↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/20

第二話 この身体にも、人生があった

翌朝。


「まず、物価」


 私は帳面を一冊持って市場へ出た。


 この世界の金貨一枚が日本円でいくらか。


 そんなものは分からない。


 でも、知る必要もない。


 大切なのは、この街の人が一日働いていくら稼ぎ、その金で何が買えるのか。


「黒パン一個、銅貨二枚」


 書く。


「野菜入りスープ、銅貨三枚」


 書く。


「肉入り、五枚」


 書く。


 安宿一泊、銅貨二十枚前後。


 日雇い仕事の日当、三十枚前後。


「なるほど」


 やっと数字に体温が出てきた。


 昨日見つけた銀貨一枚は、銅貨百枚。


 私の全財産は銅貨換算で百二十七枚。


「四日分の日当くらいか」


 笑えない。


 三十日後に払う金貨一枚は銀貨十枚。


 つまり銅貨千枚。


 月に一千枚。


 一日あたりで割れば三十枚を超える。


 もちろん、それは返済分だけだ。


 薪代もいる。


 食費もいる。


 店を直す金だっている。


「……結構きついな」


 でも、不可能と決まったわけじゃない。


 少なくとも、数字になった。


「よし」


 次。


     ◇


「この油、いくらです?」


「銅貨十二枚」


「十二……」


 植物油。


 使えそうではある。


 でも今の全財産の一割近い。


「肌につける人います?」


「ああ。金持ちの女なんかはな」


「なるほど」


「買うのか?」


「今日は買いません」


「なんだそりゃ」


「市場調査なので」


 次。


 薬草。


 布。


 石鹸に近いもの。


 薪。


 香料。


 価格を書き続ける。


 そのとき。


「モニカちゃん!」


 突然呼ばれた。


「……はい?」


「はいって、あんた!」


 果物屋のおじさんが目を丸くした。


「もう歩いて大丈夫なのか?」


「え?」


「三日も意識なかったんだろ」


「三日……」


 昨日のバルドも言っていた。


「エリオなんて毎日――」


「おっさん!」


 後ろから声が飛んできた。


 振り返る。


 若い男が立っていた。


 二十四、五歳くらいだろうか。


 日に焼けた肌。


 作業着。


 袖から出た腕には木屑がついている。


 男は私を見るなり、息を止めた。


「……モニカ」


 その顔を見て、分かった。


 この人は。


 この身体の女性を知っている。


 ものすごくよく。


「よかった……」


 男が近づく。


「もう大丈夫なのか? 熱は? 治療師はなんて?」


「あの」


「何だ?」


「……エリオ?」


 裁縫箱の紙にあった名前。


 男が少し笑った。


「なんだよ。ちゃんと分かるじゃねえか」


「よかった」


「何が?」


「いや、こっちの話」


 危なかった。


「お前、三日も目ぇ覚まさなかったんだぞ」


「私を見つけたの、あなた?」


「ああ」


 エリオの顔が曇る。


「浴場の床に倒れてた」


「……そう」


「前の日から熱あっただろ」


「覚えてない」


「覚えてない?」


「ちょっと記憶が」


 エリオが私の顔を覗き込む。


「どこまで?」


「かなり」


「俺のことも?」


「名前だけ」


「…………」


 傷ついた。


 はっきり分かった。


「ごめん」


「謝るなよ」


 エリオは顔を逸らした。


「生きてたんだから、それでいい」


 その言い方に、胸が少し痛んだ。


     ◇


「これ持ってきな」


 果物屋のおじさんが赤い果物を二つ差し出した。


「二個?」


「一個分でいい」


「いや、払います」


「いいんだよ」


「でも」


「昔、お前の親父さんに世話になった」


 おじさんは私の手に押しつけた。


「これでチャラだ」


「……ありがとうございます」


 次の店。


「あら、モニカちゃん」


 また呼ばれる。


「ちゃんと食べてる?」


 次。


「ミレーヌさんには世話になったから」


 次。


「困ったら言えよ」


 知らない人たちが、私を知っている。


 違う。


 私じゃない。


 モニカを知っている。


 父アルノを。


 母ミレーヌを。


「……すごいね」


「何が?」


 隣を歩くエリオが聞いた。


「お父さんとお母さん、人望あったんだね」


 エリオが止まった。


「……お前の親だろ」


「あ」


 しまった。


「記憶」


「ああ」


 エリオは頷いた。


 でも、その目が少し変わった。


     ◇


「なあ」


「何?」


「何してんだ、お前」


「市場調査」


「だから何なんだよ、それ」


「この街の人が、何にいくら払ってるか調べてるの」


「なんで?」


「浴場を立て直すから」


 エリオが止まった。


「……閉めろ」


「え?」


「もういいだろ」


 さっきまでと声が違った。


「おじさんも死んだ。おばさんも死んだ。借金もある。お前まで死にかけた」


「でも」


「俺が見つけたとき、お前、息してるか分からなかったんだぞ」


 エリオの拳が握られる。


「治療師には、もう少し遅かったら危なかったって言われた」


「原因は?」


「熱だよ」


「病気?」


「ああ。流行り病だって。疲れが溜まってたから悪化したんじゃないかって」


「……そっか」


「前の日、俺が休めって言ったの覚えてない?」


「ごめん」


「『大丈夫』って言ったんだぞ」


 大丈夫。


 その言葉だけ、妙に耳に残った。


「お前、何聞いても大丈夫って言ってた」


「…………」


「全然大丈夫じゃなかったくせに」


 これは。


 私に言っているんじゃない。


 もういないかもしれないモニカに言っている。


「三十日だけ」


「何?」


「やらせて」


「まだ店やる気か?」


「前と同じことはしない」


「前?」


「一人で全部抱えて、昔と同じやり方を続ける。それはしない」


「……どうやって」


「だから調べてる」


 エリオが私を見る。


 長い。


 あまりにも長い。


「何?」


「お前、本当に変わったな」


 心臓が跳ねた。


「死にかけたからじゃない?」


「…………」


「人間、死にかけたら変わるって」


「そういうもんか?」


「たぶん」


 知らないけど。


 エリオはまだ私を見ていた。


挿絵(By みてみん)


     ◇


 ベルネには、うちより大きな浴場があった。


「入浴料、銅貨八枚」


 高い。


 今の私には痛い。


 銅貨八枚を手のひらに乗せる。


「…………」


「入らないのか?」


「これは風呂代じゃない」


「は?」


「市場調査費」


「同じだろ」


「経費!」


「誰に言い訳してんだよ」


 払う。


 痛い。


 ものすごく痛い。


 中へ入る。


「へえ……」


 ちゃんとしている。


 大きな浴槽。


 洗い場。


 香草。


 垢を擦ってくれる人までいる。


 客も多い。


 さらに聞けば、身体を揉む仕事も存在する。


 怪我人が行く治療院。


 兵士向けの身体ケア。


 富裕層が自宅へ呼ぶ施術師。


 油。


 薬草。


 湯治。


「あるじゃん」


「何が?」


「いや」


 ちょっと嬉しくなった。


 この世界の人だって馬鹿じゃない。


 何百年も身体と付き合ってきた。


 風呂もある。


 身体を揉む技術もある。


 薬草もある。


 なら私が、


『異世界人にマッサージを教えてあげましょう』


 なんてやる必要はない。


「じゃあ、何がないんだろ」


 考える。


 風呂は身体を洗う場所。


 治療院は病人や怪我人が行く場所。


 高級施術師は一部の金持ち向け。


 その間。


 病気じゃない。


 怪我でもない。


 でも、疲れている。


 眠れない。


 身体が重い。


 それでも明日も働かなきゃいけない。


「……あった」


「何が」


「隙間」


「だから何なんだよ」


「私のお客さん」


 エリオが首を傾げた。


     ◇


 夕方。


 浴場へ戻る。


 帳面に書く。


『客候補』


 商人。


 職人。


 旅人。


 兵士。


 裕福な女性。


『競合』


 大型浴場。


 治療院。


 個人施術師。


『うちの強み』


「…………」


 筆が止まる。


「ない」


「おい」


「設備古い。立地普通。金ない。従業員いない」


「今さらかよ」


「でも」


 今日のことを思い出す。


 果物。


 市場の人。


 エリオ。


「一個あった」


「何だ?」


「信用」


「は?」


「私のじゃないけど」


 父と母が積み上げたもの。


 そして。


 元のモニカが積み上げたもの。


 店だけじゃない。


 借金だけでもない。


 人との縁まで、私は相続したらしい。


「……何笑ってんだ?」


「別に」


 今度は、私がここへ何かを積み上げる番だ。


     ◇


「そうだ」


 私は裁縫箱の紙を出した。


『エリオ 修理代 未払い』


「これ、いくら?」


 エリオの顔が固まった。


「捨てろ」


「駄目」


「金ねえだろ」


「ない」


「じゃあ払えねえだろ」


「儲かったら払う」


「……お前」


「何?」


「それ、自分で書いたんだぞ」


「え?」


「俺は金なんかいらねえって言った。お前が『ちゃんと払う』って勝手に書いて箱に入れたんだ」


 知らないモニカが、少しだけ見えた。


「頑固だったんだ」


「だった?」


「今も?」


「もっと面倒くさくなった」


「失礼だな」


 エリオが笑った。


 でも。


 私はその紙を捨てなかった。


     ◇


 エリオが帰ったあと、一人で掃除を続けた。


 ガタン。


 物音。


「誰?」


 小さな影が走った。


 女の子。


 十歳くらい。


 ぼさぼさの髪。


 汚れた服。


 手には。


「あ、それ!」


 昼間もらった果物。


「待ちなさい!」


 腕を掴む。


「離せ!」


 蹴られた。


「痛っ!」


 その瞬間。


 文字が見えた。


【リリ】


【年齢:10】


【疲労:61】


【栄養状態:不良】


【右足:軽度の外傷】


【睡眠不足:中】


【精神状態:恐怖/警戒/空腹】


 私は手を離した。


 リリが身構える。


「……盗んだね?」


「拾った」


「私の部屋から?」


「落ちてた」


「強いな、その理屈」


「返さねえぞ」


「いいよ」


「……は?」


「食べな」


 リリが疑う。


「毒?」


「入ってない」


 私は残ったもう一個も取ってきた。


「ほら」


「……二個?」


「うん」


「じゃあ、あんたの飯は?」


「…………」


 ない。


「子供が気にしなくていいの」


「金ないんだろ」


「大人だから何とかする」


「変な奴」


「よく言われる」


 リリは果物を見つめた。


「……何すればいい?」


「え?」


「タダじゃないんだろ」


 なるほど。


「じゃあ掃除」


「掃除?」


 窓を見る。


 日はまだ高い。


「日が傾くまで手伝って」


「長えよ!」


「じゃあ一個返して」


「やる!」


「交渉成立」


「くそっ!」


     ◇


「そこまだ汚い」


「うるせえ!」


「雑巾ちゃんと絞って」


「やってる!」


「全然できてない」


「細けえな、ババア!」


「誰がババアよ!」


「ババアじゃん!」


「私は三十――」


 止まる。


「……何歳?」


「…………」


 そうだ。


 知らない。


「自分の歳も忘れたのかよ」


「うるさいな!」


 明日、エリオに聞こう。


 本当に何も知らない。


 しばらく二人で床を磨く。


「なあ」


「何?」


「ここ、またやるの?」


「うん」


「客来ねえよ」


「知ってる」


「前はもっと来てたけど」


「前?」


「じいちゃんがいたころ」


「私のお父さん?」


「そう」


 リリまで知っている。


「ねえ」


「何」


「……倒れる前の私って、どんな人だった?」


「変なこと聞くな」


「記憶なくて」


 リリは考えた。


「暗い」


「直球だな」


「いつも疲れてた」


「そっか」


「でも、パンくれた」


「え?」


「一回」


 それだけ言って、リリは果物を服で拭いた。


「これ、明日食べる」


「今日食べないの?」


「二個食ったら明日の分なくなるだろ」


「…………」


「何だよ」


「なんでもない」


 胸が少し痛い。


「明日も来る?」


「なんで」


「ご飯出す」


「肉?」


「予算次第」


「ケチ」


「借金あるの」


「いくら?」


「金貨五枚」


 リリが固まった。


「…………バカじゃねえの?」


「今日何回目だろ、それ」


     ◇


 夜。


 一人になった。


 知らない父。


 知らない母。


 知らない幼馴染。


 知らない少女。


 みんな、この身体の持ち主を知っている。


 私は知らない。


「モニカ」


 名前を呼んでみる。


 私も、もにか。


 この子も、モニカ。


 偶然なんだろうか。


 あの事故の瞬間。


『たすけて』


 聞こえた気がした声を思い出す。


「……あなたなの?」


 返事はない。


 そのころ。


 浴場の外に、一人の男が立っていた。


 エリオは扉に手をかけたまま、中へ入れずにいた。


 昼間から引っかかっている。


『お父さんとお母さん、人望あったんだね』


『頑固だったんだ』


 まるで。


 他人の話みたいだった。


「……モニカ」


 顔は同じ。


 声も同じ。


 なのに。


 エリオは扉から手を離した。


「お前、本当に誰なんだよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。