第十五話 天才ほぐし師、現る!
「……というわけで、王宮サロンのお話が本格的に動きそうなの」
王都から戻った翌朝。
私は風呂屋の食堂で、ミーナとリリに今後の予定を話していた。
「王宮にもお風呂屋さんができるの?」
リリがパンをかじりながら尋ねる。
「まだ決まったわけじゃないけどね。ヴィオラさんとマルグリット様が、貴族の方々に入浴と施術を楽しんでもらえる場所を考えているの」
「すごいじゃないですか、モニカさん!」
ミーナが嬉しそうに身を乗り出した。
「王宮で働くなんて、なかなかできることじゃありませんよ!」
「ありがとう。でも、ひとつ困ったことがあるのよ」
私はテーブルに置いた予約帳を開いた。
今日の午後も、ほぐしの予約が入っている。
明日も、明後日も。
風呂屋はすっかり軌道に乗っていた。
「私が王宮に行っている間、ここの施術を誰がするかってこと」
「ああ……」
ミーナもすぐに理解したらしい。
「お風呂のほうは任せてください。お湯の準備もお客様のご案内も、もう慣れましたから。でも、ほぐしは……」
「そうなのよね」
ミーナは風呂屋の運営を立派に支えてくれている。
リリも、自分にできる仕事を見つけては手伝ってくれる。
けれど、施術だけは私が担当するしかない。
王宮から呼び出しがあるたびに予約を断っていたら、せっかく通ってくださるお客様に申し訳ない。
「だったら、ほぐしができる人を雇えばいいんじゃない?」
リリが何気なく言った。
「うん。私もそう考えてる」
「じゃあ、募集しよう!」
「簡単に言うけどねえ」
私は苦笑した。
この世界にも、疲れた身体を揉んだり、さすったりする仕事はある。
けれど、私が前世で学んだような、身体の仕組みを理解したうえで行う施術が広く普及しているわけではない。
技術だけではなく、衛生管理や接客も大切だ。
何より、お客様の身体を預かる仕事である。
誰でもいいというわけにはいかない。
「まずは一人。私が安心して施術を任せられる人を見つけたいの」
「それなら、私も手伝います!」
ミーナが胸を張った。
「募集の張り紙を作りましょう。市場にも貼ってもらえるよう頼んできます!」
「ありがとう。助かるわ」
「どんな人が来るかな?」
リリが楽しそうに笑った。
「優しい人がいいな」
「そうね。私もそう思う」
私は頷いた。
技術は教えられる。
でも、人を大切に思う気持ちは、何より大事だから。
⸻
三日後。
風呂屋の食堂には、施術師の仕事に興味を持った女性たちが集まっていた。
予想以上の反響だった。
以前から家族や知人の身体を揉んでいた人。
宿屋で旅人の疲れをほぐしていた人。
治癒師の手伝いをしていたという人もいた。
私は一人ずつ話を聞き、簡単な実技を見せてもらった。
「はい、ありがとうございます。結果は後ほどお伝えしますね」
三人目の応募者を見送ったところで、ミーナがお茶を運んできた。
「どうですか? いい人、いました?」
「みんな熱心よ。ただ……」
私は言葉を選んだ。
強く揉めばいいと思っている人が、意外に多い。
相手の反応を見ずに力を入れ続ける施術は、かえって身体を痛めることがある。
もちろん、そこは教えればいい。
けれど、教わる前から自然に相手の身体に合わせられる人がいたら。
そんな人に出会えたら、きっと素敵だ。
「次の方、どうぞ!」
ミーナが入口に声をかけた。
「あ、はいっ!」
少し慌てた返事が聞こえた。
入ってきたのは、蜂蜜色の髪を背中まで伸ばした、若い女性だった。
年齢は十八か十九くらいだろうか。
清潔な生成り色のブラウスに、淡い青色のスカート。
派手な装飾はないけれど、柔らかな雰囲気の可愛らしい女の子だ。
「フィオナと申します。よろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げる。
「モニカです。こちらこそよろしくお願いします。どうぞ座って」
「はい」
フィオナは椅子に腰かけた。
背筋を伸ばし、膝の上で両手を揃えている。
緊張しているのがよく分かった。
「そんなに固くならなくて大丈夫よ。まずは、今までどんなお仕事をしていたのか教えてもらえる?」
「はい。王都の小さな宿屋で働いていました。お部屋のお掃除や、お食事の準備などを……」
「なるほど。施術の経験は?」
「お仕事としては、ありません」
フィオナは申し訳なさそうに目を伏せた。
「ただ、宿屋の女将さんがよく肩や腰を痛がっていたので、揉んで差し上げていました。それから、お泊まりのお客様にも、ときどき頼まれるようになって……」
「誰かに習ったことは?」
「いいえ。女将さんに、気持ちいいところを教えていただいただけです」
なるほど。
完全な未経験というわけではない。
日常の中で、人の身体に触れてきた子なのだ。
「どうして、この仕事に応募しようと思ったの?」
「……人が楽になるのを見るのが、好きなんです」
フィオナは少し考えてから答えた。
「女将さん、いつも忙しくて。肩を揉んで差し上げると、最後には『ああ、生き返った』って笑ってくださるんです。その顔を見ると、私まで嬉しくなって」
彼女の表情が、ふわりと和らいだ。
「でも、私には特別な技術もありません。ちゃんと習える場所があるなら、勉強してみたくて……」
私は思わず微笑んだ。
いい動機だ。
少なくとも、この仕事の喜びを知っている。
「それじゃあ、実際に少し施術してもらえるかしら?」
「えっ、モニカさんにですか?」
「ええ。私の肩をお願い」
「わ、分かりました!」
⸻
私は施術台に腰かけ、背中を向けた。
「まずは、普段どおりにやってみて。無理に上手く見せようとしなくていいから」
「はい……失礼します」
フィオナの手が、そっと私の肩に触れた。
――その瞬間。
(……あら?)
私は少し驚いた。
手の置き方がいい。
指先だけで押そうとせず、手のひらを柔らかく密着させている。余計な力が入っていない。
それに、すぐには揉み始めなかった。
左右の肩に触れ、ゆっくりと手の位置を変えている。
「……右の肩、少しお疲れですか?」
「ええ。昨日、帳簿を書いていてね」
「そうなんですね」
フィオナは頷くと、右肩に添えていた手を少し動かした。
そして、肩そのものではなく、肩甲骨の上のほうへ指を移した。
(へえ……そっちから?)
肩こりと一口に言っても、原因はさまざまだ。
首から肩にかけて広がる僧帽筋だけでなく、肩甲骨を引き上げる肩甲挙筋や、背中の筋肉、胸の前側の緊張なども関係する。
前世の私は、お客様の姿勢や動き、触れたときの反応を確かめながら、施術する場所を選んでいた。
フィオナは、そんな知識を持っているはずがない。
ところが。
(……この子、いきなり一番硬いところを押さないんだ)
フィオナは肩甲骨の周囲をゆっくりとほぐし、私の呼吸に合わせるように圧を変えていく。
強く押すわけではない。
それなのに、気持ちがいい。
私は試しに、ほんの少し肩に力を入れてみた。
すると、フィオナの手が止まった。
「……痛かったですか?」
「いいえ。大丈夫よ」
「でも、少し硬くなったので……」
そう言って、フィオナは圧を緩めた。
(……なるほど)
私は内心で唸った。
施術を受ける人は、痛くても遠慮して「大丈夫」と言ってしまうことがある。
だから、言葉だけでなく、呼吸や表情、筋肉の反応にも注意する必要がある。
フィオナは、それを自然にやっている。
しかも、相手の反応を拾うのが早い。
(美咲だって、最初からこんなことはできなかったわよね……)
前世のサロンで一緒に働いていた美咲の顔が浮かんだ。
美咲は勉強熱心で、技術の習得も早かった。私にとって、とても頼りになる存在だった。
でも、この子は違う。
教わった技術を正確に再現するのではなく、自分の手で探しながら、その場で施術を組み立てている。
(もしかして……触れた感覚だけなら、美咲以上?)
いや、まだ判断するには早い。
フィオナは身体の構造を知らないし、施術の安全性についても勉強が必要だ。
それでも。
(これは、すごい原石かもしれない)
「フィオナさん、ひとつ聞いてもいい?」
「は、はい!」
「どうして、今は肩じゃなくて、その少し下をほぐしているの?」
フィオナは手を止め、少し考え込んだ。
「ええと……肩のところが硬かったので、最初はそこを揉もうと思ったんです。でも……」
「でも?」
「その下のほうも、引っ張られている感じがして。先にそちらを緩めたら、肩も楽になるかなって……」
私は目を見開いた。
(……それ、自分で考えたの?)
肩甲骨の動きと周囲の筋肉の緊張を、感覚的に結びつけている。
もちろん、その判断がいつも正しいとは限らない。身体の状態によっては、むやみに揉んではいけないこともある。
でも、何も習っていない人が、そこまで考えて手を動かせるだろうか。
「誰かに、そう教わった?」
「いいえ……。変でしたか?」
「ううん。とても興味深いわ」
私は笑った。
「もう少し続けてもらえる?」
「はい!」
フィオナの手が、再び肩に触れる。
私は目を閉じた。
(……ああ、これは教えるのが楽しみだわ)
指の角度も、身体の使い方も、まだまだ未熟。
けれど、触れた相手の小さな変化を読み取り、それに合わせて手を動かす感覚は、簡単に教えられるものではない。
前世で何人もの新人を育ててきたからこそ、その難しさを知っている。
そして、今。
私は初めて施術を受ける側になって、思いがけない才能に出会っていた。
(この子、きちんと育てたら……)
思わず口元が緩む。
(私の指名No.1だって、危うくなるかもしれないわね)
そんな未来を想像して、私は一人、わくわくしていた。
⸻
施術が終わり、私は肩を回してみた。
(……軽い)
思わずもう一度回す。
肩甲骨が、さっきより滑らかに動く。
もちろん、一度の施術で身体の問題がすべて解決するわけではない。
それでも、短時間でこれほど変化を感じるとは思わなかった。
「フィオナさん。もうひとつ、聞いてもいい?」
「はい」
「さっき、私の肩を触る前から、右のほうが張っているって分かったでしょう?」
フィオナは不思議そうに瞬いた。
「……はい」
「どうして?」
「ええと……見えたので」
「見えた?」
私は思わず聞き返した。
フィオナは少し困ったように笑った。
「変なことを言っているのは分かっているんです。でも、人の身体を見ていると、ときどき……色が違って見えるんです」
「色?」
「はい。肩とか、背中とか。疲れているところが、赤っぽく見えることがあって……」
私は息を呑んだ。
「それは、いつから?」
「小さい頃からです。母の肩を揉んでいたときにも、そうでした」
「ほかの人にも見えると思っていたの?」
「……はい」
フィオナは恥ずかしそうに俯いた。
「でも、宿屋の女将さんに話したら、そんなものは見えないって。だから、あまり人には言わないようにしていました」
(……まさか)
私はフィオナを見つめた。
この世界には、さまざまな魔法や特殊な能力が存在する。
私の《コンディション》も、そのひとつだ。
けれど、フィオナの話が本当なら。
(この子には、筋肉の緊張が見えている……?)
「フィオナさん。もう少し詳しく教えてもらえる?」
「はい……」
「例えば、私の肩はどう見えたの?」
フィオナは少し考えた。
「右の肩から背中にかけて、細い赤い筋が何本か見えました。でも、全部が同じ色じゃなくて……」
「うん」
「肩の上のほうは濃くて、背中のほうは少し薄かったんです。だから、薄いところから先にほぐしてみました」
私は驚いた。
筋肉の緊張の強さだけではない。
その広がり方まで、視覚的に捉えているのだ。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
「えっ?」
「フィオナさん。それ、すごい才能よ!」
「そ、そうなんですか?」
「ええ!」
私は興奮を抑えきれなかった。
《コンディション》は身体全体の状態を把握するのに優れている。
そして、私の光の治癒術は、身体が本来持つ回復する力を助ける。
でも、筋肉をほぐす施術そのものは、私自身の知識と経験、そして手の感覚に頼っている。
フィオナは違う。
筋肉の緊張を目で捉えながら、施術できるのだ。
もちろん、見えた場所を闇雲に押せばいいわけではない。
人体の構造を学び、適切な圧や順序を覚える必要がある。
けれど、その技術を身につけたら。
(……この子、ほぐしの分野では私を超えるかもしれない)
私は思わず笑ってしまった。
なんて面白いんだろう。
前世で指名No.1だった私が、異世界でこんな才能に出会うなんて!
「フィオナさん」
「は、はい!」
「よかったら、うちで働いてみませんか?」
「えっ……?」
「まずは見習いとして。私が責任を持って教えるわ」
フィオナは目を見開いた。
「でも、私……ちゃんとした技術もありませんし……」
「だから、これから覚えるのよ」
私は微笑んだ。
「あなたには、ほかの人にはない素晴らしい感覚がある。でも、それを安全に活かすための知識と技術が必要なの」
「……はい」
「私と一緒に、勉強してみない?」
フィオナはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ぜひ、お願いします!」
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
⸻
「採用ですか!」
ミーナは話を聞くなり、ぱっと笑顔になった。
「やった! 新しい仲間ですね!」
「はい。よろしくお願いします、ミーナさん」
「そんなにかしこまらなくていいですよ。私もまだまだ覚えることばっかりですし!」
ミーナはフィオナの手を取った。
「それに、年も近そうだし。仲良くしましょう!」
「はい!」
二人が笑い合っていると、食堂の奥からリリが顔を出した。
「新しい人、決まったの?」
「そうよ。フィオナさん」
私が紹介すると、リリは興味津々で近づいてきた。
「フィオナ、髪きれいだね」
「あら、ありがとう」
「自分で結んでるの?」
「ええ。今日は緊張して、何度も結び直しちゃったけど」
「じゃあ、今度わたしにも教えて!」
「もちろん」
フィオナが笑う。
そのやり取りを見て、ミーナがぽんと手を叩いた。
「そうだ! フィオナさん、よかったら住み込みにしませんか?」
「えっ?」
「部屋なら相談できますし、通うより楽だと思いますよ。私たちもここに住んでるんです」
フィオナは少し迷うように私を見た。
「住み込みは希望者だけよ。今の宿屋とのお話もあるでしょうし、急いで決めなくていいわ」
「ありがとうございます。実は、宿屋のお部屋を借りて暮らしていたので……女将さんに相談してみます」
「ええ。お仕事を辞めるなら、きちんとご挨拶もしないとね」
「はい!」
「一緒に住めたら楽しいね!」
リリが嬉しそうに言う。
「そうですね」
フィオナは微笑んだ。
その横で、ミーナが何やら考え込んでいる。
「……どうしたの、ミーナ?」
「いえ。フィオナさんが施術を覚えたら、モニカさんが王宮に行っている間も、ほぐしの予約を受けられるんですよね」
「そうなるのが目標ね」
「だったら、私も頑張らないと!」
ミーナは拳を握った。
「お風呂のことは、安心して任せてもらえるようにします!」
「もう十分頼りにしてるわよ」
「もっとです!」
その勢いに、フィオナが小さく吹き出した。
「あっ、笑いましたね?」
「ご、ごめんなさい。ミーナさん、元気だなって……」
「元気だけが取り柄ですから!」
「そんなことないですよ」
フィオナが、さらりと言った。
「さっきからずっと、私が困らないように気にかけてくださっています」
ミーナが一瞬、きょとんとする。
それから、少し照れたように頬をかいた。
「……そういうの、面と向かって言われると恥ずかしいですね」
リリが笑った。
私もつられて笑ってしまう。
(ああ、いいな)
まだ出会ったばかりなのに、不思議と馴染んでいる。
ミーナの明るさ。
リリの自然な人懐っこさ。
そして、フィオナの柔らかな気配り。
三人が並んでいる光景を見て、私は胸が温かくなった。
⸻
その日の営業が終わったあと。
私は一人、施術室で予約帳を開いていた。
新しい施術師の育成。
風呂屋の運営。
そして、王宮サロンの計画。
やることは、ますます増えていく。
けれど、不思議と不安はなかった。
むしろ、楽しみで仕方がない。
(フィオナのあの能力……きちんと育てたら、きっとすごい施術師になる)
私は自分の右肩に触れた。
昼間、フィオナがほぐしてくれた場所だ。
あの子はまだ、自分がどれほど珍しい才能を持っているのか知らない。
でも、私には分かる。
技術を学び、経験を積めば、きっと多くのお客様から指名されるようになる。
もしかしたら、いつか私を驚かせるような施術を生み出すかもしれない。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。
前世では、指名No.1になることが私の誇りだった。
もちろん、今だって腕を磨くつもりだ。
でも。
(誰かが一人前になっていくのを見るのも、こんなに楽しみだったんだ)
この世界に来て、私は新しい喜びを見つけたのかもしれない。
施術室の扉を閉めると、食堂からミーナとリリの笑い声が聞こえてきた。
そこに、今日はまだ少し遠慮がちな、フィオナの声が重なる。
私は足を止め、しばらく耳を傾けた。
そして、三人のいる食堂へ向かった。
この風呂屋は、もう私一人のお店じゃない。
みんなで育てていく場所なんだ。
――新しい仲間を迎え、モニカの風呂屋はまた一歩、未来へと進み始めた。




