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7/20

第七話 その身体、ほぐしてはいけません

朝から、予約表が賑やかだった。


「モニカ! またお客さんが来たよ!」


「はーい! 今行きます!」


 洗いたての布を棚に置き、私は受付へ向かった。


 昨日まで空白の目立っていた予約表に、今日は見慣れない名前が並んでいる。


 そのうち二人は、カイルさんの紹介だった。


 あの人、さっそく誰かに話してくれたんだ。


 ありがたいなあ。


 私は自然と頬が緩むのを感じながら、入口へ向かった。


「いらっしゃいませ!」


 そこに立っていたのは、体格のいい男性と、まだ若い男性だった。


 二人とも剣を下げている。


「カイルの紹介で来た。俺はバルト。こっちはノアだ」


「よろしくお願いします」


 ノアと名乗った青年が、少し緊張した様子で頭を下げる。


「こちらこそ。ご紹介ありがとうございます。今日はお二人とも施術ですか?」


「いや、俺は付き添いだ。こいつが脚の調子を悪くしててな。カイルに相談したら、ここへ行けと言われた」


「そうだったんですね。では、ノアさん、まずはお話を聞かせてください」


 私は椅子を勧めた。


 ノアさんが腰を下ろす。


 近くで見ると、少し顔色が悪い。


「脚のどこがつらいですか?」


「左のふくらはぎです。訓練のあと、張ることが多くて」


「いつ頃からですか?」


「四、五日前からです」


「痛みはありますか?」


「少し。でも、歩けますし、大したことはないです」


 ノアさんは笑った。


「騎士なんで、これくらいは慣れてます」


 ……出た。


 前世でも、何度聞いたか分からない言葉。


『慣れてます』


『いつものことです』


『大したことないです』


 もちろん、本当に軽い疲れのこともある。


 でも、本人が慣れていることと、身体に問題がないことは別だ。


「分かりました。では、少し状態を確認しますね」


 私はノアさんに目を向けた。


 《コンディション》。


 意識を集中すると、いつものように文字が浮かび上がる。


【ノア】


【疲労:82】


【左下腿:腫脹・中度】


【左下腿:深部の異常】


【右下腿:筋疲労・軽度】


【睡眠不足:中度】


 ……ん?


 私は眉を寄せた。


 左脚だけ、様子がおかしい。


 筋肉の張りではなく、腫れ。


 しかも、深部の異常?


 こんな表示、前にもあっただろうか。


挿絵(By みてみん)


「ノアさん。左右の脚を並べて見せてもらってもいいですか?」


「はい」


 ノアさんが両脚を前へ伸ばした。


 私は膝をついて見比べる。


 左のふくらはぎが、右より少し太い。


 肌にも、わずかな赤みがあった。


「ここは痛みますか?」


 私は指で場所を示した。


「押すと痛いです」


「分かりました。無理に触るのはやめておきますね」


 私は手を引いた。


 その瞬間。


【左下腿:深部の異常】


【血流:停滞の疑い】


【注意:強い圧迫を避ける】


 文字が、増えた。


 ……え?


 私は目を瞬いた。


 今、こんな項目あった?


 いや、それよりも。


 血流の停滞。


 片脚だけの腫れ。


 痛み。


 前世の知識が、頭の中でつながった。


 もし、これが私の考えている状態なら。


 ……絶対に、揉んじゃいけない。


「ノアさん」


「はい?」


「申し訳ありません。今日は脚のほぐしはできません」


 ノアさんが目を丸くした。


「えっ?」


 隣にいたバルトさんも驚いた。


「おいおい。カイルから腕がいいと聞いて来たんだぞ」


「はい。だからこそ、お断りします」


 私はノアさんをまっすぐ見た。


「この腫れ方は、普通の筋肉疲労とは少し違います。まず、治療師さんに診てもらってください」


「そんな大げさな。俺、普通に歩けますよ」


「歩けることと、安全なことは別です」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


 私は一度、息を整えた。


「脚の深いところで、血の流れに問題が起きている可能性があります。強く揉むことで、かえって危険になる場合もあるんです」


「……危険?」


「まだ決まったわけではありません。だからこそ、専門の方に確認していただきたいんです」


 バルトさんがノアさんの脚を見た。


 それから、私に向き直る。


「分かった。治療師を呼んでくる」


「ありがとうございます。ノアさんは、できるだけ脚に負担をかけず、ここで待っていてください」


 バルトさんは大きく頷き、店を飛び出していった。


     ◇


 バルトさんが出ていくと、店の中が急に静かになった。


「……すみません」


 ノアさんが小さく言った。


「せっかく予約したのに」


「謝らなくていいですよ」


 私は椅子を引き寄せた。


「むしろ、今日来てくださってよかったです」


「……そうなんですか?」


「はい。気になることを見つけられましたから」


 ノアさんは左脚を見つめた。


「俺、訓練を休みたくなくて」


「そうだったんですね」


「今度、部隊の選抜があるんです。休んだら、遅れを取ると思って」


 なるほど。


 頑張りたい時ほど、身体の不調を見ないふりしたくなる。


 その気持ちは分かる。


 でも。


「選抜に出たいなら、なおさら、今は身体を大事にしましょう」


「……はい」


 ノアさんは肩を落とした。


 私は少し考えてから、笑って言った。


「治療師さんに診てもらって、また施術を受けても大丈夫になったら、ぜひ来てください。今度はちゃんと、ほぐしますから」


 ノアさんが、ようやく少し笑った。


 その時、リリがそっと近づいてきた。


「モニカ、お水、持ってきてもいい?」


「ありがとう。まずはノアさんに聞いてみようか」


 リリはノアさんに向き直った。


「お水、いりますか?」


「ああ。ありがとう」


 リリが嬉しそうに頷く。


 私はその小さな背中を見送り、もう一度《コンディション》に目を向けた。


【左下腿:血流停滞の疑い】


【強い圧迫:非推奨】


【専門的な確認が必要】


 ……やっぱり、増えている。


 最初は疲労の数字と、筋肉の状態くらいしか分からなかった。


 カイルさんの施術では、触れている間の変化が見えた。


 そして今は。


 どう対処すべきか、その方向まで示してくれている。


 これは偶然?


 それとも、私が使い続けているから?


 考えたい。


 ものすごく考えたい。


 でも、今は目の前のお客さんが先だ。


     ◇


 治療師が来たのは、それから間もなくだった。


 灰色の髪を後ろで束ねた、中年の女性。


 バルトさんに案内され、革の鞄を手に店へ入ってきた。


「患者は?」


「こちらです」


 私はノアさんを示した。


 女性は手際よく椅子を寄せ、脚の状態を確かめ始めた。


「私は治療師のセシル。あなたが施術を断ったという女主人ね?」


「はい。モニカです」


「理由を聞かせて」


 私は頷いた。


「左のふくらはぎだけが腫れています。数日前から痛みがあり、赤みもあります。普通の筋肉疲労とは違う可能性があると思いました」


「……なるほど」


「深いところの血の流れに、問題があるかもしれません。強く揉むのは危険だと判断しました」


 セシルさんの手が止まった。


「血の流れ?」


「はい。断定はできませんが」


 セシルさんは私を見た。


 それから、ノアさんの脚へ視線を戻した。


 左右を比べ、腫れを確かめ、いくつか質問をする。


「息苦しさは?」


「ありません」


「胸が痛むことは?」


「……ないです」


「分かった。これ以上、脚を触るのはやめましょう」


 セシルさんは立ち上がった。


「詳しく診る必要があるわ。私の診療所へ運びましょう。無理に歩かせないで」


 バルトさんの顔色が変わった。


「そんなに危険なんですか」


「まだ決まったわけじゃない。でも、血の流れに問題があるなら、見逃すわけにはいかないわ」


 セシルさんは私に向き直った。


「あなた、よく施術を止めたわね」


「……気になる点があったので」


「気になる程度で止められる人は、案外少ないのよ」


 その言葉に、胸がじんとした。


 前世でも、施術を断るのは勇気が必要だった。


 せっかく来てくれたお客さん。


 楽しみにしていた予約。


 売上。


 いろんなことが頭をよぎる。


 でも。


 お客さんの身体より、大切な売上なんてない。


「私の仕事は、無理にほぐすことじゃありませんから」


 セシルさんが、少しだけ笑った。


「……気に入ったわ」


     ◇


 ノアさんが診療所へ運ばれてから、私は受付台に戻った。


 予約表には、彼の名前が残っている。


 施術はしていない。


 もちろん、お代もいただかなかった。


 今日の売上だけを見れば、予定より減ってしまった。


 でも、不思議と残念な気持ちはなかった。


「モニカ」


 リリが隣に立った。


「ノアさん、よくなるかな」


「うん。治療師さんが診てくれるからね」


「モニカは、治せないの?」


 私はリリを見た。


 大きな目が、まっすぐこちらを向いている。


「うん。私には治せないことも、たくさんあるよ」


「……そうなんだ」


「でもね、リリ」


 私は少し考えてから言った。


「自分にできないことが分かるのも、大事なことなんだよ」


「できないことが?」


「そう。私が無理に何とかしようとするより、ちゃんと治せる人にお願いした方がいい時もあるの」


 リリはしばらく考えた。


 それから、こくんと頷いた。


「じゃあ、今日はセシルさんにお願いするのが、一番よかったんだね」


「そういうこと」


「そっか!」


 リリはほっとしたように笑った。


 私はその頭を軽く撫でた。


 ……本当に、素直な子だ。


 教えたことを、自分の言葉でちゃんと理解してくれる。


 こういう瞬間が、たまらなく嬉しい。


 リリはふと、洗い終えた布の山に目を向けた。


「ねえ、モニカ。どうして使った布は、毎回洗うの?」


「お客さんが気持ちよく使えるように、だよ。それに、汚れた布をそのまま使うと、病気が広がることもあるからね」


「病気が?」


「うん。目に見えないくらい小さなものが、身体に悪さをすることがあるんだよ」


 リリは驚いた顔をした。


「見えないのに?」


「そう。だから、見た目がきれいでも、ちゃんと洗うことが大切なの」


 私は布を一枚持ち上げた。


「お風呂も、布も、お水も。清潔にしておけば、防げる病気があるんだよ」


「へえ……」


 リリは真剣に頷いた。


 私は思わず笑ってしまった。


 この子、教えたことを本当に楽しそうに聞いてくれるなあ。


 ……でも。


 この街には、まだ清潔とは言えない場所が多い。


 井戸のそばに汚れた水が流れていたり、洗っていない布を何度も使っていたり。


 前世なら当たり前だったことが、ここでは当たり前じゃない。


 いつか、そういうことも変えていけたらいいな。


     ◇


 夕方。


 閉店の準備をしていると、入口の扉が勢いよく開いた。


「モニカ!」


 カイルさんだった。


 いつもの外套を羽織っているが、今日はどこか表情が硬い。


 後ろにはバルトさんもいた。


「カイルさん?」


「ノアの件を聞いた」


 低い声だった。


 私は思わず背筋を伸ばした。


「はい。脚の状態が気になったので、治療師さんに診てもらいました」


「……そうか」


 カイルさんは短く息を吐いた。


「診療所から連絡があった。脚の深いところで、血の流れを妨げる異常が疑われているそうだ」


 私は息を呑んだ。


 やっぱり。


 あの表示は、間違っていなかったんだ。


「今は安静にして、治療を受けている。早く気づけたのがよかったと、セシルが言っていた」


「……よかった」


 私は胸を撫で下ろした。


 本当によかった。


 もし、あのまま脚を強く揉んでいたら。


 そう考えると、背筋が冷たくなる。


「モニカ」


 カイルさんが私を見た。


「礼を言う」


「いえ。私は何も治していませんから」


「……治していない?」


「はい。治療してくださっているのは、セシルさんです。私は、気になることを見つけただけで」


 カイルさんは黙った。


 その顔が、ほんの一瞬、苦しそうに歪んだ。


 ……あ。


 私は前回の施術を思い出した。


 部下の話をした時、急に硬くなった右肩。


 《コンディション》に浮かんだ、罪悪感の文字。


 この人は、きっと。


 部下が傷つくことを、誰よりも怖がっている。


 でも、私はその理由を知らない。


 だから、勝手に踏み込むことはしなかった。


「……あなたの部下の方が、無事でよかったです」


 それだけ伝えた。


 カイルさんは、長い間、私を見つめていた。


 そして。


「……ああ」


 深く、頷いた。


「本当にな」


 その声は、少しかすれていた。


     ◇


 カイルさんたちが帰ったあと。


 私は一人、施術台の横に立っていた。


 今日の出来事を、忘れないうちに記録しておきたかった。


 紙に炭筆を走らせる。


『片脚だけの腫れと痛み』


『強い圧迫は避ける』


『専門家への紹介が必要』


 書き終えて、私は自分の手を見た。


 今日は、ノアさんの脚をほぐしていない。


 なのに。


 誰かの役に立てた。


 ……不思議な気分だ。


 私はそっと《コンディション》を意識した。


 目の前には誰もいない。


 いつもなら、何も表示されないはずだった。


 ところが。


【観察記録】


【施術中の変化:確認済み】


【不調の要因:解析範囲拡大】


【対処上の注意:表示可能】


 ……え?


 私は目を見開いた。


 こんな表示、初めて見た。


 解析範囲、拡大?


 対処上の注意、表示可能?


 もしかして。


 このスキル。


 使えば使うほど、できることが増えている?


「……ちょっと待って」


 私は思わず声に出した。


 最初は、疲れ具合が分かるだけだった。


 それが、施術中の変化まで見えるようになって。


 今日は、危険な状態に対する注意まで表示された。


 偶然じゃない。


 何かが、少しずつ変わっている。


 私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 この世界に来てから、知らないことばかりだった。


 でも、私は一つずつ学んできた。


 風呂釜の扱い方。


 この世界のお金の数え方。


 お客さんの身体の違い。


 そして、この不思議な力の使い方。


 もしかしたら。


 《コンディション》も、私と一緒に学んでいるのかもしれない。


「……面白い」


 思わず、笑みがこぼれた。


「すっごく面白い!」


 私は新しい紙を一枚取り出した。


 まだ分からないことだらけだ。


 でも、分からないなら調べればいい。


 試せることは、安全な範囲で試してみよう。


 もっと勉強して。


 もっとたくさんの人の身体を見て。


 できることを、増やしていく。


 私は炭筆を握り直した。


『《コンディション》について、分かったこと』


 その一行を書いた時。


 指先が、ほんの少しだけ温かくなった。


「……ん?」


 私は手を開いた。


 いつもと変わらない、自分の手。


 けれど、胸の奥にはまだ、何かが灯ったような感覚が残っていた。


 ……気のせい、かな?


 私は首を傾げた。


 そして、また紙に向き直った。


 今はまだ知らない。


 この小さな変化が、やがて世界の常識を覆す力へとつながっていくことを。


 私自身も、まだ知らなかった。

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