第十四話 王女が眠れない理由
王宮へ向かう馬車の窓から、モニカは王都の街並みを眺めていた。
石畳の大通りを抜けると、商店や市場の賑わいが遠ざかり、立派な石造りの邸宅が増えていく。
やがて、丘の上にそびえる王宮が姿を現した。
「……大きいですね」
思わず漏れた声に、向かいに座るカイルが視線を上げた。
「初めてか」
「はい。外から眺めたことはありますけど、中に入るのは初めてです」
「そうか」
カイルは短く答えた。
昨日、王国第一騎士団長である彼が第一王子でもあると知ったばかりだ。
モニカとしては、まだ少し落ち着かない。
けれど、今日ここへ来た目的ははっきりしている。
「妹は、この半年ほどまともに眠れていない」
カイルが口を開いた。
「宮廷の治癒師たちにも診せた。身体に大きな異常はないと言われているが、よくならない」
「治癒術を受けても、ですか?」
「その日は多少楽になるらしい。だが、また眠れなくなる」
「なるほど……」
モニカは考え込んだ。
治癒術で一時的に症状が和らいでも、原因が残っていれば再発する。
それは、これまでの施術でも何度か経験してきたことだった。
「まずは、エレノア殿下のお話をゆっくり伺ってみます」
「頼む」
カイルの声には、妹を案じる兄としての切実さがあった。
モニカは静かに頷いた。
◇
王宮の内部は、想像以上に豪華だった。
磨き上げられた大理石の床。高い天井から吊るされた燭台。壁には歴代の王族の肖像画が並んでいる。
案内されたのは、東棟にある王女の私室だった。
「兄上、お待ちしておりました」
窓辺の椅子から立ち上がったのは、淡い金髪を背中に流した若い女性だった。
薄紫色のドレスを身にまとい、立ち居振る舞いには自然な気品がある。
けれど、モニカはすぐに気づいた。
目の下の薄い隈。
血色のよくない頬。
そして、立ち上がるときのわずかなふらつき。
「紹介しよう。妹のエレノアだ」
「エレノア・アルヴェリアと申します。あなたがモニカさんですね」
「はい。モニカと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
モニカが礼をすると、エレノアは柔らかく微笑んだ。
「マルグリット伯爵夫人から、お話を伺っています。とても腕のよい方だとか」
「光栄です。今日は少しでもお力になれればと思っています」
「……よろしくお願いします」
最後の言葉だけ、声が小さくなった。
モニカは王女の向かいに腰を下ろした。
「エレノア殿下。まずは普段のお身体のことを伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「夜は、どのくらい眠れていらっしゃいますか?」
「日によりますけれど……三時間ほどでしょうか。眠れないまま朝を迎えることもあります」
「それはお辛いですね。いつ頃からでしょう」
「半年ほど前からです」
「何か、きっかけはありましたか?」
「いいえ。特別なことは……」
エレノアは目を伏せた。
その返答に、モニカは小さな違和感を覚えた。
ただ、無理に聞き出すつもりはない。
「日中は、頭痛やだるさもありますか?」
「はい。最近はお腹の調子もあまり……」
「そうですか」
モニカは頷き、意識を集中した。
《コンディション》
視界に淡い青色の文字が浮かび上がる。
――睡眠不足。
――慢性的な疲労。
――軽度の脱水傾向。
――便秘傾向。
――腹部および腰背部の筋緊張。
――自律神経機能の乱れ。
(睡眠不足だけじゃない。水分も足りていないし、お腹の調子も悪い……)
モニカは表示を読み取りながら、王女の様子を見つめた。
エレノアは膝の上で、細い指をぎゅっと握りしめている。
「カイル様」
「なんだ」
「少し、エレノア殿下と二人でお話ししてもよろしいでしょうか」
カイルは一瞬、意外そうな顔をした。
「俺がいない方がいいのか?」
「はい。女性のお身体について、詳しく伺いたいことがありますので」
カイルは妹へ視線を向けた。
エレノアが小さく頷く。
「わかった。隣室で待っている」
カイルが部屋を出ると、モニカは控えていた侍女にも声をかけた。
「殿下と少しだけ、お二人でお話ししてもよろしいですか?」
侍女はエレノアの頷きを確認すると、静かに退室した。
扉が閉まった途端、王女の肩からわずかに力が抜けた。
「エレノア殿下。ここで伺ったことは、殿下の許可なくほかの方にはお話ししません。どうぞ安心してください」
「……ありがとうございます」
モニカは穏やかに微笑んだ。
「それでは、少しだけお尋ねしますね。普段、お水はどのくらい飲まれていますか?」
「朝に少しと、お食事のときに……」
「夜は?」
「夜は、あまり」
「喉が渇いても、ですか?」
エレノアは黙り込んだ。
モニカは声を落とした。
「お手洗いを我慢なさることはありませんか?」
その瞬間、王女の頬が赤く染まった。
「……どうして、それを」
「お身体の状態から、少し気になったんです」
エレノアはしばらく迷っていた。
やがて、小さな声で答えた。
「……夜、お手洗いへ行くのが嫌なのです」
◇
エレノアの話を聞くうちに、モニカは事情を理解し始めた。
王宮の東棟は歴史ある建物で、王女の私室も豪華な装飾に囲まれている。
しかし、古い設備がそのまま使われている場所も多いという。
その一つが、寝室の近くにある化粧室だった。
「臭いが……気になるのです」
エレノアは恥ずかしそうに俯いた。
「昼間はまだよいのですが、夜になると、どうしても……。虫が出ることもあって」
「そうなんですね」
「侍女たちは、いつも綺麗にしてくれています。でも、どれだけ掃除をしても、あの臭いが消えなくて……」
「それで、夜はお水を控えていらっしゃるんですね」
エレノアが小さく頷く。
「眠る前に飲むと、夜中に行きたくなってしまうでしょう? だから、なるべく飲まないようにしているんです」
「お腹が張ったり、便通が悪くなったりすることは?」
「……あります」
モニカは静かに頷いた。
(なるほど。そういうことだったのね)
水分を控えることで便秘が悪化し、腹部の不快感が増す。
夜中に目が覚めることを恐れ、眠ること自体にも不安が生まれている。
そのうえ、睡眠不足が続けば、身体はますます疲れやすくなる。
もちろん、不眠の原因がそれだけとは限らない。
けれど、王女の身体を苦しめる大きな要因になっていることは間違いなさそうだった。
「エレノア殿下」
「はい……」
「お手洗いが嫌だと思うことは、恥ずかしいことではありませんよ」
王女が顔を上げた。
「……そうでしょうか」
「はい。毎日使う場所ですから、安心して使えることが大切なんです」
モニカは優しく続けた。
「どれほど立派なお部屋でも、お手洗いが不快なら、心からくつろぐことはできません」
エレノアの瞳が揺れた。
「私……王女なのに、こんなことで不満を言ってはいけないと思っていました」
「我慢しなくていいんですよ。むしろ、改善できるなら、そうした方がいいと思います」
「……改善、できるのでしょうか」
「まずは、どんな状態なのか見せていただけますか?」
エレノアは少し驚いた顔をした。
「お手洗いを、ですか?」
「はい。私も、清潔な場所づくりには少し自信があるんです」
モニカが微笑むと、エレノアもようやく小さく笑った。
◇
化粧室は、寝室から続く廊下の奥にあった。
扉には美しい彫刻が施され、床には色鮮やかな敷物が敷かれている。
だが、中へ足を踏み入れた瞬間、モニカは鼻をわずかに動かした。
(……これは、確かに辛いわね)
香料の匂いが強い。
それでも、奥から漂う不快な臭気を隠しきれていなかった。
便槽につながる設備には蓋があるものの、周囲から臭いが漏れているようだった。
換気用の小窓も小さく、空気がこもっている。
手を洗うための水差しは置かれていたが、使い終わった水の処理も不便そうだ。
(なるほど……)
モニカは室内を見回した。
前世、日本でサロンを経営していた頃、トイレの清潔さには特に気を配っていた。
どれほど施術が素晴らしくても、お手洗いが汚れていれば、お客様は安心してくつろげない。
便器や床の清掃はもちろん、臭い、換気、手洗い用品の補充まで、毎日の確認項目にしていた。
日本では当たり前だと思っていたことが、この世界ではまだ十分に浸透していない。
(でも、建物の構造や排水設備については、私の専門じゃない)
モニカは古い設備を見つめた。
清潔に保つために何が必要かはわかる。
けれど、それを実現するために、どこをどう直せばいいのか。
そこは職人の仕事だ。
(……そうだ。エリオがいるじゃない!)
幼馴染の顔が、ぱっと頭に浮かんだ。
エリオは大工だ。
建物の構造に詳しいし、設備を扱う職人とのつながりもあるはず。
何より、風呂屋の再建でも力を貸してくれた、信頼できる相手だった。
モニカは化粧室を出ると、エレノアに向き直った。
「殿下。すぐに全部を直すのは難しいかもしれません。でも、改善できるところはあると思います」
「本当ですか?」
「はい。まずは、設備に詳しい人に調べてもらいましょう」
エレノアの表情が、少し明るくなった。
「……ありがとうございます、モニカさん」
「いいえ。まだ、これからですよ」
◇
王女の私室へ戻ると、モニカは施術の準備を始めた。
「エレノア殿下。今度は、お身体の緊張を少しずつ緩めていきましょう」
「はい……」
エレノアは用意された施術台に横になった。
モニカはまず、肩と背中にそっと手を当てた。
(ずいぶん力が入っている……)
首から肩にかけての筋肉が硬い。
腰にも強い緊張があり、呼吸に合わせた身体の動きが小さかった。
「少しずつ、息を吐いてみてください」
モニカは穏やかに声をかけながら、肩甲骨の周囲を丁寧にほぐしていった。
急いで強い刺激を加える必要はない。
王女の呼吸に合わせて、ゆっくりと圧を調整する。
「……あ」
「痛みはありませんか?」
「いいえ。なんだか……肩が温かくなってきました」
「よかったです」
背中から腰へ。
張りつめた筋肉を一つずつ確かめながら、施術を進めていく。
やがて、王女の呼吸が少しずつ深くなった。
「エレノア殿下。普段から、身体に力が入っていることが多いのではありませんか?」
「……そうかもしれません」
「気づかないうちに、頑張りすぎてしまうこともありますから」
エレノアはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「私、ずっと……眠るのが怖かったんです」
「はい」
「夜中に目が覚めて、またあの場所へ行かなければならないと思うと……。眠る前から、気が重くなってしまって」
モニカは優しく頷いた。
「そうだったんですね」
「でも、今日は少し安心しました」
「それはよかったです」
モニカは両手に意識を集中した。
淡い黄金の光が、掌から静かに広がる。
治癒術。
身体が本来持つ回復力を助ける、モニカのもう一つの力。
温かな光が肩から背中へと伝わり、緊張した身体を優しく包んでいく。
「……気持ちいい」
エレノアが小さく呟いた。
しばらくすると、王女の呼吸がゆっくりと規則正しくなった。
「エレノア殿下?」
返事はない。
モニカが顔を覗き込むと、王女は穏やかな表情で目を閉じていた。
静かな寝息が聞こえる。
(……眠った)
施術によって緊張が和らぎ、積み重なった疲労が表に出てきたのだろう。
もちろん、これで不眠が治ったわけではない。
けれど、少なくとも今は、安心して身体を休められている。
モニカはそっと手を離し、王女に薄い掛け布をかけた。
◇
隣室で待っていたカイルは、モニカの報告を聞くと、すぐに立ち上がった。
「眠ったのか」
「はい。今は、穏やかにお休みになっています」
「そうか……」
カイルは深く息を吐いた。
「ありがとう、モニカ」
「まだ、これからです。少しずつ生活環境も整えていく必要があります」
モニカは続けた。
「エレノア殿下のお話を伺ったところ、居室周辺の衛生環境が、体調に影響している可能性があります」
「衛生環境?」
「はい。特に、化粧室の設備です。臭いや換気の問題があり、快適に使える状態とは言えませんでした」
カイルの眉が寄った。
「清掃は毎日行っているはずだ」
「はい。使用人の方々は、丁寧にお仕事をされていると思います。でも、掃除だけでは解決できない問題もあります」
「……どういうことだ」
「設備そのものに、改善が必要かもしれません」
モニカは少し考え、言葉を続けた。
「カイル様。実は、相談したい人がいるんです」
「誰だ?」
「幼馴染のエリオという大工です。私の風呂屋の再建でも力を貸してくれました」
「大工か」
「はい。建物の構造に詳しいですし、必要なら設備を扱う職人さんにも相談できると思います」
カイルは腕を組んだ。
「王宮の改修に、町の大工を呼ぶというのか」
「まずは、現場を見てもらえませんか? 私には、どんな環境が望ましいかはお話しできます。でも、実際にどう直すかは、専門の方に考えていただいた方が確実です」
カイルはしばらく考え込んだ。
そして、頷いた。
「わかった。施設管理の責任者にも立ち会わせよう」
「ありがとうございます」
「ただし、王宮の設備だ。簡単な仕事ではないぞ」
「はい。それは、エリオにもきちんと伝えます」
モニカは微笑んだ。
自分一人で、すべてを解決する必要はない。
得意な人に力を借りれば、もっとよいものが作れる。
それは、風呂屋の再建で学んだことでもあった。
◇
翌日。
エリオは、王宮の東棟を見上げて固まっていた。
「……おい、モニカ」
「なに?」
「王宮って、こんな簡単に入っていい場所だったか?」
「もちろん、ちゃんと許可をもらってるよ」
「そういう問題じゃなくてだな……」
エリオは頭をかいた。
いつもの作業着に、使い慣れた道具袋。
周囲の立派な石造りの建物とは、少しばかり不釣り合いな姿だった。
「でも、エリオならきっと力になってくれると思って」
モニカが笑うと、エリオはため息をついた。
「……まったく。お前は昔から、思いついたらすぐ動くんだから」
そう言いながらも、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
王宮の施設管理を担当する職人長に案内され、エリオは問題の化粧室を調べ始めた。
床の構造。
壁の厚み。
便槽の位置。
換気用の小窓。
そして、古い図面。
エリオは一つずつ確認しながら、職人長と意見を交わしていった。
「……なるほど。ここの通気が悪いのか」
「東棟は古い建物でな。改修を重ねた結果、通気の経路が複雑になっておる」
「それなら、壁の一部を開けて、外へ空気を逃がす道を作れそうですね。ただ、便槽の方も見直さないと、臭いは残ると思います」
エリオは図面に指を走らせた。
「排水や便槽に詳しい職人を知っています。そいつにも一度見せたいですね」
職人長が感心したように頷く。
「若いのに、よく見ておるな」
「風呂屋の改修をやったばかりなんで。水回りの仕事には、多少慣れました」
エリオは照れくさそうに笑った。
その様子を見て、モニカは胸が温かくなった。
(やっぱり、頼んでよかった)
自分が気づいた問題を、エリオが具体的な工事の形にしていく。
その仕事ぶりは、頼もしかった。
やがて、職人長がカイルに向き直った。
「殿下。この大工の意見は、検討する価値がございます。専門の職人も交えて、改修案をまとめましょう」
カイルは頷いた。
「任せる。王女が安心して使えるようにしてくれ」
「はっ」
エリオも深く頭を下げた。
「精一杯やらせていただきます」
その横顔を見ながら、モニカはふと思った。
自分だけでなく、エリオにも新しい仕事の機会が生まれた。
こうして、少しずつ周囲の人たちの世界も広がっていくのかもしれない。
◇
それから数日後。
王女の化粧室では、応急的な改修が始まっていた。
隙間の補修、換気の改善、清掃方法の見直し。
手洗い用の水も、以前より使いやすい形で用意されるようになった。
エレノアは少しずつ水分を取れるようになり、夜の不安も和らぎ始めていた。
そんな折、モニカのもとに一通の招待状が届いた。
差出人は、マルグリット・フォン・ローゼンベルク伯爵夫人。
指定された王都の邸宅を訪れると、応接室には思いがけない顔ぶれが揃っていた。
「モニカさん、お待ちしていたわ」
優雅に微笑むマルグリット。
その隣では、艶やかな赤髪をまとめたヴィオラが、楽しそうに紅茶を飲んでいる。
「こんにちは、モニカ。王宮でずいぶん活躍したそうじゃない」
「ヴィオラ様まで……。今日は、どういったお話でしょうか?」
モニカが席につくと、マルグリットが口を開いた。
「実はね、エレノア殿下のお話を伺って、考えたことがあるの」
「はい」
「王宮には、美しい庭園も豪華な広間もあるわ。でも、心から身体を休められる場所は、意外と少ないのよ」
ヴィオラが頷く。
「貴族の屋敷も似たようなものね。高価な香料や調度品にはお金をかけるのに、入浴設備や衛生管理は後回し」
「そこで、提案があるの」
マルグリットはモニカをまっすぐに見つめた。
「王宮と貴族の方々が利用できる、新しい浴場と施術サロンを作ってみない?」
「……えっ?」
モニカは思わず聞き返した。
「浴場と、施術サロン……ですか?」
「ええ。清潔なお湯に浸かって身体を温め、必要に応じて専門のほぐしを受ける。もちろん、衛生管理も徹底するの」
ヴィオラが楽しそうに笑った。
「私は事業として十分に可能性があると思っているわ。設備や資材の調達なら、ベルンシュタイン商会に任せてちょうだい」
「ですが……」
モニカは少し考え込んだ。
確かに、魅力的な話だ。
けれど、問題がある。
「私一人では、そんなに多くのお客様を施術できません」
「でしょうね」
ヴィオラは、あっさりと頷いた。
「だから、人を増やすのよ」
「人を……」
「あなたの技術を、ほかの人にも教えるの。そうすれば、あなたがすべてのお客様を担当する必要はなくなるでしょう?」
モニカは目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと考え始めた。
(……そうか)
前世の仕事では、施術の記録を残し、担当者同士で情報を共有することもあった。
今の自分には、《コンディション》という特別な能力がある。
初回の評価を自分が担当し、身体の状態や施術上の注意点を記録する。
その情報をもとに、きちんと訓練を受けた人が施術する。
状態が変われば、再び自分が確認する。
もちろん、誰でもすぐに施術できるわけではない。
身体の仕組みを学び、危険な状態を見分け、適切な力加減を身につける必要がある。
それでも――。
(できるかもしれない)
モニカの胸が、急に高鳴り始めた。
「……カルテを作れば」
「カルテ?」
ヴィオラが首を傾げる。
「お客様の身体の状態や、施術内容を記録するものです。最初に私が詳しく確認して、その内容をもとに、ほかの施術師が担当できるようにするんです」
「なるほど」
ヴィオラの瞳が輝いた。
「それなら、あなたが一人で全部を抱え込まなくて済むわね」
「はい。ただし、きちんとした研修が必要です。施術の技術だけではなく、衛生管理や接客、施術してはいけない症状についても教えなければなりません」
「だったら、採用試験を開きましょう」
マルグリットが微笑んだ。
「身分に関係なく、素質のある人を集めるのはいかが?」
モニカは顔を上げた。
「……身分に関係なく?」
「ええ。あなた自身が、そういう方でしょう?」
その言葉に、モニカは思わず笑みをこぼした。
「そうですね」
ヴィオラが紅茶のカップを置いた。
「モニカ。あなたが一人で百人を施術するのは無理。でも、十人の施術師を育てれば、その十人が百人のお客様を幸せにできるかもしれない」
赤い唇が、楽しそうに弧を描く。
「それはもう、個人の腕前じゃないわ。立派な事業よ」
モニカは二人の顔を交互に見つめた。
胸の奥から、わくわくするような気持ちが湧き上がってくる。
人を育てる。
技術を伝える。
清潔で、安心して身体を休められる場所を増やす。
それは、風呂屋を再建したときから、ずっと心のどこかにあった願いだった。
「……やってみたいです」
モニカは、はっきりと答えた。
「でも、王宮の衛生設備の改善は、サロンとは別に進めたいです。綺麗なお風呂ができても、お手洗いや飲み水が不衛生なままでは意味がありませんから」
マルグリットが満足そうに頷く。
「もちろんよ。その点も含めて、王宮へ提案しましょう」
「それから、もう一つ」
モニカは少し身を乗り出した。
「いつかは、貴族の方々だけではなく、町の人たちにも同じようなサービスを届けたいんです」
ヴィオラは一瞬だけ目を丸くした。
そして、声を上げて笑った。
「ふふっ! いいわね。ますます面白くなってきたわ!」
マルグリットも優しく微笑んでいる。
モニカは窓の外に広がる王都を見つめた。
小さな風呂屋から始まった仕事が、少しずつ広がろうとしている。
自分一人の手では、届かない人たちがいる。
でも、仲間が増えれば。
技術を伝え、仕組みを作ることができれば。
もっと多くの人を、元気にできるかもしれない。
(……よし。まずは、どんな人を採用するか考えなくちゃ!)
モニカの頭の中では、すでに新しい仕事の計画が動き始めていた。
こうして、王宮での一人の少女との出会いは、モニカを新たな舞台へと導くことになった。
――王都初の、本格的なほぐし師養成計画。
その始まりは、もうすぐそこまで来ていた。




