくと、最も昏い欲望と、最も純粋な願いが混じり合った言葉を紡いだ。


「……子供だ。俺と、彼女との間に、子を成したい」


フィオナは、長い睫毛を伏せ、ため息をついた。


それは呆れではなく、あまりにも無知で、そしてあまりにも哀れな男への、同情のため息だった。


彼女は立ち上がり、背後の本棚から分厚い古書を取り出した。


「異種族間生殖における魔力干渉と遺伝的障壁……アカデミーの基礎教養よ、騎士団長閣下」


彼女はページをめくり、一枚の図解を指し示した。


「結論から言うわ。……極めて、困難よ」


彼女の声は、医師が余命を宣告する時のように、事務的で、残酷な響きを帯びていた。


「私たち長命種――エルフや魔族は、人間とは生命のサイクルそのものが違う。……強大な魔力を持つ個体ほど、その生命力は個の維持に使われ、種の保存――つまり生殖機能は極端に低下する」


彼女は、窓の外の闇を見つめた。


「数百年を生きる私たちにとって、子は数十年、あるいは一世紀に一度の奇跡。……ましてや、短命種である人間との間となれば、その確率は天文学的に低くなる。……愛があればどうにかなる、というおとぎ話ではないの。これは、生物学の壁よ」


フィオナは、ゼノンに向き直り、冷たく言い放った。


「本気で子を望むなら、毎日欠かさず行為に及び、それを数十年続けて、ようやく一度の懐妊が期待できるかどうか。……リリスの体が、それまで持つと思う?」


ゼノンは、唇を噛み締め、食い下がる。


「だが、リリスは純血の魔族ではない。……人間との混血だ。雑種ならば、可能性は上がるはずだろう」


それは、溺れる者が掴んだ藁のような、脆い希望だった。


フィオナは、わずかに眉を寄せた。


「ええ、確かに。……純血種よりは、多少マシでしょうね。……それでも、人間同士のように容易くはないわ。数年……あるいは十数年の試行は覚悟すべきよ」


彼女は、ゼノンの瞳を覗き込んだ。


「今のあなたたちに、それほどの時間が残されているの? ……セシリア嬢との婚約が進み、帝国の監視が強まる中で、何年も彼女を寝室に囲い続けることが、現実に可能だと?」


ゼノンは言葉を詰まらせた。


彼の計画――いや、願望は、時間という絶対的な壁の前で、脆くも崩れ去ろうとしていた。


楔を打つことすら、許されないのか。


彼女との愛の結晶を残すことすら、神は拒むのか。


「……待て」


ゼノンは、ふと、ある事実に思い当たり、顔を上げた。


「リリスの母……アイリスは、若かった。……リリスが生まれた時、彼女はまだ二十歳前後だったはずだ。……混血とはいえ、魔族の血を引く彼女が、なぜあんなにも若くして、リリスを産むことができた?」


それは、素朴な疑問だった。


だが、その問いが放たれた瞬間、フィオナの表情が凍りついた。


彼女の瞳に、動揺と、そして深い嫌悪の色が走る。


彼女は口元を手で覆い、何かを反芻するように視線を泳がせた。


「……そう。……彼女は、娼館にいたのよね」


フィオナの声は、震えていた。


「……ゼノン。あなたは、考えたことがある? ……なぜ、長命種の血を引く彼女が、あんな場所で商品として扱われていたのかを」


ゼノンは、フィオナの言葉の意味を測りかねて沈黙した。


フィオナは、意を決したように、残酷な真実を口にした。


「確率論よ。……低い確率を引き当てる唯一の方法は、試行回数を異常なまでに増やすこと」


彼女は、吐き捨てるように言った。


「娼館という閉鎖空間。……そこでは、一人の女が、一日に何人もの男の相手をさせられる。……来る日も、来る日も、暴力的なまでの回数で」


ゼノンの顔から、血の気が引いていく。


「それは、自然な営みではない。……種の壁を、物理的な回数と、強制的な魔力干渉で、無理やりこじ開けるようなもの。……いわば、呪いよ」


フィオナの瞳が、悲痛に歪む。


「リリスが生まれたのは、愛の奇跡なんかじゃない。……彼女の母が、何千、何万という無慈悲な凌辱を受け、その果てにたまたま引き当ててしまった、悲劇的な確率のバグ。……それが、彼女の出生の真実よ」


執務室の空気が、重く淀んだ。


ゼノンは、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。


両手で頭を抱え、獣のような低い呻き声を漏らす。


リリス。


俺の愛する、清らかなリリス。


彼女の命そのものが、母の無限の苦痛と屈辱の上に成り立っているというのか。


俺が望んだ「子供」という楔でさえ、彼女にとっては、あの地獄のような娼館の記憶を呼び起こす、忌まわしい呪いでしかないというのか。


「……俺は……」


ゼノンの声は、涙声に変わっていた。


「俺は、彼女を……愛することすら、彼女を傷つけることになるのか……」


フィオナは、何も言わなかった。


かける言葉など、どこにもなかった。


ただ、窓の外で吹き荒れる嵐の音だけが、二人の沈黙を埋めていた。


彼女もまた、かつて愛した勇者を失った身として、運命の残酷さを誰よりも知っていた。


だが、この二人に課せられた運命は、あまりにも救いがなく、あまりにも汚れていて、そしてあまりにも純粋すぎた。

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