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第五話 予約は取れても、身体は一つ

朝。


 浴場を開ける前に、まずやることがある。


 裏手の井戸から水を汲み、釜を確認する。


 灰を掻き出して、薪を組んで、火を入れる。


 ぱちぱちと薪が爆ぜる音を聞きながら、私は額の汗を拭った。


「……うん。今日は昨日より上手にできた気がする」


 薪の組み方を少し変えたら、火の回りがよくなった。


 こういう小さな発見は、嫌いじゃない。


 十四年間、セラピストをやっていた。


 店長代理も、新店舗の立ち上げも経験した。


 でも、薪で風呂を沸かしたことは一度もない。


 この身体で目を覚ましたばかりの頃は、釜の使い方すら分からなかった。


『……エリオ。この釜って、どうやって使うんだっけ』


『そこまで忘れたのかよ』


『熱で三日も寝てたんだから仕方ないでしょ』


『仕方なくねえよ。これ、お前ずっと使ってただろ』


 怪しまれながらも、結局エリオは一から教えてくれた。


 先に水を確かめる。


 薪を入れすぎない。


 火の様子を見る。


 湯の温度を確かめながら、水と湯を調整する。


 空焚きだけは絶対にするなと、三回くらい念を押された。


 男女に分かれた二つの浴室。


 それぞれの浴槽へ、裏の釜場から湯を回す。


 古い設備だけれど、父親の代から何度も手を入れて使ってきたものらしい。


 ――という話も、全部エリオから聞いた。


 この浴場については、私よりあいつの方が詳しい。


「薪、多いぞ」


「あ、エリオ。おはよう」


 振り返ると、エリオが立っていた。


「昨日より少なくしたんだけどな」


「まだ多い。ほら、ここ。空気の通り道を塞ぐな」


「ああ、なるほど」


 言われたとおりに薪を一本ずらす。


 炎の形が変わった。


「本当だ。こっちの方がよく燃える」


「だろ?」


「ありがとう。助かった」


「……お前、最近そういうの素直に聞くよな」


「教えてもらった方が早いことは、ちゃんと聞く主義なの」


「昔はもう少し意地っ張りだったけどな」


 エリオは不思議そうに首を傾げた。


 ……危ない。


 でも、できないことをできるふりしても仕方ない。


 知らないことは覚えればいい。


「で、今日はどうしたの?」


「この前直したところの確認。湯、漏れてねえか?」


「今のところ大丈夫」


「あとで見ておく」


「いつもありがとう。仕事の邪魔になってない?」


「朝のうちなら平気だ。昼から現場がある」


 エリオにも本業がある。


 頼りきりにはなれないけれど、こうして教えてもらえるのはありがたい。


 私はもう一度、釜の火を確かめた。


 よし。


 今日もいいお湯を沸かそう。


     ◇


 表へ戻ると、入口の前にリリがいた。


「モニカ、おはよう!」


「おはよう、リリ。今日は早いね」


「うん。これ、見て!」


 リリが両手を開いた。


 そこには、小さな白い石が載っていた。


「きれいでしょ?」


「わあ。本当だ。どこで見つけたの?」


「川のそば。丸くて、つるつるなの」


 受け取ると、石は手のひらにすっぽり収まった。


 白い表面に、薄い桃色の筋が一本入っている。


「モニカにあげる」


「私に?」


「うん。昨日、いっぱい働いてたから」


 ……そう来たか。


「ありがとう。嬉しいな」


 私が笑うと、リリも嬉しそうに笑った。


 食べ物をもらいに来たわけじゃない。


 ただ、見つけたものを見せたくて来た。


 それが、なんだか嬉しかった。


「じゃあ、これは受付に飾ろうか」


「いいの?」


「もちろん。お店がちょっと明るくなるね」


 リリは石を布で丁寧に拭いて、受付台の端に置いた。


 私はその横に掛けてある料金表を見た。


『入浴 銅貨六枚』


 ここまではいい。


 その下。


『初回 銅貨十枚』

『二回目以降 銅貨十五枚』


「……あれ?」


「どうしたの?」


「これ、何の初回か分からないね」


 リリも料金表を見上げた。


「身体を楽にするやつだよね?」


「そう。でも、初めて来た人には伝わらないかも」


「そっか。私も最初は知らなかったもん」


 その一言に、私は頷いた。


 そうだ。


 ローデンさんから紹介されて来た人たちは、最初から何をするか知っていた。


 でも、知らない人が看板を見ても分からない。


「名前をつけようか」


「名前?」


「うん。私がやっている、身体を楽にする仕事の名前」


 前世なら、ボディケア、リラクゼーション、トリートメント。


 いくらでも言葉はある。


 でも、この世界でそんな言葉を書いても伝わらない。


 見ただけで、なんとなく意味が分かる。


 それが一番いい。


「……ほぐし、かな」


「ほぐし?」


「固くなった身体を、ゆっくりほぐすの」


「なんか、やわらかくなりそう!」


「でしょ?」


 私は炭筆を持って、料金表を書き直した。


『入浴 銅貨六枚』


『ほぐし 半刻』

『初回 銅貨十枚』

『二回目以降 銅貨十五枚』


「半刻って、どれくらい?」


「この砂時計の砂が、全部落ちるまで」


 私は昨日買った砂時計を見せた。


「お客さんによって触る場所は違うけど、時間は同じ。そうすれば、初めての人も安心して頼めるでしょ?」


「うん! いくらかかるかも分かる!」


「そういうこと」


 リリがもう一度、看板を見上げた。


「『ほぐし』、いい名前だね」


「ありがとう。私も気に入った」


 名前をつけただけ。


 でも、それだけで少し、お店らしくなった気がした。


     ◇


 名前をつけた効果は、その日のうちに出た。


「この『ほぐし』ってのは何だ?」


 昼前。


 風呂に来た男性が料金表を指さした。


「身体の疲れているところを触って、楽にするものです。肩や腰が重い人がよく受けています」


「治療か?」


「いえ。怪我や病気を治すものではありません」


 そこははっきりさせる。


「あなたが明日、今日より少し楽に働けるようにするものです」


「へえ」


 男性が自分の肩を回した。


「今から頼めるか?」


「このあと先約があるので、半刻ほどお待ちいただけますか?」


「半刻か。じゃあ風呂入ってる」


「分かりました。半刻後に始めますので、それまでに上がってきてください」


「おう」


 入浴料を受け取り、ほぐしの料金も先に預かる。


 リリが布を渡した。


「男湯はこちらです!」


「お、ありがとう」


 男性が笑って男湯へ向かう。


「上手に案内できたね」


「えへへ」


 リリが胸を張る。


 私は先約のお客さんを施術台へ案内し、砂時計をひっくり返した。


 砂が落ちていく。


 その間にも風呂のお客さんは来る。


 リリが布を渡し、料金を受け取る必要がある時は私を呼ぶ。


 そのたびに手を止め、お客さんに断って受付へ出る。


 ……これは、改善の余地があるな。


 施術中のお客さんを待たせるし、私も集中が切れる。


 リリにお金を任せるには、まだ教えることがある。


 釜の様子も気になる。


 砂が残り少なくなった頃、さっきの男性が濡れた髪のまま戻ってきた。


「そろそろか?」


「はい。少々お待ちくださいね」


 先客を送り出す。


 水を出す。


 施術台を整える。


 次のお客さんを案内する。


 流れ自体は悪くない。


 でも、一人で全部やるには、少しずつ無理が出てきている。


     ◇


 午後。


「明日、ほぐしを頼みたいんだけど」


 女性のお客さんに言われた。


「ありがとうございます。明日ですね」


「いつ来ればいい?」


 そこで私は考えた。


 昨日、カイルさんとは、


『三日後、五の鐘』


 と約束している。


 この街の鐘は一刻ごと。


 一刻は、およそ二時間。


 ほぐしは半刻。


 なら、鐘と鐘のあいだに二枠作れる。


 五の鐘。


 五の鐘から半刻後。


 六の鐘。


 六の鐘から半刻後。


 前世なら十四時、十五時、十六時、十七時。


 呼び方が違うだけだ。


「明日なら、五の鐘から空いています」


「じゃあ、それで」


「お名前をお願いします」


「ミラ」


「ミラさんですね」


 顧客記録に書こうとして、やめる。


 これは身体の記録とは別にした方がいい。


 誰が、いつ来るのか。


 一目で分かる方がいい。


 別の紙を出して線を引く。


『五の鐘』

『五の鐘から半刻後』

『六の鐘』

『六の鐘から半刻後』


 明日の欄。


『五の鐘 ミラ』


 そして明後日の欄。


『五の鐘 カイル』


「モニカ、これ何?」


 リリが覗き込む。


「予約表。お客さんが来る時間を書いておくの」


「へえ。じゃあ、同じ時間に二人来ちゃわないんだ」


「そういうこと。よく分かったね」


「えへへ」


 リリはもう一度、表を覗き込んだ。


「じゃあ、次のお客さんが来る前に、お水を用意しておけばいい?」


「……そうね! それ、すごく助かる」


「ほんと?」


「うん。お客さんも待たなくて済むし、私も準備に集中できる」


 リリが嬉しそうに笑った。


 ああ、この顔。


 前世で、美咲が初めて一人で指名をもらった時も、こんな顔をしていた。


 誰かが一つできるようになる瞬間って、何度見ても嬉しい。


「じゃあ、私、お水係!」


「ふふ。お願いしようかな」


「任せて!」


 リリは張り切って、空の杯を集め始めた。


 小さな背中を見送りながら、私は予約表を見た。


 前世では当たり前だった仕組み。


 でも、ここでは一つずつ作っていく必要がある。


 そして、一つ作るたびに、できることが増えていく。


 それが、なんだか楽しい。


     ◇


 夕方。


「今から、ほぐしってやつ頼めるか?」


 また一人。


 私は予約表を見る。


「今は埋まっているので、六の鐘から半刻後なら空いてます」


「それなら一回帰れるな」


「では、その時間で取っておきます。お名前をお願いします」


「バルト」


 書き込む。


『六の鐘から半刻後 バルト』


 男性が帰ってから、私は炭筆の先で予約表を軽く叩いた。


 理屈だけなら、一刻に二人。


 枠を増やせば、それだけ売上も増える。


 でも。


「……全部埋まったら、回らないな」


「何が?」


 リリが水の入った杯を運びながら聞いた。


「店。今のままじゃ、予約を増やせない」


「客いっぱい来た方がいいんじゃないの?」


「もちろん。来てくれるのは嬉しいよ」


 私は予約表を指でなぞった。


「でもね、リリ。お客さんが十人来てくれても、私がちゃんと楽にしてあげられるのが五人なら、五人までしか受けちゃいけないの」


「なんで?」


「残りの五人に、いい加減な仕事をしたくないから」


 リリは少し考えてから言った。


「じゃあ、もっと早くやれば?」


「それも一つの方法。でも、急いで終わらせたら意味がないでしょ?」


「そっか。ゆっくりやるから気持ちいいんだもんね」


「うん。ちゃんと身体を見て、その人に合ったことをしたいの」


「じゃあ、モニカが二人いたらいいのに」


「本当だね。私もそう思う」


 二人で笑った。


 でも、そこでふと考えた。


 私が二人いなくても、できることはある。


 ほぐしを覚えてくれる人がいればいい。


 受付やお風呂を任せられる人がいればいい。


 今はまだ難しいけれど、いつかは。


「それに、私が倒れたら明日から誰も受けられなくなるしね」


「……モニカも倒れるの?」


「倒れるよ。人間だもの」


 そう答えてから、少しだけ胸が痛んだ。


 この身体の持ち主は、実際に倒れて、そのまま帰ってこなかった。


 同じことは繰り返したくない。


「だから、ちゃんと続けられる店にするの」


「続けられる?」


「うん。明日も、来月も、来年も。お客さんが疲れた時に、ここに来れば大丈夫って思える店」


 リリが私を見上げた。


「ずっと?」


「できれば、ずっと」


「……じゃあ、私もずっと来ていい?」


 不意を突かれた。


 この子にとっては、店の売上よりも、そっちの方が大事なのかもしれない。


「もちろん。いつでもおいで」


「……うん!」


 リリが嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、私もいっぱい覚えるね」


「何を?」


「お店のこと。お水とか、布とか、お客さんの名前とか」


「もうずいぶん覚えてるよ」


「もっと!」


 その顔があまりにも真剣で、私は思わず笑った。


「頼もしいなあ」


「えへへ」


 リリが照れくさそうに笑う。


 こういう瞬間が好きだ。


 誰かが新しいことを覚えて、自信をつけていく。


 前世でも、後輩の成長を見るのが何より嬉しかった。


 今はまだ小さな浴場だけれど。


 いつか、もっと人を育てられる店にしたい。


「よし。まずは一日に受ける人数を決めよう」


「お客さん、断るの?」


「予約がいっぱいならね。でも、いつか断らずに済む店にする」


「でっかい店?」


「そう。腕のいい人を育てて、みんなで働くの」


「楽しそう!」


「でしょ?」


 私は笑いながら、予約表に一日の受付上限を書き込んだ。


 できることは、まだ少ない。


 でも、増やしていけばいい。


 一人で抱え込むんじゃなくて、少しずつ誰かに任せられる店にしていく。


 そのためにも、まずは今いるお客さんを大事にしよう。


「モニカ」


「ん?」


「私、明日も早く来るね」


「うん。待ってる」


「お水、先に用意しておく!」


「ありがとう。助かるよ」


 リリは満足そうに笑った。


 店を回す人手は、まだ足りない。


 でも、一緒に店をよくしようとしてくれる小さな仲間がいる。


 私は受付台の端に置かれた白い石を見た。


 桃色の筋が入った、小さな石。


 今朝までは、何もなかった場所だ。


 明日は、どんな一日になるだろう。


 そう考えると、少し楽しみになった。

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