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第147話 鎖

フィオナは無表情のまま、執務室の窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。


窓の外には冬の帝都が広がっているが、彼女の琥珀色の瞳は景色を映さず、ただ手元の書類だけを捉えていた。


整然と積み上げられた羊皮紙の山。


その最上部にある一枚の勤怠報告書。


「ゼノン・アークライト卿、長期休暇取得」


その文字列が、フィオナの理性を静かに、しかし確実に逆撫でしていた。


彼女はペンを置き、冷めた紅茶を一口含む。


渋みが舌に残る。


ゼノンが任務を離れて一週間が経過していた。


理由は明白である。


管理番号704。


あの魔族の雑種、リリスの治療と看病である。


フィオナは細い指で机を叩いた。


英雄と呼ばれる男が、たかが道具一匹の修理のために、帝国の防衛という責務を放棄している。


あり得ない事態であった。


かつてのゼノンならば、負傷した部下は見捨てずとも、専門の治癒師に任せて即座に戦線へ復帰していたはずだ。


それが今は、自ら屋敷に籠もり、片時も離れずに付き添っているという。


判断力の低下。


優先順位の誤認。


フィオナは立ち上がり、書類棚へと歩いた。


彼女の脳内で、リリスという存在の危険度が「有用な実験体」から「排除すべき精神汚染源」へと修正されていく。


魔族は毒だ。


肉体を傷つける毒ではなく、人の心を蝕み、軟弱にする甘い毒だ。


ゼノンの研ぎ澄まされた刃が、あの娘の涙や笑顔によって錆びつき始めている。


ノックの音が響き、返事を待たずに扉が開かれた。


「やあ、フィオナ。呼び出しとは珍しい」


リアムが入室してくる。


彼はいつものように軽薄な笑みを浮かべていたが、目の奥だけは笑っていなかった。


フィオナは振り返り、彼を冷ややかに見据えた。


「座りなさい、リアム」


「手厳しいな。……コーヒーくらいは出るのかい」


「無駄話は不要よ」


フィオナは自分のデスクに戻り、ゼノンの勤怠報告書をリアムの前に滑らせた。


「説明して。……これは何」


リアムは書類を一瞥し、肩をすくめた。


「見ての通りだ。彼には休息が必要だった。……過労だよ」


「嘘ね」


フィオナは即座に切り捨てた。


「管理番号704の件でしょう。……あの娘をどう管理しているの」


リアムの表情から笑みが消える。


「……管理は順調だ。彼女は優秀な特務兵になる。……今回の件は、初期調整の不備による事故だ。ゼノンが責任を感じるのは当然だろう」


「責任? ……いいえ、あれは執着よ」


フィオナは身を乗り出し、リアムの碧眼を覗き込む。


「ゼノンはあの娘に依存し始めている。……ただの道具に、人間としての情を移しているわ。これは非常に危険な兆候よ」


リアムは沈黙した。


否定しなかったのではない。


肯定すれば、リリスの即時廃棄に繋がりかねないことを理解しているがゆえの沈黙であった。


フィオナはその沈黙を肯定と受け取り、淡々と続けた。


「ゼノンは帝国の象徴よ。……汚らわしい魔族の娼婦如きに、精神の安寧を委ねさせてはならない」


「……それで? 彼女を処分しろとでも言うのか」


リアムの声が低くなる。


「いいえ。……今それをすれば、ゼノンは発狂するかもしれないわね。……あるいは、貴方と私を敵と見なすでしょう」


フィオナは椅子に深く腰掛け、指を組んだ。


彼女は感情ではなく、損得と効率のみで解を導き出す。


魔族という不確定な依存先を排除するのではなく、より強固で、社会的にも正当な「鎖」でゼノンを縛ればいい。


「彼に必要なのは、正常な人間との繋がりよ。……彼を人間社会に引き戻すための、正しい重石が必要だわ」


フィオナは引き出しから、別の書類を取り出した。


それは、帝国の有力貴族の子女たちのリストであった。


「身を固めさせるべきよ。……婚約者をあてがいなさい」


リアムが目を見開く。


「……正気か? 今の彼に、そんな話が通じるとは思えないが」


「通じさせるのよ。……貴方の得意分野でしょう、リアム」


フィオナは冷酷に微笑んだ。


「オルレアン侯爵の令嬢あたりが妥当ね。……あるいは、皇族の傍流でもいい。とにかく、リリスという非日常の毒を中和できる、圧倒的な日常と義務を彼に与えるの」


「……荒療治だな」


「壊れてからでは遅いのよ。……あの娘は、ゼノンの“おもちゃ”としては優秀かもしれないけれど、伴侶にはなり得ない。……彼自身のためにも、目を覚まさせてあげるべきだわ」


リアムは書類を手に取り、長い溜息をついた。


その表情には、フィオナの提案に対する嫌悪と、政治的な妥当性を否定できない苦渋が滲んでいた。


彼は知っている。


リリスがどれほどの想いでゼノンを支えているか。


ゼノンがどれほどリリスを大切に思っているか。


そこに「婚約者」という異物を投入すれば、あの屋敷の脆い幸福は音を立てて崩壊するだろう。


リリスは身を引くはずだ。


自分の存在がゼノンの邪魔になると悟り、自ら影へと堕ちていくだろう。


そしてゼノンは、逃げ場を失い、再び孤独な英雄の仮面を被ることになる。


だが、それを拒否する論理的な理由を、今のリアムは持っていなかった。


「……検討しよう。だが、時期は慎重に選ぶべきだ」


リアムはリストを懐にしまい、立ち上がった。


「賢明な判断ね。……期待しているわ」


フィオナは書類に視線を戻し、会話の終了を示した。


リアムが退室した後、執務室には再び静寂が戻る。


フィオナはペンを走らせる。


彼女にとって、人の心とは数式で解けるパズルであり、リリスの献身もゼノンの愛も、調整可能な誤差でしかなかった。

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