人理滅却の時代(1)
それでは時間となりましたので、本日の講義を始めたいと思います。
前回は中国大陸で『辛亥革命』が起き、大陸情勢が混沌とする中で、日本列島は第一次高度経済成長を開始したことをお話ししましたね。
欧米列強に睨まれない程度に日本列島を大改造し、高度防衛要塞化して次の『朝鮮半島大爆発』や戦争に備える。それが当時の国家中枢を占めた人々の考えでした。
ところが一九一四年六月二十八日。当時オーストリア=ハンガリー二重帝国領であったサラエヴォに於いて、当地を訪問中であったオーストリア=ハンガリー二重帝国の帝位継承者、フランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア民族主義者の青年テロリストに襲撃され危うく難を逃れた、後に言う『サラエヴォ事件』に端を発する『七月危機』が起きます。
次期皇帝を殺され掛けたオーストリア=ハンガリー二重帝国は怒り心頭で犯人の出身国セルビア王国へ最後通牒を突き付け、これまでの数十年間を掛けてヨーロッパ大陸を網羅して大戦争を防止する軛となってきた同盟網、言い換えれば戦争計画の連鎖的な発動が、一気に現実のものと化しました。
この『七月危機』は、一旦は同様の危機、つまり大津事件に瀕したことのある日本が、現地の両国大使館を通じて働きかけたことで、一旦は回避されかけます。具体的に何が起きていたかと言いますと、サラエヴォ事件の現場に偶々居合わせ、フランツ・フェルディナント大公夫妻を襲った銃撃から身を挺して庇い命を落としたのは、日本の在セルビア日本大使館付き駐在武官、土肥原賢二大尉(※当時。死後二階級特進)でした。日本はその土肥原駐在武官の、他国の要人であっても身を挺して庇い命を救った功績に免じて、セルビア王国国王ペータル一世直々の謝罪を受け容れ、セルビア国内のテロリストの後援者であった民族主義者集団やセルビア軍士官の特務機関に対し、法理に基いた裁きを下すことを約する条約を締結する方向で、両国とも渋々ではあったものの、同意を取り付けるところまで、一旦は成功します。
しかし、ペータル一世の乗った、謝罪へ向かうため仕立てられたオーストリア=ハンガリー二重帝国への特別列車は、ウィーンまで辿り着けませんでした。彼の乗った特別列車は七月二十四日午前十時十一分、ベオグラード郊外で速度を上げた所、脱線転覆。ペータル一世の乗っていた国王専用車も漏れなく大破し、彼はそこで崩御したからです。その直後、ユーゴスラヴ統一を掲げる一方でセルビア人専制主義者であったセルビア王太子アレクサンダルが、セルビア軍士官の一団を伴ってセルビア政府機関を制圧し、セルビア王アレクサンダル一世として即位を宣言。このことから、これは王太子アレクサンダルが軍の後援を得て王位簒奪を行った、つまりクーデターであったと、今日では見られています。
アレクサンダルは先の外交的合意の撤回を二十五日に宣言。続いて親露国であるセルビア王国を推すロシア帝国が一部動員を開始。これにより二十八日、オーストリア=ハンガリー二重帝国がセルビア王国へ宣戦布告すると、ロシア帝国は三〇日に総動員を発令。これに対し、ドイツ帝国が最後通牒を行なって動員解除を要求するも断られると、八月一日にドイツ帝国はロシア帝国に対し宣戦を布告。この時点で戦線が長く数的不利だったロシア帝国は、同盟関係にあるフランスに対し仏独開戦でドイツの側背を突くよう要請し、普仏戦争の復讐心に燃えるフランスは一日中に総動員を開始し、三日、ドイツに対し宣戦を布告しました。これに対し、ドイツは要塞化された独仏国境を避け、中立国ベルギーとルクセンブルクに侵攻。しかしこれが同じザクセン=コーブルク=ゴータ家の系譜でもあり、また自国近辺に戦場が近付くことを由としなかったイギリスの逆鱗に触れたため、四日にはイギリスがドイツに対し開戦しました。
こうしてヨーロッパ大陸全土を巻き込む破滅的大戦争が始まった訳ですが、一方で、亞細亞は平穏だったか。勿論、ここまで義務教育を受けてきた皆さんであればご存知の通り、亞細亞もまた戦争と無縁では居られませんでした。イギリスがドイツに対し開戦した翌日五日、日本は第三次日英同盟に基づき、亞細亞・太平洋地域のドイツ植民地や租借地を保障占領するようイギリスから求められ、草林は応諾。帝國議会を臨時招集し、草林自ら英国からの参戦要請と、第三次日英同盟に基づけば参戦義務があることを帝國議会に説明し、帝國議会も二十四時間の審議の末に賛成多数で開戦を発議。草林から事の次第の説明を受けた大正天皇も渋々ではありましたが開戦の詔勅を発し、翌八日正午、草林内閣は独墺両国に対し宣戦布告を手交。四十八時間の猶予を経た十日正午から亞細亞・太平洋地域の独墺利権の保障占領を開始することを通知しました。
ここでのポイントは、欧州列強が即時開戦を選んだのに対し、日本は独墺両国に対し保障占領を行う地域を態々通告したことと、四十八時間の退去猶予を与えたことです。勿論、常識的に考えて四十八時間でそれら全ての地域に開戦の報せを行き渡らせ、かつ退避まで完了することは、現代文明を以てしても至難の業ですから、実質的には既にこの時点で即応状態にあったであろう亞細亞・太平洋地域の独墺軍部隊ぐらいしか、移動を開始することは困難だったでしょう。それどころか、草林の通告で日本軍がやってくることが確実になったわけですから、独墺軍にとっては例え戦力比にしても圧倒的に日本有利であっても、軍艦なら脱出、地上部隊なら防備を整えるぐらいのことが出来る猶予を与えたに等しい訳です。それでも敢えて草林は猶予を与えたのですが、それは、何故か(ネットリ)。
思い出して欲しいのは、草林は『ルールに煩瑣い』人物、より正確に言えば『原理原則論と大義名分に忠実』だった、ということです。第一次世界大戦の事の発端を何時如何なる時点と理由に求めるべきかは諸説ありますが、直接的な契機は『七月危機』でした。この場合、オーストリア=ハンガリー二重帝国の要人に危害を加えるような民族主義テロリストの跳梁を許し、実際に事を起こしたセルビアに第一の非があり、次に国家元首たるペータル一世の暗殺とアレクサンダルの宮廷クーデターを許したセルビアに第二の非がある。続いて親セルビアでアレクサンダルを後援しており、最初に軍部隊の一部動員を開始したロシア帝国に第三の非があり、第四に対露開戦を割と横合いから開始したドイツに非がある……というような点を加味した上で、欧米が多数を占める列強に一国だけ混じった亞細亞人国家である日本に、万一にも後から不当な言い掛かりを付ける余地が無いよう、独墺に微妙な手心を加えつつ国際法や欧米諸国の慣習に従い、国の舵取りを行うことに、草林の『法理に明るい法務士官出身』という経験・経歴が活かされていた訳です。
尤も、この『四十八時間の猶予』を与えた事は、倫理観としては真っ当でしたが、それは『相手方が真っ当な神経の持ち主である』事を前提としており、そしてこの文脈に於いて、この草林が与えた猶予は誤りであったことを、第一次大戦後に草林自身が認めているのですが、それはもう少し先の、終戦後の第一次草林内閣総辞職のお話をする際に言及したいと思います。
さて――何時もより少々早いですが、本日の講義はキリが良いのでここまでとしたいと思います。
例によって、ここまでの講義での疑問点、深掘りしたい点、参考資料等の問い合わせにつきましては、次回講義までに私の研究室まで簡易レポートの形で提出するようにしてください。
では、また次の講義でお会いしましょう。




