第八話 私の手に、何かが宿っている
「モニカ、今日は腰をお願いできるかい?」
「もちろんです。マルタさん、前回から調子はいかがですか?」
「それがねえ、朝起きると、どうにも身体が重くて」
マルタさんは、うちの風呂屋に昔から通ってくれているお客様だ。
白髪交じりの髪をきちんとまとめた、笑顔の優しい女性。最近は店の前を通るたびに声をかけてくれるし、昨日なんて、余ったからと焼き菓子まで持ってきてくれた。
ありがたい。
本当にありがたいんだけど。
「焼き菓子のお礼に、今日は長めにやっておくれよ」
「それは別料金です」
「あら、しっかりしてるねえ」
「おかげさまで」
商売と人情は、どちらも大切。
でも、混ぜすぎると店が続かなくなる。
前世で十四年間働いてきた私の、ささやかな教訓である。
「では、施術台にうつ伏せになってくださいね」
マルタさんがゆっくりと身体を横たえる。
私は足首の下に薄いクッションを入れ、腰に負担がかからない姿勢を整えた。
「この姿勢、つらくありませんか?」
「大丈夫だよ」
「では、始めますね」
手を温めてから、背中にそっと触れる。
――《コンディション》。
視界の端に、見慣れた情報が浮かんだ。
【腰部:筋緊張あり】
【背部:疲労蓄積】
【全身:回復不足】
うん。
いつもと大きくは変わらない。
マルタさんは長年、家事に加えて畑仕事もしている。前かがみになる時間が長いせいか、腰から背中にかけて筋肉がこわばりやすい。
「今日は背中も少し張っていますね」
「あら、わかるのかい?」
「はい。最近、重いものを持ちました?」
「昨日、芋の入った籠を運んだねえ」
「なるほど。今日は腰だけでなく、背中も少し緩めていきましょう」
「頼んだよ」
私は呼吸に合わせて、ゆっくりと圧をかけていく。
強く押せばいいというものではない。
筋肉が抵抗しているときに無理をすれば、かえって痛めてしまうこともある。
相手の呼吸。
皮膚の温かさ。
筋肉の硬さ。
小さな反応を確かめながら、少しずつ手を進める。
「……ああ、そこ。気持ちいいねえ」
「痛みはありませんか?」
「ないよ。ちょうどいい」
よし。
私は力を少し抜き、同じ場所にゆっくりと手を重ねた。
そのときだった。
視界の端で、文字が揺れた。
【回復補助:適用可能】
「……ん?」
思わず手が止まる。
回復補助?
そんな表示、今まで見たことがない。
目を凝らすと、文字がもう一度浮かび上がった。
【対象:腰部の疲労】
【推奨:微弱・短時間】
【注意:過剰な付与を避けること】
……何これ。
新機能?
いやいや。
便利な画面が出てきたからって、何でも試していいわけじゃない。
そもそも、これは人間の身体だ。
大切なお客様である。
「モニカ?」
「あ、はい。どうされました?」
「いや、手が止まったからね」
「すみません。少し張りが強いので、確認していました」
嘘ではない。
ただ、確認したいことが一つ増えただけだ。
私はいったん深呼吸した。
この表示が何を意味するのか、まだわからない。
わからないものを、勝手に使うわけにはいかない。
そう思って、施術を再開しようとした。
――その瞬間。
手のひらが、ふわりと温かくなった。
「……え?」
指先から、淡い金白色の光がこぼれていた。
金色と白が混ざったような、柔らかな光。
窓から差し込む陽光とは違う輝きが、私の両手を薄く包んでいる。
……ちょっと待って。
私の手、光ってる?
あまりのことに、私は施術の手を止めた。
「……モニカ?」
マルタさんが声をかけてきた。
「どうしたんだい? 急に手が温かくなったと思ったら、止まっちまって」
「あ、いえ、その……」
どう説明したものかと迷っていると、マルタさんが枕から少し顔を上げ、こちらを振り返った。
そして、私の手元を見て目を丸くした。
「おや。光っとるねぇ」
「……ですよね?」
「うん。きれいな光だねえ」
マルタさんは不思議そうに私の手を眺めた。
「初めて見たけど、これが魔法ってやつかねえ。治癒術ってのがあるとは聞いたことがあるよ」
「治癒術……」
「身体の具合をよくする魔法なんだろう? あんた、それが使えたのかい?」
「いえ、それが……私も初めてで」
「おやまあ。使った本人もびっくりかい」
私は自分の手を見下ろした。
魔法。
そうか。ここは異世界なんだ。そんな力があっても不思議じゃない。
けれど、まさか自分の手から、こんな光が出るなんて。
しかも、さっき《コンディション》には【回復補助:適用可能】と表示されていた。
もしかして、これが治癒術なんだろうか。
でも、《コンディション》の力なのか、それとも私には別の力があるのか。
今の私には、判断がつかなかった。
いやいや。驚いている場合じゃない。
今、私はお客様の身体に触れていたんだ。
私はそっと手を離した。
光は、すっと薄れて消えていった。
「マルタさん、念のため確認させてください。痛みや熱さ、変な感じはありませんでしたか?」
「いや、そういうのはないねえ。むしろ腰がぽかぽかして、気持ちよかったよ」
「しびれたり、気分が悪くなったりは?」
「それもないよ。なんだか、さっきまでの重さが少し楽になった気がするねえ」
「そうですか……」
少し安心する。
でも、安心しきってはいけない。
気持ちがいいことと、安全であることは、同じじゃない。
前世でも、施術中に「すごく効いている」と喜んでいた人が、あとから揉み返しを訴えることはあった。
その場の感想だけで判断してはいけない。
ましてや今回は、正体不明の光である。
「マルタさん。少し施術を中断してもいいですか?」
「ああ、構わないよ」
「ありがとうございます」
私は手を膝の上に置いた。
光はもう見えない。
けれど、手のひらにはまだ、かすかな温かさが残っている。
私はそっと《コンディション》を意識した。
【腰部:筋緊張あり】
【疲労:軽度改善】
【回復補助:微弱な付与を確認】
【対象の状態:安定】
……やっぱり。
何かが起きたのは、間違いない。
しかも、表示の内容まで変わっている。
回復補助。
どうやら、さっきの光と関係があるらしい。
ただ、どれくらい使えばいいのかも、何に効くのかもわからない。
今は、これ以上触らない方がいいだろう。
「モニカ、顔色が悪いよ。疲れたんじゃないかい?」
「あ……すみません。大丈夫です」
「無理しちゃいけないよ」
思わず笑ってしまった。
心配する側と、される側が逆になっている。
「ありがとうございます。少し驚いてしまって」
「そりゃあ、自分の手が光ったら驚くさね」
「ですよね……」
「まあ、魔法だとしても、あんたが急に別人になるわけじゃないだろう?」
私は目を瞬いた。
「……そうですね」
別人。
その言葉には、少しだけ胸がちくりとした。
けれど、マルタさんにそんな事情がわかるはずもない。
「今日はここまでにしましょう。最後に、起き上がる前の状態を確認させてください」
「もう終わりかい?」
「はい。今日は少し短めになりますので、お代も調整しますね」
「そんなことしなくていいよ」
「いえ、こちらの都合ですから」
マルタさんは何か言いかけて、結局、笑った。
「ほんと、あんたは真面目だねえ」
私はマルタさんにゆっくり横向きになってもらい、無理のないように身体を起こしてもらった。
立ち上がる前に、めまいや気分の悪さがないかを確認する。
それから、普段どおりに歩けるか、少しだけ室内を歩いてもらった。
「……あら」
マルタさんが腰に手を当てた。
「どうしました?」
「いつもは立ち上がるとき、ここが重たいんだけどね」
「はい」
「今日は、ずいぶん楽だよ」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
本当に?
あの光のせい?
それとも、施術の効果?
あるいは、その両方?
「それはよかったです。ただ、今日は重いものを持たずに、ゆっくり過ごしてくださいね」
「はいはい。わかったよ」
「もし痛みが強くなったり、気分が悪くなったりしたら、すぐに知らせてください」
「大丈夫だって。そんなに心配しなくても」
「心配するのも仕事ですから」
「そうだったねえ」
マルタさんは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、ようやく少し安心できた。
でも、今日起きたことは、きちんと調べなければいけない。
* * *
「マルタさん、またいらしてくださいね」
「ああ、ありがとう。今日はずいぶん身体が軽くなったよ」
「よかったです。でも、無理はしないでくださいね」
「わかってるよ」
マルタさんが笑いながら帰っていく。
その背中を見送っていると、受付にいたリリが声をかけてきた。
「モニカ、次のお客さん、もうすぐ来るよ」
「ありがとう、リリ。ちょっと準備してくるね」
「うん。受付は見てるから」
「助かるわ」
リリに受付を任せ、私は施術室へ戻った。
さっきまで自分の手が光っていたなんて、まだ少し信じられない。
試しに両手を広げてみる。
「……もう一回、光ってみたり?」
何も起こらない。
まあ、そう都合よくはいかないか。
私は机に向かい、紙とペンを取り出した。
前世でも、施術の記録は欠かさなかった。こういうときこそ、まずは事実を整理しよう。
――マルタさん。腰部の疲労。
――施術中、手のひらに金白色の発光。本人も確認。
――温かさを感じ、施術後は腰が楽になったとのこと。
――痛み、しびれ、気分不良なし。
――原因、安全性ともに不明。
「……うん。わからないことだらけ」
でも、手がかりがないわけじゃない。
あの瞬間、《コンディション》には見慣れない表示が出ていた。
【回復補助:適用可能】
【推奨:微弱・短時間】
そして光が消えたあとには、
【回復補助:微弱な付与を確認】
と表示されていた。
つまり、《コンディション》はこの現象について、何か知っているらしい。
「だったら、調べる価値はあるよね」
それに、この世界には治癒術を扱う人がいる。
昨日会ったセシルさんなら、何かわかるかもしれない。
私は記録用紙を折りたたみ、引き出しにしまった。
明日はマルタさんの様子を確認して、セシルさんにも相談してみよう。
ひとまず、次にやることは決まった。
……とはいえ。
私はもう一度、自分の手のひらを見つめた。
「……魔法、かあ」
口に出してみても、まだ実感が湧かない。
気になる。
ものすごく気になる。
できることなら今すぐ、あの《コンディション》の表示を調べてみたい。
でも、もうすぐ次のお客様がいらっしゃる。
私は手を下ろし、施術台に向き直った。
「……よし。続きはあとで」
新しいシーツを広げ、しわを丁寧に伸ばす。
タオルを揃え、室温を確かめる。
いつもの準備を一つずつ進めているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
不思議な力のことは、まだ何もわからない。
だからこそ、きちんと調べたい。
でも、今は目の前の仕事に集中しよう。
準備を終えたところで、入口からリリの声が聞こえた。
「いらっしゃいませ!」
私は最後にもう一度、自分の手のひらを見た。
まだ、少しだけ不思議な気分だ。
「……よし」
小さく息を吐き、私はお客様を迎えに向かった。




