第二十話 湯上がりの小さなご褒美
洗濯籠を持ち上げた瞬間、ミーナの腰に鋭い痛みが走った。
「いったぁっ!」
思わず声が出た。
籠を地面に戻し、腰に手を当てる。
「うう……ちょっと張り切りすぎたかなぁ」
朝から風呂屋の仕事は忙しかった。
開店前の掃除に、浴槽の準備。洗い終えた大量の布を干して、乾いたものを畳む。午後の営業が始まれば、受付や浴場の片づけも待っている。
働くことは嫌いじゃない。
むしろ、体を動かしているほうが性に合っていた。
だから、少しくらい疲れていても、いつも通り動けると思っていたのだ。
「ミーナ、大丈夫?」
声をかけてきたのはリリだった。
両手に畳んだ布を抱え、心配そうにこちらを見ている。
「へーき、へーき! ちょっと腰がびっくりしただけ!」
笑ってみせたものの、もう一度籠に手を伸ばすと、腰がずきりと痛んだ。
「……あいたた」
「全然平気じゃないじゃん」
リリは呆れた顔をした。
「モニカ呼んでくる」
「あっ、ちょっと! そこまでじゃ――」
言い終わる前に、リリは走っていってしまった。
ミーナは苦笑いしながら、そっと籠から手を離した。
どうやら今日は、少し休んだほうがよさそうだ。
◇
「ミーナさん、腰を痛めたんですか?」
施術室では、フィオナが心配そうに顔をのぞき込んでいた。
「いやぁ、ちょっと力を入れたら、ぴきっときちゃって」
「ちょっとじゃなかったよ」
後ろからリリが訂正する。
「ミーナ、すっごい声出してた」
「リリ、それは言わなくていいって!」
モニカは二人のやり取りを聞きながら、ミーナの腰の状態を確かめた。
《コンディション》。
身体の状態が、いつものように感覚へと流れ込んでくる。
腰まわりの筋肉には強い緊張があり、背中や肩にも疲労が積み重なっていた。
幸い、確認した範囲では深刻な損傷を疑う兆候は見当たらない。
それでも、無理を続けていい状態ではなかった。
「ミーナ、今日は重いものを持つのは禁止ね」
「ええっ、でも洗濯物が――」
「洗濯物は逃げないから」
モニカはきっぱりと言った。
「今は痛みが出ているんだから、まず休もう。楽な姿勢を取って、落ち着いてからできる範囲で身体をほぐしていくよ」
「はい……」
しょんぼりしたミーナを見て、フィオナが小さく笑った。
「いつも私たちを助けてくださっているんです。今日は任せてください」
「うう、なんか照れるなぁ」
ミーナは案内されるまま、施術台へ横になった。
無理なく身体を預けられるよう、モニカが姿勢を整える。
フィオナは肩から腕にかけての状態を確かめ、モニカは腰の周囲にそっと手を添えた。
「痛かったらすぐ言ってね」
「はい、モニカさん」
まずはフィオナが、肩の緊張をゆっくりと緩めていく。
「……うっ」
「痛みますか?」
「ちょっとだけ。でも、そこ、すごく張ってる気がする」
「無理に押さず、少しずつ緩めますね」
フィオナの手つきは、以前よりずっと落ち着いていた。
筋肉の緊張が強い場所を慎重に見極め、力加減を調節する。
その様子を確認しながら、モニカも腰に負担のかからない範囲で周囲の筋肉をほぐし、《光の手》を重ねた。
柔らかな光が、ミーナの腰を淡く包む。
「ふぅ……」
ミーナの口から長い息が漏れた。
「気持ちいい……。あたし、思ってたより疲れてたんですね」
「かなり頑張ってたみたいだね」
「そんなつもりなかったんですけど」
「夢中で働いていると、自分の疲れに気づかないこともあるから」
モニカの言葉に、ミーナは少し考え込んだ。
施術室には、穏やかな沈黙が流れる。
やがて、ぽつりとミーナが口を開いた。
「……あたしの実家、飲食店なんです」
「そうなんだ」
「はい。小さい頃から、店の手伝いをしてました。料理を運んだり、片づけたり、お客さんと話したり」
懐かしむような声だった。
「家業は上のきょうだいが継ぐことになってて。だから、あたしは自分で仕事を見つけようって思ったんです」
「うん」
「でも、勉強が得意なわけでもないし、何かすごい技術があるわけでもないし……。何が向いてるのか、自分でもよく分からなくて」
いつも明るいミーナにしては、珍しく弱気な言葉だった。
「とにかく、今できることを一生懸命やろうって。それで、ずっと働いてきました」
モニカは手を動かしながら耳を傾けた。
「風呂屋で働くことになるなんて、思ってもみなかったですけどね」
ミーナはくすりと笑った。
「でも、案外好きなんです。ここでの仕事」
「そう?」
「はい。お客さんが気持ちよさそうに帰っていくのを見るのが、なんだか嬉しくて」
実家の飲食店でも、そうだった。
美味しいものを食べた客が笑顔になる。
常連が「また来るよ」と手を振って帰る。
そんな光景を見るのが、ミーナは好きだった。
「飲食店と風呂屋って、全然違う仕事だと思ってたんですけど……似てるところもあるんですね」
「あると思うよ」
モニカは微笑んだ。
「どちらも、お客さんが気持ちよく過ごせる場所をつくる仕事だからね」
「……そっか」
ミーナは目を細めた。
それから、少し照れくさそうに言った。
「あたし、ここで働けてよかったです」
フィオナが手を止めずに微笑む。
「私も、ミーナさんと一緒に働けて嬉しいです」
「もう! そういうこと言われると恥ずかしいって!」
施術室に笑い声が広がった。
しばらくして、ミーナの肩から余分な力が抜けてきた。
腰の痛みも少し落ち着いたようだ。
モニカは施術を終え、起き上がる動作をゆっくり手伝った。
「今日はもう重い仕事は禁止。無理しないでね」
「はい。ちゃんと休みます」
「約束だよ?」
「約束です!」
元気よく答えたミーナに、モニカは笑った。
ただ、その笑顔の裏で、ひとつ考えていた。
ミーナは本当によく働いてくれている。
だからこそ、頑張りすぎなくても続けられる働き方を考えなければならない。
元気な従業員がいることも、店にとって大切な財産なのだから。
◇
その日の午後。
入浴を終えた客が、受付近くの椅子に腰掛けていた。
「ああ、いい湯だった」
ミーナが差し出した飲み水を受け取り、男は美味しそうに飲み干す。
「生き返るなぁ」
「お代わりもありますよ!」
「いや、もう十分だ。ありがとう」
男は満足げに息をついた。
それから、ふと思いついたように言った。
「こうして湯上がりに座ってると、何か甘いものでも欲しくなるな」
「甘いもの、ですか?」
「ああ。冷たい果物でもあれば最高なんだが」
男は笑いながら立ち上がった。
「まあ、贅沢な話だ。また来るよ」
「ありがとうございました!」
客を見送ったあと、ミーナはしばらくその場で考え込んでいた。
湯上がりに、甘いもの。
水はいつでも無料で飲める。
けれど、水とは別に、風呂から上がったあとの楽しみがあってもいい。
「……あっ」
ある記憶が、ふいによみがえった。
実家の飲食店。
暑い日に、果物を絞って飲み物を作っていたこと。
林檎や木苺を使い、甘さや酸味の加減を工夫していたこと。
客の好みに合わせて、果実を組み合わせるのが好きだったこと。
「あれ、ここでもできるんじゃ……?」
ミーナはぱっと顔を上げた。
「モニカさん!」
その声に、帳簿を確認していたモニカが振り向いた。
「どうしたの?」
「あたし、作ってみたいものがあるんです!」
◇
翌朝。
風呂屋の作業台には、林檎と木苺が並んでいた。
「果実ジュース?」
リリが興味深そうにのぞき込む。
「そう! 実家でよく作ってたんだ。果物を絞って、飲みやすいように味を整えるの」
「美味しそう」
「でしょ?」
ミーナは得意げに笑った。
とはいえ、腰の調子はまだ万全ではない。
今日は重い荷物を運ばず、作業台の前に座って準備を進めることになっていた。
果物は丁寧に洗い、使う器具や杯も清潔なものを揃える。
飲み水と同じく、調理に使う水の衛生管理にも気を配る。
モニカは準備の様子を確認して頷いた。
「うん。いいね。作り置きはせず、まずは少量から始めよう」
「はい!」
ミーナは慣れた手つきで林檎を刻み、果汁を絞った。
そこへ木苺を加え、味を確かめる。
「んー……ちょっと酸っぱいかな」
少し割合を変えて、もう一度。
そして、出来上がった赤みのある果実ジュースを、小さな杯に注いだ。
「できました! みんな、飲んでみて!」
最初に口をつけたのはリリだった。
ひと口飲むと、目を丸くする。
「あ、美味しい!」
「ほんと?」
「甘いけど、ちょっと酸っぱくて、飲みやすい」
「やった!」
フィオナも杯を手に取り、ゆっくり味わった。
「果物の香りがしっかりしますね。後味もすっきりしています」
最後にモニカが飲んだ。
林檎の優しい甘みと、木苺の爽やかな酸味。
湯上がりに飲めば、きっと美味しいだろう。
「うん、いい味だね」
「本当ですか!?」
「うん。これは売れると思う」
ミーナの顔がぱあっと明るくなった。
「じゃあ、置いてもいいですか?」
「もちろん。ただし、無理しない範囲でね」
「はい!」
モニカは果物の仕入れ値と一杯に使う量を確認した。
果実は季節や天候によって値段が変わる。
安いときにたくさん作ればいいというものでもないし、売れ残って傷ませてしまっては意味がない。
ミーナとも相談し、まずは一日に十杯だけ用意することにした。
価格も、材料費と手間を考えて決めた。
「一杯、銅貨三枚。どうかな?」
モニカが尋ねると、ミーナは少し考えて頷いた。
「いいと思います! お風呂上がりに、ちょっと楽しんでもらえる値段ですね」
「そう。飲み水はこれまで通り無料。ジュースは、欲しい人が楽しむためのものにしよう」
「はい!」
ミーナは嬉しそうに胸を張った。
「絶対、美味しいって言ってもらえるようにします!」
◇
その日の午後。
風呂屋の受付に、小さな盆が置かれた。
盆の上には、果実ジュースの入った杯。
鮮やかな色が、窓から差し込む光を受けて輝いている。
「本日から、果実ジュースを始めましたー!」
ミーナの元気な声が響いた。
「湯上がりのご褒美にいかがですか? 一杯、銅貨三枚です!」
最初の客は、先ほど風呂から上がったばかりの女性だった。
「へえ、何の果物?」
「林檎と木苺です! 甘酸っぱくて美味しいですよ」
「じゃあ、一杯もらおうかな」
「ありがとうございます!」
ミーナは清潔な杯にジュースを注ぎ、丁寧に差し出した。
女性はひと口飲んだ。
「……あら」
少し驚いた顔になる。
「これ、美味しいわね」
「本当ですか!?」
「ええ。甘すぎないのがいいわ。お風呂上がりにぴったり」
「ありがとうございます!」
ミーナの笑顔が、ぱっと輝いた。
その様子を見ていた別の客も、興味を示す。
「そんなに美味いのか。俺にも一杯くれ」
「はい!」
さらにもう一人。
次第に、受付のそばに人が集まり始めた。
「果物の香りがいいね」
「風呂上がりに、こういうのも悪くないな」
「次に来たときもあるかい?」
客の言葉に、ミーナは何度も頭を下げた。
「ありがとうございます! また用意しますね!」
そして――。
「……あれ?」
最後の一杯を渡したあと、ミーナは空になった容器を見つめた。
指を折って、数えてみる。
一杯、二杯、三杯……。
「十杯……」
もう一度、確かめる。
「十杯、全部売れた!」
思わず大きな声が出た。
「モニカさん! 完売です! 十杯全部!」
「本当? おめでとう、ミーナ!」
モニカが笑顔で近づいてくる。
フィオナも、リリも駆け寄ってきた。
「すごいですね、ミーナさん!」
「全部なくなっちゃったんだ!」
「そうなの! 全部!」
ミーナは嬉しくて仕方がなかった。
売上は銅貨三十枚。
そこから果物の仕入れ代などを引かなければならない。
決して、大きな儲けというわけではない。
それでも。
自分で考えて、自分で作って、お客さんに喜んでもらえた。
そのことが、何より嬉しかった。
「……あたし、こういうの得意だったんだ」
ぽつりと呟いた。
実家では当たり前にやっていたこと。
誰かに自慢するような特技だと思ったこともなかった。
けれど、ここでは違った。
自分が作った飲み物を、お客さんがお金を払って買ってくれる。
そして、笑顔になる。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
「ミーナ?」
モニカに呼ばれ、ミーナは顔を上げた。
「……あの、モニカさん」
「うん?」
「あたし、今まで自分には何もないって思ってたんです」
いつになく真剣な声だった。
「勉強も得意じゃないし、特別な技術もないし。だから、とにかく一生懸命働くことしかできないって」
モニカは黙って耳を傾けた。
「でも、今日、ちょっと思ったんです」
ミーナは空になったジュースの容器を見つめた。
「あたしにも、ちゃんとできることがあるんだなって」
モニカは優しく微笑んだ。
「うん。ミーナには、もともとできることがたくさんあったよ」
「……え?」
「毎日、お客さんの様子をよく見てるし、仕事にもすぐ気づいて動いてくれる。今日のジュースだって、お客さんのひと言をちゃんと聞いていたから思いついたんでしょう?」
「あ……」
「それも立派な強みだよ」
ミーナは照れくさそうに笑った。
「そっかぁ……」
少しだけ、目元が潤んでいた。
けれど次の瞬間、いつもの元気な笑顔に戻る。
「じゃあ、これからもっと頑張らないとですね!」
「そこは、頑張りすぎないでね」
「えへへ……はい!」
モニカは腰のあたりに視線を向けた。
「ジュースが人気になっても、一人で全部やろうとしちゃ駄目だよ。毎日作る量も、無理のない範囲で決めよう」
「分かりました。あたし、長く続けたいですから!」
その返事を聞いて、モニカは満足そうに頷いた。
◇
「ねえ、ミーナ」
夕方、片づけをしていると、リリが声をかけてきた。
「ジュース、明日も売るんでしょ?」
「うん。そのつもりだよ」
「じゃあ、外にも看板を出したら?」
「看板?」
「だって、入ってくる前にジュースがあるって分かったら、楽しみにしてくれる人もいると思う」
ミーナは目を瞬かせた。
それから、ぽんと手を打つ。
「それ、いいね!」
使っていない小さな木の板があったはずだ。
文字を書いて、入口に置けばいい。
「何て書こうかなぁ」
ミーナが考えていると、フィオナが言った。
「今日のお客様、ミーナさんが作ったと聞いて、喜んでいらっしゃいましたよ」
「そうなの?」
「はい。お店の名前より、ミーナさんの名前を入れてもいいかもしれません」
ミーナは少し照れた。
「ええっ、あたしの名前?」
「いいじゃない」
モニカも賛成した。
「ミーナが考えた商品なんだから」
「……そっか」
しばらく考えたあと、ミーナは筆を取った。
木の板に、一文字ずつ書いていく。
少し不揃いだけれど、元気のある文字。
書き終えると、ミーナは板を持ち上げた。
『ミーナの特製果実ジュース』
「……どうですか?」
「いいね!」
モニカが笑う。
「素敵です!」
フィオナも嬉しそうに頷いた。
リリは看板を見上げて言った。
「これなら、すぐ分かるね」
四人で風呂屋の入口へ向かう。
木製の看板を、通りから見える場所に置いた。
夕方の柔らかな日差しが、書きたての文字を照らしている。
その看板を見て、ミーナは胸がいっぱいになった。
昨日までは、自分に何が向いているのか分からなかった。
今も、将来どうなるのかは分からない。
けれど――。
ここには、自分の考えた商品がある。
自分を頼りにしてくれる仲間がいる。
そして、明日もきっと、美味しいと言ってくれるお客さんがいる。
「……あたし、もっと色んなことをやってみたいです」
ミーナが言った。
モニカは隣で微笑んだ。
「うん。一緒に考えていこう」
「はい!」
ミーナは元気よく頷いた。
入口の看板が、夕風に小さく揺れる。
湯上がりの小さなご褒美。
それは、お客さんのために生まれたものだった。
けれど、ミーナにとってもまた、自分の可能性を見つける大切な贈り物になったのだった。




