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第146話 囚われた姫君

午後の日差しが、応接室の重厚な調度品を柔らかく照らし出す。


長テーブルを挟んで、リアムはティーカップを傾け、ゼノンは腕を組んで座っていた。


「驚異的な回復力だな。……軍医も舌を巻いていたよ」


リアムは窓の外、中庭の方角へ視線を向けながら穏やかに語る。


その口調には、友人としての純粋な安堵が滲んでいるように聞こえた。


ゼノンは短く頷く。


「ああ。……リリスは強い」


彼の表情は硬いが、先日までの剥き出しの敵意は鳴りを潜めている。


二人の間には、見えない境界線が引かれていた。


互いに触れてはならない領域を理解し、あえて踏み込まないという暗黙の了解。


リアムはカップを置き、ゼノンの顔色を窺う。


「お前も少し休め。……騎士団の仕事は私がカバーしておく」


「……すまない。助かる」


ゼノンが息を吐く。


その言葉に嘘はない。


だが、その瞳の奥には、かつてのような全幅の信頼の光は宿っていなかった。


リアムはそれを受け入れ、微笑みを絶やさずに話題を変える。


「ところで、例の輸送計画の件だが……」


マサが新しい茶菓子を持って現れたのと同時に、ゼノンが立ち上がった。


「資料を執務室から取ってくる。少し待っていてくれ」


ゼノンが退室し、重い扉が閉まる。


部屋にはリアムと、部屋の隅で控えていたリリスだけが残された。


静寂が落ちる。


空気の温度が急速に下がるのを感じた。


リアムはゆっくりと首を巡らせ、リリスを見る。


リリスもまた、顔を上げ、リアムの視線を受け止めた。


言葉はない。


リアムの碧眼は、観察するように冷徹でありながら、底知れぬ罪悪感と、奇妙な敬意を湛えていた。


リリスのガラス玉のような瞳は、揺らぐことなく彼を見据える。


左手を右腕に添える仕草。


それは、失われ、そして再生した腕の存在を示唆していた。


リアムは微かに顎を引く。


(続けろ。)


その視線がそう語っていた。


(ゼノンのために、その完璧な嘘を演じ続けろ。私もまた、お前のために舞台を整えよう。)


リリスは小さく頷く。


(承知しました。)


彼女の瞳がそう答える。


二人の間で交わされたのは、言葉よりも重い契約の更新であった。


扉が開く音がする。


ゼノンが戻ってきた瞬間、二人の視線は自然に解け、それぞれの役割へと戻った。


リアムが帰った後、リリスは気分転換のために中庭へ出た。


冬の陽光は弱く、冷たい風が頬を刺す。


彼女は白いショールを羽織り、枯れた噴水の縁に腰掛けた。


ゼノンから贈られた短剣を、ショールの下で強く握りしめる。


その硬質な感触だけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。


彼女は空を見上げる。


灰色の雲が流れていく。


自分の命運もまた、風に流される木の葉のように不確かだ。


だが、今はまだ枝にしがみついていられる。


ゼノンという大樹に守られて。


彼女は目を閉じ、冷たい風の匂いを吸い込んだ。


その姿は、硝子細工のように脆く、触れれば壊れてしまいそうな危うさを帯びていた。


銀色の髪が風に舞い、白い肌が陽光に透ける。


それは、かつて娼館で見せた人工的な妖艶さとは異なる、剥き出しの魂が放つ静謐な美しさであった。


屋敷の門を潜り、石畳のアプローチを歩く若い騎士がいた。


カイル・ヴァーミリオン。


近衛騎士団に配属された青年の有能者である。


彼はゼノンへの緊急伝令を任され、緊張した面持ちで歩を進めていた。


ふと、視界の端に白い影が映る。


彼は足を止めた。


生垣の向こう、中庭のベンチに座る少女の姿。


時間が停止したかのような錯覚。


カイルは息を呑んだ。


美しい。


だが、ただ美しいだけではない。


その横顔には、世界中の悲しみを一人で背負ったような、深淵な孤独が刻まれていた。


彼女は何者だろうか。


ゼノン卿の親族か、あるいは保護されている深窓の令嬢か。


カイルの胸が高鳴る。


騎士物語に出てくるような、囚われた姫君。


彼女の瞳に宿る陰りを払い、笑顔を取り戻すことができたなら。


そんな無邪気で傲慢な想像が、若き騎士の脳裏を駆け巡る。


カイルは無意識に一歩、生垣に近づこうとした。


「……カイルか」


背後から低い声がかかる。


カイルは飛び上がるようにして振り返った。


ゼノンが、険しい表情で立っていた。


「あ、ゼノン卿! ……申し訳ありません、見とれてしまって……」


カイルは慌てて敬礼し、言葉を濁す。


ゼノンはカイルの視線の先を追い、リリスの姿を認めると、一瞬だけ鋭い光を瞳に宿した。


だが、すぐにカイルに向き直る。


「何の用だ」


「はっ! ……団長からの伝令です。明日の式典に関する変更事項を……」


カイルは報告を始めるが、その意識の半分は、未だ中庭の少女に向けられていた。


ゼノンは報告を聞き終えると、書類を受け取り、冷ややかに告げた。


「分かった。……帰っていい」


「は、はい。……あの、あの方は……」


カイルが勇気を振り絞って尋ねようとした時、ゼノンが遮った。


「関係ない。……忘れろ」


拒絶。


絶対的な壁。


カイルは圧迫感に喉を詰まらせ、それ以上何も言えずに一礼して走り去った。


門を出る際、彼はもう一度だけ振り返った。


少女はまだ、空を見上げている。


その横顔は、遠く、手の届かない場所にある星のように輝いて見えた。


リリスはカイルの視線にも、その幼い恋心にも気づかない。


彼女の世界には、ゼノンと、守るべき約束しか存在していないのだから。

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