第148話 ここが私の居場所
まだ夜明け前の蒼い光が、厨房の石床を冷ややかに照らしている。
凍てつくような早朝の静寂の中、かまどの薪がはぜる音と、リズミカルに包丁がまな板を叩く音だけが響いていた。
マサは眠い目をこすりながら、重い木戸を開けた。
彼女の予想では、冷え切った厨房で火を起こすところから一日が始まるはずであった。
だが、そこにはすでに温かい湯気が満ちている。
銀髪を三角巾でまとめ、質素なエプロンをつけたリリスが、踏み台を使って高い棚から香辛料の瓶を取り出していた。
彼女の動きには迷いがない。
流れるような所作で鍋の中身をかき混ぜ、味見をし、微かに頷く。
マサが呆然と立ち尽くす前で、リリスは振り返り、深々と頭を下げた。
「おはようございます、マサさん。……お湯、沸いています」
その声は静かで、朝の空気を乱さない。
作業台の上には、皮を剥かれた根菜が幾何学的な美しさで並び、銀食器は鏡のように磨き上げられていた。
マサは息を呑む。
これほどの手際、これほどの完璧な準備。
それは単なる手伝いの域を超え、熟練した職人の仕事であった。
リリスの左腕、袖口から覗く白磁のような肌が、湯気の中で痛々しくも美しく輝く。
マサは胸の内で燻っていた魔族への警戒心が、音を立てて崩れ去るのを感じた。
朝食の配膳が始まる。
大食堂の長テーブルには、リリスの手によって整えられた食卓布が、皺一つなく敷かれていた。
彼女はスープ皿を運ぶ際、足音を殺し、空気すら揺らさない。
娼館「バラ園」で、客の機嫌を損ねれば即座に体罰が下る環境で培われた、生存のための洗練された奉仕技術である。
若いメイドが重い銀の大皿を持ち上げようとしてよろめいた瞬間、リリスが滑り込むようにして下から支えた。
「重いでしょう。……私が持ちます」
彼女は再生したばかりの左腕に負担がかかることも厭わず、涼しい顔で皿を受け取り、所定の位置へと運ぶ。
メイドは顔を赤らめ、小さく礼を言った。
リリスは微笑む。
その笑顔には、媚びも驕りもなく、ただ役割を果たせることへの純粋な喜びが滲んでいた。
他の使用人たちも、手を止めて彼女を見つめる。
かつて「魔族の娘」「英雄を誑かす娼婦」と陰口を叩いていた者たちの瞳に、困惑と、そして新たな敬意が宿り始める。
彼女は怪物ではない。
誰よりも働き、誰よりも謙虚な、傷ついた少女なのだと。
午後の休憩時間、厨房の裏口でリリスはジャガイモの皮むきを続けていた。
休憩を取るよう言われても、彼女は手を止めることを恐れるように作業を続ける。
マサが湯気の立つマグカップを二つ持ち、リリスの隣にどっかと腰を下ろした。
「あんた、少しは座んなさい」
マサの声はぶっきらぼうだが、そこには確かな温度があった。
リリスは驚いて顔を上げる。
「……ですが、まだ仕事が」
「仕事なんてのは、逃げやしないよ。……ほら、飲みな」
マサは熱いミルクティーをリリスの手に押し付けた。
リリスはカップの両手で包み込む。
温かさが指先から心臓へと伝わる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだよ。……あんたが来てから、仕事が楽で助かる」
マサはそっぽを向いて呟く。
「旦那様があんたを大事にする理由が、少し分かった気がするよ。……あんたは、いい子だね」
リリスの瞳が揺れる。
いい子。
その響きは、彼女が長い間求めてやまなかった承認の証であった。
彼女はカップに顔を埋め、立ち上る湯気で涙を隠した。
「……ここで、働かせていただけるだけで、私は幸せです」
彼女の言葉に嘘はない。
兵器として戦うことも、道具として扱われることも、すべてはこの平穏な日常を守るための代償であるならば、彼女は喜んでその身を捧げるだろう。
夕暮れ時、ゼノンが帰還する時刻が近づく。
屋敷中の空気が引き締まる中、リリスは玄関ホールの一角で待機していた。
以前ならば、彼女は自室に隠れるようにしていたが、今は違う。
マサが彼女に、ゼノンの上着を受け取る役目を任せたからだ。
扉が開く。
ゼノンが入ってくる。
その疲れた顔が、リリスの姿を認めた瞬間、ふわりと和らぐ。
「……ただいま、リリス」
「お帰りなさいませ、ゼノン様」
リリスは恭しく一礼し、彼の手から重いマントを受け取る。
その自然なやり取りを、マサや他の使用人たちが温かい目で見守っていた。
そこにはもはや、異物を見る視線はない。
彼女はこの屋敷における「守られるべき客」から、「共にこの家を支える家族」へと、その地位を確かに変えていた。
リリスはマントを抱きしめ、その残り香に微かに頬を擦り寄せる。
ここが私の居場所。
誰にも奪わせない、私の聖域。
彼女は心の中で強く誓い、静かに微笑んだ。




