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人理滅却の時代(2)

 では、時間になりましたので、本日の講義を始めていきます。

 前回は第一次世界大戦勃発の流れと、その中で草林率いる日本がどのように参戦を決意し開戦したか、をお話ししましたね。

 日本はこの開戦に至るタイムラグの中で、英米に対し、亞細亞・太平洋地域にある独墺の利権の、どこからどこまでを日本軍の攻略の対象とするか、或いは出来ること出来ないことについての根回しを行っていました。

 特に小笠原諸島の南にあるドイツ領マリアナ諸島については、その中でも特に大きな島であるサイパン・テニアン両島の間にあるグアムが米国領でしたから、これは米国に対する配慮、具体的には軍事的脅威として捉えられない様に、当面の占領は避けるといった気遣いが必要でした。まあ、今日ではあの地域に戦略爆撃機部隊が配置されれば、これは周辺地域や日本に対して直接の脅威となり得ますが、当時の技術水準や戦力配置では、大した脅威ではありませんでしたので、捨て置いても問題はありませんでした。

 その結果、日本軍は最も日本本土に近いドイツ植民地である、膠州湾租借地――いわゆる山東半島を攻略の第一目標とし、マリアナ諸島以南のドイツ領南洋諸島については当面捨て置くか、英米の保障占領に任せる、という選択肢を取りました。手元のレジュメの図一に、当時の山東半島の勢力図を載せています。山東半島の付け根の南側に膠州湾租借地があり、ここにはドイツが開いた植民都市にして要塞化された軍港の青島がありました。他方、山東半島東端の側には英国の租借地である威海衛がありました。後の歴史でも重要になりますが、この威海衛は黄海を使って天津や大連、つまり後清国や満洲に出入りする船舶を監視するのに絶好の位置にありますが、ごく近所で要塞化され、そこそこに有力なドイツ軍部隊が配置されている青島がある膠州湾租借地は、イギリスにとっては目の上のたん瘤の様なものでした。

 そこへ来ての欧州本土に於いての全面戦争です。草林率いる日本が最後通牒と宣戦布告を発した時点で、既にドイツ海軍東洋艦隊は湾の閉塞を恐れ、青島から脱出しマリアナ諸島へ向かっていました。後世の歴史からすると、ドイツ海軍東洋艦隊がここで通商破壊戦を日本に対して開始していれば、日本にとって非常に厄介な相手になった筈でしたが、幸い、ドイツ海軍東洋艦隊はドイツ本国への回航命令を受け取り、マリアナを離れます。これは後に、南米のフォークランド沖に於いて捕捉され撃滅されますが、それで全てのドイツ海軍東洋艦隊が沈められた訳ではありませんでした。ドイツ領南洋諸島伝いに東回りでドイツ本国への回航を図ったドイツ海軍東洋艦隊主力から、西回りでドイツ本国を目指して単独行動を許された艦艇があったのです。

 その名は軽巡洋艦『エムデン』。この後の日本史に於いて、何度も日本の前に仇敵として現れる名前です。

 ドイツ海軍東洋艦隊主力から分離した『エムデン』は、マリアナから南西へと進路を取り、パラオ諸島を経由した後、オランダ領東インド――今日のインドネシアのロンボク海峡をインド洋への脱出ルートとして選択します。その途上で、当時バタビアと呼ばれていた今日で言うジャカルタを出航し、ボルネオ、米領フィリピンへと寄港を予定していた日本の貨客船『対馬丸』とスコールの中で遭遇。『エムデン』はこれを日本海軍の通報艦ないしは仮装巡洋艦と誤認し交戦の末、撃沈。『対馬丸』が発した救難信号を受けて駆け付けた、『エムデン』捜索中の英海軍艦艇の接近と悪天候を前に、『エムデン』は救難活動を行わずその場を離れてしまいます。結果、英海軍艦艇に救助された『対馬丸』の生存者は、乗員乗客百六十二名中、僅か十一名でした。

 戦時国際法として『エムデン』の判断は、グレーライン上の際どいものでした。詰まり、戦時国際法上は罪に問えるとまでは言い難いが、人道上は非常に問題のある行動でした。イギリスがこの機会を逃す筈もなく、また日本側に諮ることもなく、この『対馬丸』沈没の経緯を全世界に発信します。言うまでもなくドイツの非道を詰るこのプロパガンダで、日本の世論は俄かに沸騰。日本軍は草林の指導の下、冷静に『飽く迄も開戦回避の外交努力が実らず、結果として日英同盟という法理に基づいて日本周辺の亞細亞・太平洋地域の安定化に資する範囲の中で』の限定的な出兵の予定をしていましたが、激昂した国民世論は『ドイツ討つべし』一色に染まります。

 結果として、日比谷公園に詰めかけた国民の訴えに抗い切れず、草林は英米両国、並びに連合国各国へ根回しの上、『当面は日本近海の独墺利権の接収を第一目標とするが、これとは別に「エムデン」討伐隊を急派し、亞細亞・太平洋航路の安全確保を行う』と声明を発表し、事態鎮静化に努めます。草林自身、『エムデン』に対する耐え難い怒りを覚えていたことは、原・敬の日記からも明らかになっていますが、それでも『法理・秩序を重んじる』草林のポリシーをかなぐり捨てて、大規模報復に訴えるようなことまでは考えていませんでした。怒気を立ち昇らせながらも、マスメディアを通じて冷静に国民に呼び掛けた草林の姿勢に、国民の側も一旦は落ち着きを取り戻しますが、これまで大きな失点が無いどころか加点しかなかった草林政権にとって、これは最初の躓きの一つでした。

『エムデン』についてはその後、インド洋はココス諸島付近で十一月に日本海軍の討伐部隊に捕捉され撃沈されます。この頃、日本軍は山東半島に英国租借地の威海衛から上陸して、当時としては圧倒的な砲兵火力で青島要塞に立て籠っていたドイツ軍を破砕し攻略を終えており、一息吐いて後を威海衛から山東半島全域までどさくさに紛れて実効支配に及んでいたイギリスへ任せ、一旦戦力再編のため撤収しようとしていました。残る亞細亞・太平洋地域のドイツ利権は既に軍事的空白地帯となっており、この内マリアナ諸島とパラオ諸島は、フィリピンとグアムが近くにある米国が保障占領を終え、残りはイギリスの取り分ということで話がついていました。

 従来の戦争であれば、日本はこれ以上の戦争へのコミットを行わず、戦争の決着を待って『対馬丸事件』についてドイツとの外交的解決を図るところでしたが、そうは問屋が卸しませんでした。原因は欧州の、特に西部戦線の事情によります。

 ドイツ軍は西部戦線に於いて、一旦はパリまで七十キロ地点まで到達していましたが、損害を顧みず反撃したフランス軍によって退けられ、エーヌ川沿いのラインまで後退。そこでドイツ軍は持久戦を図って、塹壕線の構築に取り掛かります。一方、それを阻止したい英仏軍は当然、側背を突いて敵の北側面を包囲しようと試み、ドイツ軍もそれを逆包囲して阻止しようと同じ行為を行います。結果として、多くの遭遇戦が発生しましたが両軍とも決定的な勝利は得られず、十月下旬には戦線が北海沿岸まで到達。両軍はこの後、この長大な戦線を互いに破壊しようとする熾烈な塹壕戦を長期間に渡って繰り広げることになります。

 英仏はここで、当時としては圧倒的な砲兵火力を有していた日本陸軍に注目します。日本陸軍は大陸利権から足抜けしたことにより、守備範囲が狭まったので兵力削減が叶い、その分日露戦争の戦訓から兵力辺りの砲門や機関銃の数を増やし、更に歩兵には擲弾や迫撃砲を配備する、当時としては先進的な火力偏重主義を極めていました。青島攻略ではその火力で塹壕線や要塞そのものを破壊してしまった訳ですが、これを観戦武官を通じて把握していた英仏軍が逃す筈もなく、英仏両国は日本製の野戦兵器の大量購入や、或いは実践経験豊富な日本陸軍それ自体をあの手この手で欧州へ連れ込もうと、クリスマス休戦後、俄かに外交戦を活発化させる訳ですが――時間が来てしまいましたので、本日の講義はここまでとします。

 例によって、ここまでの講義での疑問点、深掘りしたい点、参考資料等の問い合わせにつきましては、次回講義までに私の研究室まで簡易レポートの形で提出するようにしてください。

 では、また次の講義でお会いしましょう。

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