第十三話 黄金の光が取り戻したもの
「いらっしゃいませー! 二名様ですね!」
ミーナの元気な声が、風呂屋に響き渡った。
昼過ぎの浴場は、今日も賑わっている。
脱衣所からは楽しげな話し声が聞こえ、湯気の向こうでは常連のお客様たちが世間話に花を咲かせていた。
「モニカ、タオル持ってきたよ!」
リリが洗いたてのタオルを抱えてやってきた。
「ありがとう、リリ。そこに置いてくれる?」
「うん!」
小さな身体で背伸びをして、棚にタオルを重ねていく。
私はそんな二人の姿を眺めながら、思わず頬を緩めた。
少し前まで、いつ店を失ってもおかしくなかった。
それが今では、毎日こうしてお客様が来てくれる。
「モニカさん、ちょっといいですか?」
受付をひと段落させたミーナが、こちらへやってきた。
「昨日も、ほぐしの予約をしたいってお客さんが三人も来たんですよ!」
「三人も?」
「はい。でも、もう予約がいっぱいだったので、別の日にしてもらったんです」
「あら……」
「モニカさん、最近は王都にも行ってますしね。身体が二つあればいいのにって思っちゃいます」
「それは私も思うわ」
私が笑うと、ミーナも笑った。
「施術できる人、もう一人くらいいたらいいですよね」
その言葉に、私は少し考え込んだ。
――もう一人、セラピストを。
前世では、後輩に施術を教えたこともあった。
この世界でも、技術を学びたい人がいれば、育てることはできるはず。
それに、風呂屋には今使っていない部屋もある。
「……いつか、施術室を増やしてもいいかもしれないわね」
「えっ、お店を大きくするんですか!?」
「まだ考えているだけよ。でも、予約をお断りするのはもったいないでしょう?」
「それ、いいですね!」
ミーナが目を輝かせた。
「そしたら、あたしももっと頑張らなきゃ!」
「今でも十分頑張ってくれているわよ」
「へへっ、ありがとうございます!」
ミーナは照れくさそうに笑った。
そのとき、壁の時計が目に入った。
「あら、もうこんな時間!」
今日はマルグリット伯爵夫人の屋敷で、出張施術の予約がある。
「ミーナ、リリ。今日もお店をお願いね」
「はい! 任せてください!」
「いってらっしゃい、モニカ!」
二人に見送られ、私は施術道具の入った鞄を手にした。
今日の仕事を終えれば、借金完済に必要なお金がそろう。
その期待を胸に、私は王都へ向かった。
---
「モニカさん、お待ちしておりましたわ」
マルグリット・フォン・ローゼンベルク伯爵夫人は、いつもの優雅な笑顔で私を迎えてくれた。
「本日もよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。今日は、ぜひあなたにお会いしていただきたい方がいらっしゃるの」
案内された客間には、一人の貴婦人が座っていた。
年の頃は五十歳ほどだろうか。
銀茶色の髪を美しく結い上げ、深い翡翠色のドレスをまとっている。
背筋を伸ばした姿は気品に満ちていたが、その表情にはどこか寂しげな影があった。
「こちらは、イザベル・フォン・アルテンベルク侯爵夫人ですわ」
「初めまして、モニカと申します」
私が一礼すると、イザベル様は静かに頷いた。
「あなたのお噂は伺っています」
「ありがとうございます」
「マルグリットは、あなたなら私の力になれるかもしれないと言うのだけれど……」
彼女はそこで言葉を切った。
「正直に申し上げれば、あまり期待はしていないの」
穏やかな口調だった。
けれど、その言葉には長い諦めがにじんでいた。
マルグリット様がそっと口を開く。
「イザベル様は、かつて王都でも指折りの踊り手でいらしたのよ」
「まあ、昔の話ですわ」
イザベル様は寂しそうに笑った。
「舞踏会が大好きでした。音楽が鳴れば、自然と身体が動いたものです」
その視線が、膝の上に置かれた手へ落ちる。
「けれど、数年前から腰と脚が思うように動かなくなって……。今では長く立っていることさえつらい日があります」
「治癒師の先生には、ご相談なさいましたか?」
「ええ、何度も。大きな病や骨の異常は見つからないそうです。治癒術を受ければ一時的には楽になりますけれど、すぐに元へ戻ってしまうの」
「そうでしたか……」
「ですから、無理に踊ろうとは思っていません。ただ……」
彼女は窓の外を見た。
「音楽を聴くたびに、あの頃を思い出してしまうのです」
私は胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
好きなことができなくなる。
それは、単に身体が不自由になる以上のつらさがある。
――この方は、もう一度踊りたいんだ。
「イザベル様。まずは、お身体の状態を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ。お願いします」
私は彼女の正面に立ち、静かに意識を集中させた。
《コンディション》。
淡い青色の光が視界に広がり、文字が浮かび上がる。
【コンディション】
対象:イザベル・フォン・アルテンベルク
年齢:52歳
全身状態:慢性疲労
腰部:筋緊張・強
臀部・股関節周辺:筋緊張・強
下肢:筋力低下・軽度
股関節:可動域制限・中
歩行時:代償動作あり
特記事項:長期間の運動制限による身体機能の低下
――なるほど。
腰だけではない。
痛みをかばううちに身体の動かし方が変わり、筋肉がさらに緊張している。
動く機会が減ったことで、脚の力も少し落ちているようだ。
これは、ただ腰を揉めば解決する問題ではない。
でも、まだできることはある。
「イザベル様。少しだけ立って、歩いていただけますか? 無理のない範囲で結構です」
「ええ……」
イザベル様は椅子の肘掛けに手を置き、ゆっくり立ち上がった。
一歩。
二歩。
その動きは慎重で、右脚をかばうように重心が偏っている。
「ありがとうございます。もうお座りになってください」
私は彼女の歩き方を頭の中で整理した。
前世の知識が、次々と浮かんでくる。
筋肉の緊張。
関節の動き。
姿勢の癖。
そして、長く続いた痛みに対する恐怖。
――身体だけじゃない。もう動けないと思い込んでしまうことも、回復を難しくする。
私は施術台へ案内し、まず腰から臀部にかけて、筋肉の状態を丁寧に確かめた。
「少しずつほぐしていきますね。痛みが強ければ、すぐに教えてください」
「ええ……」
私は手のひらを当て、ゆっくり圧を加えた。
硬くなった筋肉を無理に押し込むのではなく、呼吸に合わせて緊張を緩めていく。
「……あら」
イザベル様が小さく声を漏らした。
「不思議ね。強く押されているわけではないのに、奥の方まで温かくなるようだわ」
「ありがとうございます。お身体が少しずつ力を抜いてくださっているんですよ」
腰から臀部、太ももの周辺へ。
筋肉のつながりを意識しながら、慎重に施術を進める。
やがて、最初は硬くこわばっていた身体が、少しずつ柔らかさを取り戻してきた。
私はもう一度を確認する。
腰部の筋緊張は、強から中へ。
股関節周辺にも、わずかな改善が見える。
――よし。
でも、ここからが本番。
「イザベル様。これから少し、治癒術を使わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「治癒術……?」
「はい。お身体が本来持っている回復する力を、少しだけ後押しするものです」
イザベル様は驚いたように私を見た。
「あなた、治癒術まで使えるの?」
「ええ。ただ、何でも治せるわけではありません。今の施術と組み合わせることで、お身体が楽になるお手伝いができればと思っています」
「……お願いするわ」
私は静かに頷いた。
両手をイザベル様の腰の上にかざし、意識を集中させる。
すると――。
ふわり。
手のひらから、淡い黄金色の光が生まれた。
「まあ……!」
傍らで見守っていたマルグリット様が息をのむ。
光は小さな粒となって舞い上がり、やがて柔らかな輝きとなってイザベル様の腰を包み込んだ。
温かな春の日差しのような光。
私は呼吸を整えながら、慎重に力を流していく。
――無理に変えるんじゃない。
この身体が、もう一度動こうとする力を。
その回復を、そっと支える。
黄金の光が、腰から脚へとゆっくり広がった。
「……ああ」
イザベル様が目を閉じた。
「なんて、温かいの……」
その声が、かすかに震えていた。
私は光を弱め、最後にそっと手を離した。
部屋に静けさが戻る。
《コンディション》の文字が、ゆっくりと変化していた。
【腰部:筋緊張・中 → 軽度】
【臀部・股関節周辺:筋緊張・強 → 中】
【股関節:可動域制限・中 → 軽度】
――よかった。
確かな変化がある。
もちろん、筋力の低下まで一度で元に戻ったわけではない。
けれど、動きやすくなるきっかけは作れたはずだ。
「イザベル様。少し休んでから、立ってみましょうか」
「……ええ」
私は彼女のそばに立ち、必要なら支えられるように手を差し出した。
イザベル様はゆっくり身体を起こす。
そして、床に足をつけた。
一歩。
二歩。
「あら……?」
彼女が立ち止まった。
もう一度、足を前へ出す。
「……痛く、ない?」
驚いたように腰へ手を当てる。
「いえ、まったく痛くないわけではないけれど……さっきより、ずっと軽いの」
「無理はなさらないでくださいね」
「ええ。でも……」
イザベル様は、ふと窓の外を見た。
そして、小さく笑った。
「少しだけ、試してみてもいいかしら」
「何を、でしょう?」
「踊ることを」
マルグリット様が息をのんだ。
「イザベル様……!」
「ほんの少しだけよ。昔のように踊れるとは思っていないわ」
彼女はドレスの裾を軽く持ち上げた。
背筋を伸ばす。
片足を引き、もう一方の足へ体重を移す。
その姿勢を見た瞬間、私は思わず見入ってしまった。
――綺麗。
長い年月を経ても、身体が覚えているのだ。
音楽に合わせて動くための、美しい姿勢を。
イザベル様は、ゆっくり一歩を踏み出した。
そして、もう一歩。
小さく身体を回す。
ドレスの裾が、ふわりと揺れた。
「……あ」
彼女の唇から、声がこぼれた。
「私……」
もう一度、ゆっくりとステップを踏む。
その目に、みるみる涙が浮かんでいく。
「私、まだ踊れるのね……!」
マルグリット様が両手で口元を押さえた。
「イザベル様……!」
私は胸がいっぱいになった。
かつて舞踏会を彩ったという女性が、今、ほんの数歩だけ踊っている。
それだけのことなのに。
なんて美しいんだろう。
イザベル様は動きを止めると、涙を拭いながら笑った。
「ありがとう、モニカさん」
「……いえ。私は、少しお手伝いをしただけです」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「あなたは、私がもう二度とできないと思っていたことを、思い出させてくれたの」
その笑顔は、最初に会ったときとはまるで違っていた。
「また、踊りたいわ。今度は、ちゃんと音楽に合わせて」
「では、少しずつ身体を慣らしていきましょう。治癒師の先生とも相談しながら、無理のない範囲で」
「ええ。約束よ」
私は笑顔で頷いた。
――そうだ。
私が届けたいのは、ただ痛みのない身体だけじゃない。
好きなことを楽しめる毎日。
諦めていたことに、もう一度挑戦できる喜び。
それこそが、私の仕事なんだ。
---
「本日もお疲れさまでした、モニカさん」
施術を終えた私を、ヴィオラが待っていた。
赤い髪を美しくまとめた彼女は、机の上に帳簿と革袋を並べている。
「イザベル侯爵夫人のお話、もう耳に入りましたわ」
「早いですね」
「この屋敷で起きたことですもの。しかも、あのイザベル様が笑顔で踊られたとなれば、噂にならないはずがありません」
ヴィオラは満足そうに微笑んだ。
「次回の施術予約についても、すでにお問い合わせをいただいております」
「ありがとうございます。ですが、無理な予定にはしないでくださいね」
「もちろん。あなたが倒れてしまっては、商会としても困りますから」
そう言って、ヴィオラは精算書を差し出した。
「さて、今回の契約分の施術は、これですべて完了です。こちらが正式な精算になります」
私は書類を受け取り、数字を確かめた。
前金として受け取っていた分も、これで施術済みの売上として確定した。
商会への手数料を差し引いても、手元に残るお金は十分にある。
風呂屋で積み立ててきた利益と合わせれば――。
「……返せる」
思わず声が漏れた。
「何か?」
「借金です。風呂屋を守るために借りていたお金があるんですけど……これで、全部返せます!」
ヴィオラは目を細めた。
「まあ。それはおめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「ですが、これからが本当の商売ですわよ」
彼女は楽しそうに笑った。
「借金を返すために働くのと、未来のために働くのとでは、見える景色が違いますから」
その言葉に、私は大きく頷いた。
――そうね。
今度は、もっと先を見ていいんだ。
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翌日。
私は金貨五枚を入れた革袋を持ち、バルドのもとを訪ねた。
「こんにちは、バルドさん」
「おう、モニカか。今日はどうした?」
「借金を返しに来ました。残りの金貨五枚、全部です」
「……全部だと?」
バルドは目を丸くした。
差し出した革袋を開き、金貨を一枚ずつ数えていく。
一枚、二枚、三枚。
そして五枚目を数え終えると、彼はしばらく黙り込んだ。
「……ははっ!」
やがて、豪快な笑い声が響いた。
「やるじゃねえか、モニカ! 本当に全部返しちまうとはな!」
「はい。ようやく、お返しできました」
「店が繁盛してるって噂は聞いてたが、まさかここまでとはなあ」
バルドは嬉しそうに金貨を袋へ戻した。
そして、ふと懐かしむように目を細めた。
「……親父さんとお袋さんも、喜んでるだろうよ」
その言葉に、私は胸を突かれた。
「お前の親父さんは、あの風呂屋を本当に大事にしてたからな。お袋さんも、いつも客のことばかり気にかけてた」
「……はい」
「二人が亡くなってからは、どうなることかと思ったが……よく守ったな」
私は膝の上で、そっと両手を握った。
元のモニカが、どれほど両親を愛していたか。
どれほど、あの風呂屋を失いたくなかったか。
その思いは、今も私の中に残っている。
――でも、あなたが守りたかった場所は、まだここにあるよ。
私は心の中で、もう一人のモニカに語りかけた。
「……ありがとうございます、バルドさん」
少しだけ声が震えた。
「お父さんとお母さんが大切にしていたお店、これからも守っていきます」
「ああ。そうしてやれ」
バルドは大きく頷いた。
「だがな、モニカ。守るだけじゃなくて、お前自身も幸せになれよ」
「……はい!」
私は笑顔で答えた。
バルドは借用証書と受領証を差し出した。
「これで貸し借りは終わりだ。今度は客として風呂に入りに行くからな」
「ぜひ! お待ちしております!」
外へ出ると、青空が広がっていた。
私は返してもらった借用証書を胸に抱いた。
――お父さん、お母さん。
風呂屋は、ちゃんと残っているよ。
これからは、もっとたくさんの人が笑顔になれる場所にしてみせる。
私は空を見上げ、小さく微笑んだ。
---
「ええっ! 本当に全部返したんですか!?」
ミーナの声が店内に響いた。
「ええ。今日、バルドさんに全額返してきたわ」
「すっごーい! おめでとうございます!」
ミーナが両手を上げた。
「じゃあ、もう風呂屋を取られたりしないんだよね?」
リリが私を見上げる。
「ええ。もう大丈夫よ」
「やった!」
リリが嬉しそうに跳ねた。
「ねえ、今日はお祝いしようよ!」
「そうね。夕食を少し豪華にしようかしら」
「お肉!」
「リリ、早いって!」
ミーナが笑い、私もつられて笑った。
この場所を守れた。
その実感が、じんわりと胸に広がってくる。
そして、私は二人の顔を見ながら、ずっと考えていたことを口にした。
「ねえ、ミーナ。リリ。ちょっと相談があるの」
「何ですか?」
「実はね、二人にここで暮らしてもらえないかなって思っているの」
「……え?」
ミーナが目を丸くした。
「住み込みってことですか?」
「ええ。空いている部屋もあるし、毎日通うのも大変でしょう? もちろん、お給料やお休みは今までどおりよ」
「えっ、本当にいいんですか!?」
「私は大歓迎だけど……二人がよければ、ね」
ミーナは一瞬ぽかんとしたあと、ぱっと笑顔になった。
「やった! あたし、ここに住みたいです!」
「本当?」
「はい! 毎日みんなと一緒なら楽しそうですし!」
すると、リリが私の袖を引いた。
「モニカ、わたしも?」
「もちろん。リリもここで暮らしたい?」
「うん!」
即答だった。
「じゃあ、お部屋を用意しなくちゃね」
「やったー!」
リリが両手を上げる。
ミーナも嬉しそうに笑った。
「なんか、家族が増えたみたいですね!」
その言葉に、私は少しだけ胸が熱くなった。
家族。
前世では、仕事に夢中で、家に帰っても一人で過ごすことが多かった。
この世界に来てからは、店を守ることで精いっぱいだった。
でも、今は違う。
一緒に働いて、笑って、ご飯を食べる仲間がいる。
「……そうね」
私は二人に微笑んだ。
「これからも、よろしくね」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
「よろしく、モニカ!」
賑やかな笑い声が、風呂屋いっぱいに広がった。
---
「モニカ」
夕方、店の入口からエリオの声がした。
「エリオ!」
「聞いたよ。バルドへの借金、全部返したんだって?」
「うん。今日、完済したよ!」
「そうか……本当によかった」
エリオは嬉しそうに笑った。
そのとき、浴場の方からお客様の笑い声が聞こえてきた。
「ミーナちゃん、また来るね!」
「はーい! お待ちしてます!」
湯上がりの婦人たちが、満足そうな顔で暖簾をくぐっていく。
エリオはその様子を、しばらく黙って見つめていた。
「……賑やかになったな」
「うん。おかげさまでね」
「昔は、こんなふうだったんだ」
「昔?」
「ああ。おじさんが薪を運んで、おばさんが受付で客と話しててさ。いつも誰かの笑い声がしてた」
エリオは懐かしそうに店内を見回した。
「二人が亡くなってからは、あんなに静かになっちまって……」
言いかけて、彼は口を閉じた。
私は黙って、その続きを待った。
「正直、もう駄目かもしれないと思ったこともあった。お前も無理してたし、客も減る一方だったからな」
「……そうだったんだね」
「ああ。でも、今は違う」
エリオは浴場の方へ目を向けた。
リリがタオルを運び、ミーナが笑いながら声をかけている。
「まるで、あの頃に戻ったみたいだ」
その声は、少しだけ震えていた。
「……いや、違うな」
エリオは首を振り、私を見た。
「昔に戻ったんじゃない。お前が、新しく作ったんだ」
私は何も言えなかった。
「本当によくやったよ、モニカ」
その言葉が、胸に染みた。
「ありがとう、エリオ」
私は笑顔で答えた。
「でも、まだまだやりたいことがあるんだ。施術室も増やしたいし、いつかセラピストも育ててみたくて」
「……そうか」
エリオは小さく笑った。
「お前は、もう次のことを考えてるんだな」
「うん。せっかくここまで来たんだもの」
「そうだな」
彼は頷いた。
けれど、その目には、ほんの少しだけ寂しさが残っていた。
「……遠くへ行っちまいそうだな」
「え?」
「いや、何でもない」
エリオは笑って首を振った。
「そういや、王都で光の治癒術を使ったんだって?」
「うん。腰の悪い貴婦人がいてね。昔みたいに踊れたって、すごく喜んでくれたの」
「へえ。そりゃよかったな」
エリオは嬉しそうに笑った。
「しかし、あの光をまた使うようになったんだな」
「……また?」
「ん? 昔も使ってただろ?」
「えっ、私が?」
「おいおい、忘れたのかよ。おじさんとおばさんが病気だったとき、必死になって使ってたじゃないか。俺も見たことあるぞ」
私は思わず自分の手を見つめた。
――元のモニカも、この光を?
てっきり、転生してから使えるようになった力だと思っていたのに。
「……そっか。そうだったんだ」
「なんだよ、変なやつだな」
エリオは苦笑したが、それ以上は聞かなかった。
「まあ、今は人を笑顔にできてるんだ。それでいいんじゃないか?」
「……うん。そうだね」
私は顔を上げて笑った。
「ありがとう、エリオ」
「別に礼を言われるようなことしてないって」
そう言ってエリオは、昔と変わらない顔で笑った。
---
その日の夕方。
お祝いの夕食の準備をしていると、店の前に一台の馬車が停まった。
「モニカ様はいらっしゃいますか?」
落ち着いた男性の声がした。
顔を出すと、上品な服装の使者が立っていた。
「私がモニカです」
「カイル様より、お迎えに参りました。本日、お時間をいただけるようでしたら、お会いしたいとのことです」
――カイル様。
先日届いた手紙を思い出す。
王都で話がある、と書かれていた。
「少々お待ちいただけますか?」
私はミーナたちに事情を伝え、身支度を整えた。
「いってらっしゃい! お祝いのご飯、残しておきますからね!」
「ありがとう。あまり遅くならないようにするわ」
馬車に乗り込むと、車輪が静かに動き出した。
向かった先は、王都の中心に近い、落ち着いた雰囲気の邸宅だった。
「入れ」
扉の向こうから、低い声がした。
案内された応接室には、カイルが立っていた。
濃紺の騎士服に、銀の肩章。
腰には剣を帯びている。
いつもの簡素な服装とは違い、今日は第一騎士団長としての威厳があった。
「カイル様。お招きいただき、ありがとうございます」
「急に呼び出して悪かったな。座ってくれ」
「失礼いたします」
私が腰を下ろすと、カイルも向かいに座った。
「借金を返したそうだな」
「えっ。ご存じだったんですか?」
「ああ。マルグリット夫人から聞いた」
「そうでしたか」
「……よくやったな」
短い言葉だった。
けれど、まっすぐこちらを見る瞳には、確かな敬意があった。
「ありがとうございます」
カイルは頷くと、すぐに本題へ入った。
「今日は頼みがある」
「はい。何でしょうか?」
「妹を診てほしい」
「妹様を、ですか?」
「ああ。最近、体調がよくない。疲れやすく、夜もあまり眠れていないらしい」
「治癒師の先生には?」
「宮廷の治癒師が診ている。だが、はっきりした原因がわからない」
カイルは眉を寄せた。
「俺も詳しいことはわからん。ただ、以前より元気がないのは確かだ」
その声には、妹を心配する兄の気持ちがにじんでいた。
「……承知しました。私にできることでしたら、お力になりたいです」
「助かる」
カイルは短く答えた。
「ただし、施術で改善できるものかどうかは、実際に状態を確認してからになります。必要であれば、宮廷の治癒師の先生とも相談させてください」
「それでいい。無理に治せとは言わん」
彼は机の上に、一通の封書を置いた。
厚手の白い封筒。
金色の紋章が刻まれている。
冠を戴いた獅子と、交差する二本の枝。
――あれ?
この紋章、王都の広場で見たような……。
「カイル様。こちらは?」
「王家の紋章だ」
「……王家?」
「ああ」
カイルは何でもないことのように答えた。
「言っていなかったな。俺はこの国の第一王子だ」
「…………はい?」
一瞬、頭が真っ白になった。
第一王子?
王様の息子?
目の前の、この人が?
「えええっ!?」
思わず立ち上がってしまった。
「た、大変失礼いたしました、殿下!」
「……だから、こうなるのが面倒だったんだ」
カイルは小さくため息をついた。
「座れ。別に怒っていない」
「そ、そうおっしゃられましても……!」
「俺は第一騎士団長でもある。街へ出ることも珍しくない。お前の店に行ったのも、騎士団の仕事の帰りだ」
――なるほど!
だから、あんなに堂々としていたのね。
いや、それにしたって、第一王子がうちの風呂屋に来ていたなんて!
「……黙っていて悪かった」
カイルがぽつりと言った。
私は顔を上げた。
「身分を明かせば、お前は余計な気を遣うだろう。普通に接してもらいたかったんだ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……そうだったんですね」
「ああ」
彼は封書をこちらへ差し出した。
「妹は王女だ。王宮の外へ出るのも簡単じゃない。だから、お前に来てもらうことになる」
私は封書を見つめた。
王女様の施術。
しかも、宮廷の治癒師にも原因がわからない不調。
簡単な仕事ではないだろう。
でも。
身体の不調で悩んでいる人がいる。
その人のために、自分の技術が役立つかもしれない。
だったら、答えは決まっている。
私は封書を両手で受け取った。
「……承知いたしました。精いっぱい務めさせていただきます」
カイルは私をじっと見た。
そして、わずかに口元を緩めた。
「頼む、モニカ」
その短い言葉には、兄としての切実な願いが込められていた。
私はしっかりと頷いた。
「はい!」
こうして私は、王宮への招待状を手にしたのだった。




