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第四話 「疲れてない」は信用しません

翌朝。


 私はエリオと一緒に、道具屋の棚の前で腕を組んでいた。


「高い」


「だから言っただろ」


「砂が落ちるだけなのに?」


「その砂を同じ速さで落とすのが難しいんだよ」


 棚には、いくつかの砂時計が並んでいる。


 装飾の入った立派なものから、木枠だけの簡素なものまで。


 昨日、ローデンさんを施術して痛感した。


 時間が分からない。


 鐘は鳴る。


 でも、施術の途中で「どれくらい経った?」を知るには大雑把すぎる。


「こっちは?」


「安い。そのぶん作りも粗い」


「ちゃんと使える?」


「時間を測るだけならな」


「じゃあこれ」


「即決かよ」


「経費、経費……」


「その言葉を唱えれば金が増えると思ってないか?」


 思ってない。


 思ってないけど、そうでも思わないと財布を開けない。


 私は簡素な砂時計を買った。


 経費。


 これは経費。


 必要経費。


 財布が軽くなったのは気のせいだ。


 たぶん。


 浴場へ戻ると、入口の前に小さな人影が座っていた。


「遅い」


 リリだった。


「……何してるの?」


「待ってた」


「誰を?」


「モニカ」


「なんで?」


「客、来るかもしれないだろ」


 当然みたいに言われた。


「あなた、うちの店員じゃないよね?」


「昨日、客連れてきた」


「そうだけど」


「だから今日もいる」


 理屈が分からない。


 でも、帰れとも言いにくい。


「……朝ごはん食べた?」


「食べた」


「何を?」


「…………」


「食べてないじゃん」


「うるさい」


「はいはい。中入りなさい」


「別に腹減ってない」


「聞いてない」


 後ろでエリオが笑った。


「なんかもう、母親みたいだな」


「誰がよ」


「お前が」


「こんな生意気な娘を持った覚えはありません」


「誰が娘だ!」


「ほら、朝ごはん」


「……食べる」


「食べるんじゃない」


 思わず笑う。


 昨日まで、店には私一人しかいなかったはずなのに。


 なんだか急に、騒がしくなった。


 中へ入ると、浴場の隅に見慣れないものが置いてあった。


「……できてる」


 木製の台。


 人が横になれる長さがあり、脚もしっかりしている。


 昨日、エリオに頼んだ施術台だった。


「早くない?」


「簡単な作りだからな」


「乗っていい?」


「そのために作ったんだろ」


 私は手で押した。


 びくともしない。


 次に腰をかける。


 揺れない。


 さらに少し体重をかける。


「おい」


「耐久試験」


「壊したら直さねえぞ」


「作った本人が言わないでよ」


 角を触る。


「ここ、もう少し丸くできる?」


「できる」


「あと、この辺も。お客さんが腕をぶつけたら痛いから」


「分かった」


 エリオが台を見ながら頷く。


 私はもう一度、手のひらで木の表面を撫でた。


「いいね、これ」


「……そうか」


「うん。すごくいい」


 嬉しくなって笑うと、エリオが妙な顔をした。


「何?」


「いや」


「何よ」


「……お前、そんなふうに笑ったっけな」


 一瞬、言葉が止まった。


 でもエリオはすぐに台へ視線を戻した。


「角、削ってくる」


「……お願い」


 まだ。


 まだ、聞かれない。


 でもたぶん。


 この人は少しずつ気づいている。


「で」


 私はテーブル代わりの板の前に座った。


 向かいにはリリ。


 横にはエリオ。


「料金を決めます」


「昨日決めただろ」


 リリが言った。


「十枚」


「昨日はね。初めてだったから十枚にしたの」


「じゃあ今日は?」


「通常は十五枚にしようと思う」


 ローデンさんの反応を見る限り、十五でも高すぎない。


 むしろ十は安かった。


「だから、昨日は初めてだったから――」


 そこまで言って。


 私は止まった。


「……あ」


「どうした」


 エリオが眉を上げる。


「昨日、私……ローデンさんに『初めてなので十枚です』って言った」


「言ってた」


 リリが即答した。


「ということは」


 今日来る人も。


 明日来る人も。


 最初は全員、初めてだ。


「…………」


「モニカ?」


「……昨日の私を殴りたい」


「なんで!?」


 前世だったら新人に注意しているところだ。


 値段を決める前に、割引理由を口にしてはいけません。


 あとから条件を変えると、お客さんが混乱するから。


 十四年もやってきた私が。


 やった。


「仕方ない」


 私は板に書いた。


『施術 初回十枚』


『二回目以降 十五枚』


「これでいく」


「損じゃないのか?」


「約束したから。ローデンさんから聞いて来る人に、いきなり十五って言ったら信用なくすでしょ」


「ふーん」


 リリが文字を覗き込む。


「二回目から高くなるのに、また来る?」


「来てもらえるようにするのが私の仕事です」


 そこは胸を張って言える。


 その直後だった。


「客!」


 入口の方からリリの声が飛んだ。


「『いらっしゃいませ』!」


「いらっしゃいませ! 客!」


「最後いらない!」


 慌てて入口へ向かうと、男が二人立っていた。


「ローデンに聞いたんだが」


「身体を揉んでくれるっていうのはここか?」


 来た。


 本当に来た。


「はい。施術ですね」


「十枚だって聞いた」


「初回は十枚です」


 昨日の私。


 ギリギリ致命傷ではなかった。


「じゃあ頼む」


「俺も」


「…………二人?」


 当たり前だ。


 二人で来たんだから二人だ。


 問題は。


 私の身体は一つしかない。


「一人ずつになりますけど、大丈夫ですか?」


「ああ。じゃあ俺、先に風呂入ってる」


「風呂?」


 男が浴場を指した。


「ここ、風呂屋だろ?」


「……そうでした」


 エリオが顔を背けた。


 笑ったな。


「風呂は六枚です」


「じゃあ入る」


 男から銅貨を六枚受け取る。


 数えて、箱へ入れる。


 布を一枚渡して。


「こちらです」


 浴場を案内する。


 その間、もう一人を待たせる。


 戻ってきて、今度は施術台へ案内する。


 砂時計を用意する。


 ……忙しい。


 まだ客は二人しかいないのに。


「リリ」


「何?」


「ちょっと手伝ってくれる?」


「何すればいい?」


「お風呂に入る人に、そこの布を一枚渡して。お金はまだ私が受け取るから」


「分かった」


「分からなくなったら?」


「モニカ呼ぶ」


「よし」


 まずは、それだけ。


 十歳くらいの子に、いきなり店を任せるつもりはない。


 でも、布を一枚渡してもらえるだけでも助かる。


 私はようやく一人目の客に向き直った。


 買ってきた砂時計をひっくり返す。


 さらさらと砂が落ち始めた。


「これで時間を測るのか」


「はい」


「珍しいな」


「私も今日からです」


「大丈夫か?」


「そういうことは施術が終わってから聞いてください」


 男が笑った。


 肩。


 背中。


 腰。


 《コンディション》で状態を確認しながら、必要なところを探していく。


 砂が落ち切るころには、男の顔から力が抜けていた。


「……軽いな」


「無理して動かしすぎないでくださいね」


「次は十五だっけ?」


「はい」


「それでも来るよ」


 よし。


 十五でもいける。


 心の中で小さく拳を握る。


「次の人、呼んで」


 リリに言うと、首を振った。


「まだ出てきてない」


「まだ?」


「靴ある。だからまだ風呂」


 なるほど。


 待ち時間に風呂へ入ってもらえば効率がいい。


 ……と思ったけど。


 いつ出てくるか分からない。


 施術は砂時計で時間を決められる。


 でも入浴時間は、人によって違う。


「……そりゃそうか」


 前世のサロンと同じようにはいかない。


 ここは施術店じゃない。


 浴場なのだ。


 しばらくして、二人目の男がほかほかした顔で出てきた。


「いやあ、いい湯だった」


 額に汗が浮いている。


「どうぞ」


 私は水差しから杯に水を注いで渡した。


「お、ありがとな」


 男は受け取ると、気持ちよさそうに飲んだ。


 その様子を、リリがじっと見ている。


「じゃあ、次はこちらへ」


 男を施術台へ案内しようとしたところで、後ろから声がした。


「モニカ」


「ん?」


「水、私やる」


「できる?」


「注ぐだけだろ」


「こぼさないでよ」


「こぼさない」


「じゃあお願いしようかな。お風呂から出てきた人に渡してあげて」


「分かった」


 たった一つ。


 リリの仕事が増えた。


 二人目の身体に触れた瞬間、少し驚いた。


 筋肉が温まっている。


 さっきの人より、最初から力が抜けやすい。


 お風呂。


 それから施術。


 相性がいい。


 もちろん全員に同じ順番がいいとは限らない。


 でも、これは使える。


 風呂は風呂。


 施術は施術。


 別の商品だけど、同じ場所にある意味はちゃんとある。


「……なるほどね」


「何が?」


「こっちの話です」


 少しずつ。


 この店の形が見えてきた。


 施術を終える。


「ありがとうございました」


「こりゃローデンが勧めるわけだ」


 男が身体を起こした。


 私が水差しへ手を伸ばそうとすると。


「モニカ」


「ん?」


「私やる」


 リリが水差しを指した。


「水?」


「うん」


「じゃあお願い」


 リリは杯に水を注いだ。


 少し多い。


 こぼれそうになって、慌てて両手で持つ。


「はい」


「ありがとな」


 男が受け取る。


 飲み終わった杯まで、リリはちゃんと受け取った。


「……どう?」


 なぜか得意げだ。


「合格」


「簡単じゃん」


「じゃあ次からお願いしようかな」


「いいよ」


「お風呂から出た人にね」


「分かった」


 たった一つだった仕事が、二つになった。


挿絵(By みてみん)


 昼前になると、近所の人たちが風呂に入りに来た。


 私は料金を受け取る。


 リリが布を渡す。


 風呂から出てきた人には、リリが水を出す。


 まだ客の数は多くない。


 それでも、一人で全部やるよりずっと楽だった。


「ネルおばちゃん、今日は一人?」


 リリが布を渡しながら言った。


「まあ、リリ。あんたここで何してるの?」


「手伝ってる」


「いつから?」


 リリが少し考えた。


「今日」


 私も今日知った。


「旦那は?」


「腰が痛いって家で寝てるよ」


「じゃあモニカに施術してもらえば?」


 私は思わずリリを見る。


「……今ちゃんと施術って言ったね」


「覚えた」


「偉い」


「子供扱いすんな」


 ネルさんが笑った。


 次に来た男にも、リリは声をかけた。


「ダン、今日は魚もう売れたの?」


「おう。昼前に全部な」


「昨日でかいの持ってた」


「よく覚えてんな」


 その次。


「ヨハン」


「俺の名前知ってんのか?」


「パン屋の裏にいる」


「裏?」


「荷物運んでる」


「……よく見てるなあ」


 私は受付の奥からリリを見た。


 さらに朝来た二人が帰ったあと。


「ハイルは肩。マルコは風呂長い」


 リリが言った。


「……ちょっと待って」


「何」


「今の二人、今日初めて会ったよね?」


「うん」


「名前、もう覚えたの?」


「言ってたじゃん」


「どっちがどっちかも?」


「当たり前だろ」


 当たり前じゃない。


 前世で何人も新人を見てきた。


 接客がうまい子。


 施術がうまい子。


 会話がうまい子。


 そして、ごくたまにいた。


 一度会った客の顔と名前を、驚くほど忘れない子。


 あれは才能だ。


 人は、自分を覚えてくれている場所に帰ってくる。


「リリ」


「何」


「受付、やってみる?」


「受付?」


「お客さんを迎えて、布を渡したり、水を出したり。今やってることを、仕事にするの」


「飯出る?」


「出す」


「肉?」


「毎日は無理」


「じゃあたまに」


「交渉するねえ」


「働くんだから当たり前だろ」


 思わず笑った。


「そうね」


 それは本当に、その通りだ。


 午後。


 その男は来た。


 扉が開く。


 最初に反応したのは、やっぱりリリだった。


「いらっしゃいませ! 風呂? 施術?」


 もう覚えている。


 早い。


 男は二十代後半くらいだろうか。


 背が高い。


 体格がいい。


 旅人にしては姿勢が良すぎる。


 腰には剣。


 服は派手じゃない。


 でも、立っているだけで妙な圧がある。


「身体をほぐすと聞いた」


「はい」


「頼みたい」


「初めてなら十枚です」


「構わない」


 即答。


 私は施術台へ案内した。


挿絵(By みてみん)


「まず身体の状態を確認します。痛いところはありますか?」


「ない」


「気になるところは?」


「ない」


「疲れてます?」


「別に」


 …………。


 面倒くさい客が来た。


「じゃあ、なんで来たんですか」


「評判を聞いた」


「身体に問題ないなら、施術しなくてもいいですよ」


「金は払う」


「そういう問題じゃないんです」


 男の眉がわずかに動いた。


「横になってください」


 腕に触れる。


 その瞬間。


 視界の端に、文字が浮かんだ。


【カイル・レグナード】


【疲労:91】


【右肩:慢性炎症/筋緊張・重度】


【左腰部:筋疲労】


【睡眠不足:重度】


【精神状態:警戒/苛立ち/罪悪感】


 …………。


 どこが「別に」なのよ。


 右肩なんて、かなり悪い。


 それに睡眠不足。


 罪悪感。


 名前は、カイル・レグナード。


 でも。


 それを口にするつもりはなかった。


 前世でも、本名とは違う名前で予約を入れるお客さんはいた。


 仕事で使っている名前。


 通称。


 あるいは、ただ本名を知られたくない人。


 こちらに必要なのは戸籍じゃない。


 その人が、この店で何と呼ばれたいか。


 それだけだ。


「最後にちゃんと寝たの、いつですか?」


「覚えていない」


「毎晩?」


「何が」


「途中で起きる?」


 男の目が細くなった。


「施術に関係あるのか」


「あります。寝不足の人と、ちゃんと眠れてる人じゃ身体の状態が違うから」


「問題ない」


「大丈夫は禁止」


「……何?」


「問題ないも禁止したいくらいです」


「意味が分からん」


「私には分かります」


 言ってから、少しだけ胸がざわついた。


 大丈夫。


 元のモニカも、そう言っていたらしい。


 大丈夫じゃなかったのに。


「右肩、かなり張ってます」


「いつものことだ」


「痛みは?」


「ない」


「本当に?」


「問題ない」


「禁止って言ったでしょ」


 男が初めて、少しだけ面倒そうな顔をした。


「強くやってくれ」


「嫌です」


「……なぜだ」


「強くすれば効くわけじゃないから」


「弱い施術に金を払うつもりはない」


「じゃあ終わってから文句言ってください」


「お前は客に対していつもそうなのか」


「嘘つくお客さんには、だいたいこんな感じです」


 睨まれた。


 怖い。


 でも譲らない。


「右肩は直接強く触りません。周りから緩めます」


「好きにしろ」


「最初からそう言ってください」


 施術を始める。


 肩そのものではなく、首。


 背中。


 腕。


 少しずつ。


 最初は石みたいだった身体から、ゆっくり力が抜けていく。


「力、抜いてください」


「抜いている」


「抜いてません」


「……」


「全部預けてください」


 反応が止まった。


「施術台に。今だけ、自分で支えなくていいです」


 返事はなかった。


 でも。


 少しだけ、身体が重くなった。


 預けてくれた。


 私は何も言わず、そのまま続けた。


 罪悪感。


 何についてなのかは分からない。


 聞く必要もない。


 本人が話したくないことを、こちらから暴くのは違う。


 身体は身体。


 心は心。


 私は今、この人の身体を少し楽にする。


 それでいい。


 しばらくして。


 呼吸が変わった。


「……え」


 寝てる。


 さっきまであんなに警戒していた男が。


 完全に寝ている。


 砂時計を見る。


 もうすぐ落ち切る。


 …………。


 これは困った。


 店として考えれば、時間になったら起こすべきだ。


 次の客がいたら待たせることになる。


 でも。


【睡眠不足:重度】


 私は砂時計を見た。


 男を見た。


 もう一度、砂時計を見た。


「……今日だけだからね」


 小さく呟いて、少しだけ寝かせることにした。


「お客さん」


 しばらくして肩を軽く叩く。


 男の目が開いた。


 次の瞬間。


 手が腰へ動いた。


 剣。


 私は一歩下がった。


 男も途中で気づいたらしい。


 手を止める。


「……すまない」


「寝起きに剣へ手を伸ばす人、初めて見ました」


「忘れろ」


「無理です」


「忘れろ」


「二回言っても無理です」


 男は身体を起こした。


 右肩を動かす。


 腕を上げる。


 少し驚いた顔をした。


「どうです?」


「……軽い」


「でしょう?」


「痛みもない」


「だから痛くなる前に休んでください」


「それができれば苦労しない」


 初めて。


 ほんの少しだけ、人間らしい返事をした。


「リリ、お水お願い」


「うん」


 リリが水差しを持つ。


 杯に注いで、男へ差し出した。


「はい」


 男は一瞬だけリリを見てから、受け取った。


 一息で飲み干す。


「もういる?」


「いや」


「分かった」


 リリは杯を受け取ると、さっさと戻っていった。


 私は少し感心した。


 あの顔で睨まれても、まるで気にしていない。


 受付向きかもしれない。


 本当に。


「次はいつ来ればいい」


 男が立ち上がりながら言った。


「右肩の状態を見るなら、何日か空けてからですね」


「三日後」


「三日後?」


「来る」


「……何時に?」


 言ってから。


 私は止まった。


 何時。


 そうだ。


 今日だって二人同時に来た。


 施術できるのは一人ずつ。


 風呂なら何人か同時に入れる。


 でも施術は無理だ。


「三日後の……五の鐘で」


「分かった」


 初めての予約。


 いや。


 予約と言っていいのか?


 鐘は大雑把だ。


 五の鐘に二人来たら?


 三人来たら?


 遅れたら?


 早く来たら?


 問題が一気に頭へ押し寄せてくる。


「あ、その前に」


「何だ」


「お名前を教えてください。次の予約と記録に必要なので」


 一瞬。


 男が黙った。


「……カイル」


 知っている。


 私の頭には、さっき見えた文字が残っている。


 カイル・レグナード。


 でも。


「カイルさんですね」


 それ以上は聞かなかった。


 名乗りたくないことには、その人なりの理由がある。


 サービスをする側が必要以上に踏み込むことじゃない。


「次から十五枚になります」


「構わない」


「三日後、五の鐘」


「ああ」


 カイルはそれだけ言って、店を出ていった。


「変なやつ」


 リリが言った。


「お客さんに言わないの」


「もういない」


「そういう問題じゃない」


 私は紙を一枚出した。


 顧客記録。


 前世では当たり前にやっていた。


 こっちでも必要になる。


『カイル』


 少し考えて、そこで筆を止めた。


 本当の名前は分かっている。


 でも本人が店に預けた名前は、カイルだけだ。


 なら、店の記録もそれでいい。


『右肩注意』


『強圧希望。ただし強くしすぎない』


『睡眠不足』


『無口』


『面倒くさい』


『寝起きに剣へ手を伸ばす。要注意』


『三日後・五の鐘』


「面倒くさいって書くの?」


 横からリリが覗いた。


「重要情報です」


「悪口じゃん」


「記録です」


「ふーん」


 私は紙を伏せた。


「それと、こういうのは勝手に見ない」


「なんで?」


「お客さんから預かったものだから」


「名前も?」


「名前も。身体のことも。話してくれたことも」


「誰にも言わない?」


「必要がないならね」


 リリは少し考えてから頷いた。


「分かった」


 その返事だけは、妙に真面目だった。


「ハイル、肩」


「うん」


「マルコ、風呂長い」


「うん」


「カイル、三日後、五の鐘」


「……もう覚えたの?」


「覚えた」


 やっぱりすごい。


 今日会ったばかりの三人だ。


 名前だけじゃない。


 誰が何をしたかまで、ちゃんと結びついている。


「でも、リリ。予約は記録に残すからね」


「なんで? 私が覚えてる」


「リリが休んだら?」


「休まない」


「熱が出たら?」


「出ない」


「出ることもあります」


「出ない」


 強情だな。


「じゃあ、私が明日の予約を入れて、リリに言い忘れたら?」


「……知らない」


「でしょ?」


 リリが少し黙った。


「店ってね、誰か一人が覚えてないと回らないようにしちゃ駄目なの」


「モニカも?」


「私も」


「店主なのに?」


「店主だからこそ」


 前世でもそうだった。


 予約。


 申し送り。


 顧客情報。


 頭の中だけに入れておけば、本人がいない瞬間に全部止まる。


「リリが覚えてくれるのは、すごく助かる。でも、覚えるのと記録するのは別」


「……ふーん」


「納得してない顔」


「私、忘れないし」


「はいはい。それはもう分かった」


 でも、その自信。


 たぶん本当に、かなり忘れないんだろう。


 それでも。


 人の記憶に頼るのと、店として管理するのは違う。


 私は今日の記録を並べた。


 風呂。


 施術。


 料金。


 名前。


 次に来る日。


 時間。


 誰が来たか。


 どこが悪かったか。


 そして。


 誰を、いつ受けるのか。


 前世では予約表を見れば済んだ。


 でもここには時計もない。


 鐘はある。


 砂時計も買った。


 けれど、鐘と鐘の間をどう管理する?


 風呂だけの客は予約なんていらない。


 施術は一人ずつ。


 飛び込み客も来る。


 予約客も来る。


「……店って、客が来れば終わりじゃないんだよね」


「当たり前じゃん」


「あなた今日から働き始めたばっかりでしょ」


「でも分かる」


「……生意気」


 十歳くらいの新人に言われた。


 悔しい。


 そのころ。


 浴場を出たカイルは、街の中心にある大きな石造りの建物へ入っていた。


「団長!」


 若い男が駆け寄ってくる。


「どこへ行っていたんですか。探しましたよ」


「少し出ていただけだ」


「また一人で……。それで、その肩どうしたんです?」


「何が」


「いつもより動いてません?」


 カイルは右肩を回した。


 確かに軽い。


「妙な店を見つけた」


「店?」


「ああ」


「何の店です?」


 カイルは少し考えた。


 風呂屋。


 だが身体をほぐす。


 水を出す小さな受付がいて。


 やたら口の悪い女がいる。


「…………」


「団長?」


「俺にもよく分からん」


 若い騎士が首を傾げる。


 カイルはその横を通り過ぎた。


 建物の扉には、大きな文字が刻まれていた。


『王国第一騎士団』


 アルノ浴場の新しい客。


 カイル。


 本人は言わなかったけれど。


 その男は、この国の第一騎士団を率いる騎士団長だった。

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