第一話 人生、まだ終わる予定じゃなかったんだけど
「月城さんって、独立しないんですか?」
「またその話ですか」
私は笑いながら、白石さんの右腕をゆっくり持ち上げた。
「力、抜いてください」
「抜いてますよ」
「抜いてません」
「……抜いてるつもりなんだけどな」
「そういう人、多いですよ」
腕の重さをこちらへ預けてもらう。
肩甲骨の動き。
右だけ、少し悪い。
「最近、ゴルフしました?」
「先週」
「スイング変えました?」
白石さんが黙った。
「……そこまで分かる?」
「そこまでは分かりません。今のはカマかけました」
「おい」
「でも当たった」
「怖いんだよなあ、月城さん」
私は笑って、圧を少し弱めた。
強く押せば上手い、というものじゃない。
この人は普段、ずっと誰かに答えを求められている。
会社では社長。
家では父親。
取引先の前では経営者。
だから、ここでは何も決めなくていい。
話したければ話せばいい。
眠ければ眠ればいい。
黙りたければ、私も黙る。
私の仕事は筋肉を押すことじゃない。
この六十分だけ、この人が何者でもなくていい時間を作ることだ。
「……実は」
「はい」
「会社、売ろうと思ってるんですよ」
「そうなんですね」
「驚かない?」
「私、会社の価値は分かりませんから」
「去年、売上五十億いったんですよ」
「すごいですね」
「なのに売るんですよ?」
「はい」
「理由、聞かないんですか」
「聞いてほしいですか?」
白石さんが黙った。
私は手を止めない。
「……そういうところなんだよな」
「何がです?」
「ここに来るとさ。俺、社長じゃなくていいんですよ」
少し間があった。
「社員には決断を求められる。銀行には数字を求められる。家に帰れば父親でいなきゃならない。友達に相談すれば、成功者の贅沢な悩みだって言われる」
「……はい」
「でも月城さん、答えをくれないでしょう」
「経営のこと、分かりませんから」
「違うよ」
白石さんが小さく笑った。
「俺が自分で答えを出すまで、余計なこと言わないんだよ」
だから私は、それにも答えなかった。
しばらくして、白石さんが長く息を吐いた。
「売ったら、半年くらい休みます」
「それはいいと思います」
「今度は言うんだ?」
「それは身体を見れば分かりますから」
「そんなに?」
「このままだと会社より先に白石さんが壊れます。一度ちゃんと病院にも行ってください。睡眠のことも含めて」
「はい、先生」
「先生じゃありません」
ようやく肩から力が抜けた。
そこへ、ゆっくり手を入れる。
「ああ……そこ」
「ここですね」
「月城さん」
「はい」
「やっぱり俺、金出しますよ」
「何のお金です?」
「店。独立資金」
「要りません」
「即答かよ」
「人のお金で始めたら、その人のお店になっちゃいますから」
「口出さないって」
「お金を出した人は、みんな最初はそう言うんです」
「どこで覚えたんですか、そんなこと」
「お客様から」
一瞬の沈黙。
それから白石さんは声を上げて笑った。
「敵わないな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「知ってます」
これが私の仕事だった。
月城もにか、三十六歳。
高級リラクゼーションサロン勤務、十四年。
三年連続、指名売上一位。
新人教育。
店長代理。
新店舗の立ち上げ。
予約管理、売上管理、在庫、クレーム対応。
十四年もやれば、肩書きは勝手に増える。
それでも私は、この仕事が好きだった。
◇
「もにかさん、また断ったんですか?」
閉店後。
スタッフルームでコーヒーを飲んでいると、後輩の美咲が呆れた顔をした。
「何を?」
「白石さんですよ。独立資金出すって」
「ああ」
「もったいない」
「人の金で自分の店作りたくないの」
「じゃあ自分で出せばいいじゃないですか」
「それができたら、とっくにやってる」
「できるでしょう、もにかさんなら」
「怖いのよ」
美咲が目を丸くした。
「もにかさんでも怖いことあるんですね」
「失礼ね」
笑った。
でも、本当だった。
三十六。
それなりに貯金もある。
独立できない額じゃない。
ただ、今の地位を捨てて失敗したらと思うと、一歩が出ない。
「結婚もしないし、独立もしないし。もにかさん、何するんです?」
「急に人生詰めてくるじゃん」
「だって三十六ですよ?」
「美咲ちゃん」
「はい」
「三十六歳はね、年齢を言われただけで若干ムッとする生き物なの」
「すみません」
「よろしい」
二人で笑う。
「でも、結婚したくないんですか?」
「どうだろ」
「子供とか」
「……どうだろうねえ」
考えたことはある。
二十代のころは、いつか結婚するんだろうと思っていた。
三十になったころは、いい人がいたら、と思っていた。
三十五を過ぎたころから、
――私、本当にしたかったんだっけ?
と思うようになった。
「仕事辞めて、結婚して、子供育ててって言われたら嫌」
「うん」
「でも、仕事だけして一人で年取っていくのが理想かって言われたら……それも分かんない」
「難しいですね」
「難しいのよ」
仕事もしたい。
自分の店も欲しい。
旅行もしたい。
綺麗な服だって着たい。
好きな人ができたら、一緒にいたい。
子供だって――。
「欲しかったのかもしれない」
口にして、自分で少し驚いた。
美咲は何も言わなかった。
こういうとき黙れるから、この子は接客業に向いている。
「まあ」
私は空の紙コップを捨てた。
「人生一回しかないからね。全部は無理よ」
「……そういうもんですかね」
「そういうもんでしょ」
何かを選べば、何かを諦める。
大人になるって、そういうことだと思っていた。
「じゃ、お疲れさま」
「お疲れさまでしたー」
それが、美咲と交わした最後の会話になった。
◇
雨が降っていた。
信号は青だった。
横断歩道を渡っていた。
クラクション。
振り向く。
ライト。
誰かの悲鳴。
――嫌だ。
それが、最後に思ったことだった。
死にたくない。
まだ明日の予約が入っている。
美咲に任せっぱなしの仕事もある。
白石さん、ちゃんと病院へ行くだろうか。
自分の店だって。
結婚だって。
子供だって。
欲しかったのかもしれないって。
今日、やっと気づいたばかりなのに。
――私、まだ何も終わってない。
暗闇。
どこか遠くで。
知らない女の声を聞いた気がした。
『――たすけて』
手を伸ばした。
誰の手だったのかは、分からなかった。
◇
「……くさっ」
目を開けて最初に出た言葉がそれだった。
カビ。
汗。
薬草。
湿った木。
知らない天井。
「……ここ、どこ?」
身体を起こす。
「っ……」
全身が重い。
頭が痛い。
喉もからからだ。
でも。
「……手」
違う。
私の手じゃない。
細い。
若い。
慌てて部屋を見回す。
隅に小さな鏡があった。
這うように近づく。
「…………誰?」
若い女がいる。
二十代前半くらい。
長い髪。
少し青白い顔。
痩せてはいるけれど、骨と皮というほどじゃない。
知らない顔。
頬をつねる。
「痛い」
もう一回。
「痛い……」
夢じゃない。
事故。
知らない部屋。
知らない身体。
「まさか……」
異世界転生。
そんな単語が頭に浮かんだ。
「いやいやいやいや」
私は漫画の読みすぎか。
でも、ここはどう見ても病院じゃない。
スマホもない。
電灯もない。
窓の外には、石造りの建物。
「……マジ?」
もう一度鏡を見る。
若い。
どう見ても若い。
「二十代……?」
一瞬。
嬉しいと思った。
その瞬間、胸が痛んだ。
三十六年間、生きた。
十四年間、働いた。
泣いた。
笑った。
積み上げた。
あの人生を、失敗だったことになんてしたくない。
「私、帰れないのかな」
美咲。
スタッフのみんな。
お客様。
家族。
友達。
もう会えない?
「…………」
泣きそうになった。
でも、今は泣いても何も分からない。
「情報」
声に出した。
「まず情報」
仕事でも同じだ。
分からないなら調べる。
部屋を見る。
寝台。
机。
古い箪笥。
水差し。
薬包。
その薬包に文字が書かれていた。
『モニカへ。朝夕一包。熱が下がっても三日は安静にすること』
「…………」
読める。
「なんで?」
知らない文字のはずなのに、意味が分かる。
その下。
『ベルネ東区治療院 治療師ハンス』
「ベルネ」
地名だろうか。
そして。
「モニカ……?」
鏡を見る。
「まさか」
月城もにか。
そして、この身体も。
「モニカ?」
偶然?
「そこまで一緒なの……?」
背中が少し寒くなった。
◇
調べる。
机の引き出し。
帳簿。
手紙。
古い書類。
分かることを一つずつ拾う。
『アルノ浴場』
どうやら、ここは浴場らしい。
奥へ行けば、本当に浴槽があった。
古い。
かなり古い。
でも立派だ。
「お風呂屋さん……」
壁に絵が掛かっている。
夫婦。
その間に十歳くらいの少女。
少女の顔は、今の私によく似ている。
裏を見る。
『モニカ、十歳の誕生日。父アルノ、母ミレーヌと』
「……家族」
胸に手を当てる。
何も感じない。
記憶もない。
この人たちを知らない。
「ごめんなさい」
なぜか謝った。
次は帳簿。
薪代。
薬草。
浴場料金。
修繕費。
治療費。
そして。
『借入残高 金貨五枚』
「…………」
嫌な予感しかしない。
その下。
『次回返済 金貨一枚』
期日を確認する。
この世界の暦はまだよく分からない。
それでも、壁に掛かった暦と照らし合わせれば、残りの日数くらいは数えられた。
「……あと三十日?」
頭を抱えた。
「転生初日に借金発覚ってある?」
しかも金貨一枚がどれくらいなのか分からない。
そのとき。
ドンドンドン!
「モニカ!」
心臓が跳ねた。
「起きてるんだろ!」
知らない男の声。
「返済の件だ!」
「…………」
来た。
説明役。
たぶん一番会いたくないタイプの。
◇
扉を開ける。
大柄な中年男が立っていた。
後ろに若い男が一人。
「やっと起きたか」
「どうも」
「どうもじゃない。三日も寝込んだって聞いたぞ」
「三日……」
「大丈夫なのか?」
思ったより普通に心配された。
「あの」
「なんだ」
「私の名前、モニカですよね?」
「…………」
男が眉を寄せた。
「熱で頭までやられたか?」
「ちょっと記憶が曖昧で」
「おいおい」
「あなたは?」
「バルドだよ。金融商会のバルド・ケイン。何回ここに来たと思ってる」
「すみません」
「本当に大丈夫か?」
借金取り。
でも闇金という感じではない。
「それで、借金について確認したいんですけど」
「残り金貨五枚。次の支払いが一枚。期限は三十日後だ」
「払えなかったら?」
「担保の浴場を引き取る。契約通りだ」
「なるほど」
「……お前、妙に落ち着いてるな」
「ちなみに、何の借金です?」
バルドの顔が変わった。
「そこまで忘れたのか」
「すみません」
「親父さんの治療費だよ」
「……父の?」
「ああ」
後ろの男が気まずそうに目を逸らす。
「二年前にアルノさんが病気になった。治療費と、店を休んでる間の運転資金。お袋さんが借りた」
「母は?」
「……去年亡くなっただろ」
「…………」
「ミレーヌさんも、無理しすぎた」
私は壁の向こうを見る。
さっきの家族の絵。
三人いた。
今は、一人。
「この店を売って返す選択肢は?」
「何度も言った」
バルドがため息をついた。
「お前が嫌だって聞かなかったんだ」
「私が?」
「ここだけはなくしたくないってな」
知らない女の人生が、少しだけ見えた。
「……そう」
「とにかく今は休め。返済日は変わらんが、今日取り立てに来たわけじゃない」
「意外と優しいですね」
「正規の商売だ! 人を何だと思ってる!」
「すみません」
思わず笑った。
そのとき。
バルドが腰を押さえた。
「……腰、痛いんですか?」
「あ?」
「右側」
バルドが固まる。
「なんで分かる」
「立ち方」
右腰をかばって、左足に重心を逃がしている。
それくらいなら分かる。
十四年見てきた。
「首も左がつらい?」
「……なんなんだ、お前」
「最近、頭痛ありません?」
「あるけどよ」
反射的に、腕へ触れた。
その瞬間。
視界に文字が浮かんだ。
【バルド・ケイン】
【疲労:74】
【腰部:強い筋緊張】
【左頸部:強い筋緊張】
【睡眠不足:中】
【精神状態:警戒/困惑】
「…………」
「どうした?」
手を離す。
消える。
触る。
出る。
【疲労:74】
「……なるほど」
「何がなるほどだ」
異世界転生特典。
ようやくそれらしいものが来た。
でも。
「地味」
「あ?」
「なんでもないです」
十四年間、私は身体を読んできた。
触った感覚。
姿勢。
呼吸。
声。
表情。
それが今度は、文字でも見える。
これは答えじゃない。
カルテだ。
情報が増えただけ。
どう扱うかは、私次第。
「バルドさん」
「なんだ」
「腰、今度見ましょうか?」
「お前が?」
「はい」
「風呂屋だろ」
「今のところは」
「……?」
「三十日後、金貨一枚ですね」
「ああ」
「分かりました」
私は笑った。
「払います」
「どうやって」
「それを今から考えます」
「やっぱり頭おかしくなってるだろ」
バルドは呆れながら帰っていった。
◇
家中を探した。
財布。
「空」
金庫。
「空」
棚。
「空」
最後に、母親のものらしい古い裁縫箱を見つけた。
底に。
「……あった」
銀貨一枚。
銅貨二十七枚。
これが多いのか少ないのかすら、まだ分からない。
その横に小さな紙。
『エリオ 修理代 未払い』
「…………」
誰。
「借金、他にもあるじゃん」
笑うしかなかった。
所持金、銀貨一枚と銅貨二十七枚。
借入残高、金貨五枚。
次の返済まで、三十日。
客、たぶんゼロ。
私は古びた浴場を見回した。
十四年間、人の店で働いた。
売上を作った。
スタッフを育てた。
新店舗も立ち上げた。
でも、自分の店だけは持たなかった。
失敗するのが怖かったから。
そして死んだ。
「……ふざけんな」
少しだけ涙が出た。
「私、まだやりたいことあったんだから」
帰れるかもしれない。
帰れないかもしれない。
何も分からない。
それでも、腹は減る。
借金の期日は来る。
だったら。
「ここから始めよう」
前の人生で、やらなかったことから。
「まずは市場調査」
この世界で何が売れるのか。
誰が金を持っているのか。
何に金を払うのか。
それを知らずに商売なんてできない。
私は銀貨一枚と銅貨二十七枚を握った。
「明日から、商売始めよう」




