第222話 影の供物
月光がサンルームのガラス天井を透過し、室内の植物たちを青白く照らし出していた。
ゼノンは籐椅子に深く腰掛け、手の中にあるカップを見つめていた。
そこから立ち上る湯気の香り。
深煎りの豆に、わずかにシナモンを一振り。
それは、彼が最も疲労を感じた夜にだけ欲する、極めて個人的な嗜好だった。
誰にも教えた覚えはない。
ましてや、出会って間もない異国の令嬢が、偶然に辿り着ける領域のものではなかった。
ゼノンは視線を上げ、向かいに座るセシリアを見た。
彼女は、満足げに微笑みながら、自身もハーブティーを口に運んでいる。
その所作、タイミング、そして醸し出す空気感。
全てが、あまりにも「正解」すぎた。
まるで、長年連れ添った伴侶のように、あるいは、彼自身の魂の一部を切り取って移植したかのように。
違和感は、疑念へと変わり、そして確信へと変貌していく。
これは、セシリアのものではない。
この完璧な居心地の良さは、彼女の純粋な善意の上に、誰かが緻密な計算と、深い理解を持って設計図を引いたものだ。
その設計図を描ける人間は、この世にただ一人しかいない。
「……セシリア」
ゼノンは、カップをソーサーに戻した。
陶器が触れ合う硬質な音が、静寂を裂いた。
「一つ、聞きたいことがある」
セシリアは、無邪気に首を傾げた。
「まあ、なんでしょう。ゼノン様」
「君は……最近、俺の好みや習慣を、驚くほど正確に把握している。……このコーヒーの香りも、昨日のスープの味付けも、俺が口に出す前に用意された書物の数々もだ」
ゼノンの声は低く、抑揚を抑えていたが、その奥には張り詰めた緊張が潜んでいた。
「誰に聞いた? ……あるいは、誰が君にそれを教えた?」
セシリアの表情が、ぱっと明るく輝いた。
隠し事など微塵もない、曇りなき硝子のような心。
彼女は両手を組み、嬉しそうに語り始めた。
「あら、気づいてくださいましたの? ……ふふ、実は、種明かしをしますとね、リリスが教えてくれたのです」
「……リリスが?」
「ええ! 彼女、本当に素晴らしいのですわ。私が、ゼノン様にもっと喜んでいただきたいと相談したら、とても親身になって、ゼノン様の好みを細かく教えてくれたのです」
セシリアは身を乗り出し、熱を帯びた口調で続けた。
「あの方は、ゼノン様のことなら何でもご存じなのですね。朝の習慣から、お休みの前の癖まで……まるで、ゼノン様の一部であるかのように」
ゼノンの指が、肘掛けの籐をきしりと握りしめた。
セシリアの言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって彼の心臓を抉った。
「彼女は言っていましたわ。ゼノン様にとって、セシリア様は太陽のような存在。その輝きでお心を照らせば、必ずやお喜びになるはずですと。……私、彼女のような忠実で、聡明な友を持てて、本当に幸せですわ」
セシリアは、心からの称賛を口にしている。
だが、ゼノンには、その言葉の裏にある、血の滲むような犠牲が見えていた。
リリスは、売ったのだ。
彼と二人だけで積み上げてきた、誰にも触れさせなかった記憶の断片を。
愛する男の魂の形を。
それを、彼を奪うことになる「太陽」へと、自らの手で差し出したのだ。
なぜか。
彼を、幸せにするために。
自分という「影」では与えられない、完璧で、正当で、光に満ちた幸福を彼に与えるために。
彼女は、自らの存在意義を切り売りし、セシリアという「理想の妻」を完成させようとしている。
それは、究極の献身であり、同時に、最も残酷な自己否定だった。
ゼノンの脳裏に、リリスの姿が浮かんだ。
感情を殺した能面のような顔で、淡々と彼の好みをセシリアに語る姿が。
その胸の内で、どれほどの血が流れていたことか。
その魂が、どれほどの悲鳴を上げていたことか。
ごめんなさい……私が、汚れているから……
隠し書庫での、彼女の慟哭が蘇る。
彼女は本気だ。
本気で、身を引こうとしている。
いや、違う。
彼女は、自らを「消そう」としているのだ。
ゼノン・アルトリウスという英雄の人生から、リリスという汚点を完全に拭い去り、光り輝く未来だけを残すために。
「……ゼノン様? どうなさいましたの?」
セシリアが、怪訝そうに彼の顔を覗き込んだ。
ゼノンは、激しい衝動に突き動かされた。
今すぐに、この場を立ち去りたい。
この、偽りの幸福に満ちたサンルームを叩き壊し、屋敷のどこかで息を潜めているであろう彼女の元へ駆けつけたい。
そして、その細い首を絞め上げたいほどの愛おしさと怒りで、彼女を揺さぶりたい。
ふざけるな、と。
誰が、そんな献身を望んだ、と。
俺の幸せを、勝手に定義するな、と。
俺が欲しいのは、完璧なコーヒーでも、計算された安らぎでもない。
ただ、お前だ。
傷だらけで、怯えていて、それでも俺を愛してくれる、お前という不器用な魂だけなのだ。
ゼノンは、奥歯が砕けるほどに噛み締めた。
体の中で、どす黒い熱が暴れ回る。
だが、彼は動けなかった。
目の前には、純粋な善意の塊であるセシリアがいる。
彼女を傷つければ、それは即ち、リリスの献身を無に帰すことになり、リリスをさらに追い詰めることになる。
この、出口のない迷宮。
ゼノンは、震える息を吐き出し、強引に表情筋を動かした。
それは、笑顔と呼ぶにはあまりに凄惨な、歪んだ裂け目だった。
「……そうか。……彼女には、礼を言わねばならんな」
声が、割れた。
喉が、焼けつくように熱い。
ゼノンは立ち上がった。
これ以上、ここに留まることは不可能だった。
理性の堰が決壊する寸前だった。
「すまない、セシリア。……少し、風に当たりたい」
彼は、セシリアの返事を待たずに、サンルームの扉を開けた。
夜風が、彼の火照った頬を叩く。
だが、その冷たさも、彼の胸で燃え盛る業火を鎮めることはできなかった。
彼は、闇の濃い庭の奥へと、何かに憑かれたような足取りで歩みを進めた。
その先にあるのは、使用人たちの宿舎。
影が住まう場所だ。




