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第十一話 美魔女の口コミ、予約殺到!

「モニカ! ちょっといいか!」


午前中、風呂屋の扉が勢いよく開いた。


入ってきたのはエリオだった。


「おはよう、エリオ。そんなに慌てて、どうしたの?」


「お前の店、いったい何をやったんだ?」


「え?」


「今朝、商工会に寄ったら、お前の風呂屋の場所を聞かれたんだよ。それも一人や二人じゃない」


「まあ」


「ベルンシュタイン商会の会頭が絶賛しているって、噂になってるぞ」


私は思わず笑みをこぼした。


(ヴィオラ様、もう宣伝してくださったのね!)


さすがは王都でも名の知れた商会会頭。その影響力は、私の想像以上だった。


「商工会にも十件以上問い合わせが来てる。場所を教えていいか確認しに来たんだ」


「もちろんよ。ぜひお願いするわ」


「……本当に大丈夫か? そんなに客が来て」


「嬉しい悲鳴ってやつね。でも、施術は予約制だから、一日にお迎えできる人数は限られるわ」


私はカウンターに置いた予約帳を開いた。


「入浴だけのお客様と施術をご希望のお客様を分けて、無理のないようにご案内するつもり」


「……もう考えてたのか」


「もちろん。お客様が増えたときのことは、ずっと考えていたもの」


エリオは呆れたように笑った。


「お前、本当に変わったよな」


その言葉に、ほんの少しだけ胸が疼いた。


けれど、私は笑顔のまま答えた。


「それよりエリオ、ひとつ相談があるの」


「なんだ?」


「そろそろ人を雇いたいと思っているの。お風呂の準備や清掃を任せられる、信用できる人を探しているんだけど」


エリオは少し考え込んだ。


「……一人、心当たりがある」


「本当?」


「ああ。以前、宿屋で働いていた娘だ。家の事情で仕事を探してる。俺も昔から知ってるし、真面目な子だよ」


「ぜひ、お話を聞いてみたいわ」


「わかった。声をかけてみる」


私は胸の中で小さく拳を握った。


(よし。まずは一歩前進ね!)


⸻


その日の午後。


店の前に、一台の立派な馬車が止まった。


御者が扉を開けると、銀色の髪を美しく結い上げた貴婦人が姿を現した。


深い青のドレスに、上品な宝石の首飾り。背筋を伸ばして歩く姿には、自然と人の目を引く威厳がある。


続いて降りてきたのは、濃紺の上着をきちんと着こなした、知的な目元の女性だった。細い銀縁の眼鏡が、その端正な顔立ちによく似合っている。


ちょうど店先にいたエリオが、二人の姿を見て固まった。


挿絵(By みてみん)


「……おい、モニカ」


「どうしたの?」


「まさか、あの方たちが今日の客なのか?」


「ええ。ヴィオラ様のご紹介で」


エリオが声をひそめた。


「銀髪の方は、ローゼンベルク伯爵夫人だぞ。王都貴婦人社交会の主宰者だ。あの方のお茶会に招かれるだけで、商人たちの間じゃ大騒ぎになる」


「まあ、そうなの?」


「それに、隣の方は王国民政院のヴァイス上級監察官だ。若いが、王都の衛生行政にも発言力がある。普通の商人が簡単に会えるような方じゃない」


私は改めて二人に目を向けた。


(なるほど。ヴィオラ様、とんでもない方たちを紹介してくださったのね)


けれど、お客様はお客様。


どれほど立派な肩書きを持っていても、私がすることは変わらない。


私は背筋を伸ばし、いつもの笑顔で一礼した。


「マルグリット様、エレオノーラ様。ようこそお越しくださいました」


銀髪の貴婦人が、興味深そうに私を見つめる。


「あなたがモニカさんね。マルグリット・フォン・ローゼンベルクですわ」


「エレオノーラ・ヴァイスと申します。本日はよろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。どうぞ中へ」


二人を案内すると、マルグリット様が店内を見回した。


「思ったより……庶民的ですのね」


「ええ。まだ小さな風呂屋ですが、気持ちよくお過ごしいただけるよう努めております」


「ふふ。ヴィオラがあれほど褒めるのだから、楽しみにしていますわ」


その笑顔には、期待と同じくらい、値踏みするような鋭さがあった。


(これは、腕の見せどころね)


私は微笑んだ。


⸻


最初のお客様は、マルグリット様だった。


「最近、肩が重くて仕方ありませんの。夜会が続くと、首まで痛くなってしまって」


「それはおつらいですね。まずはお身体の状態を確認させていただきます」


私はそっと肩に手を添えた。


《コンディション》


視界に、淡い光の文字が浮かぶ。


【マルグリット・フォン・ローゼンベルク】


【疲労:71】


【頸部:筋緊張・重度】


【肩周囲:筋疲労・中度】


【睡眠不足:中度】


【精神状態:警戒/好奇心】


(あら。ずいぶんお疲れなのね)


私はまず、肩周りの筋肉をゆっくりと緩めていった。


「……んっ」


マルグリット様が小さく息を漏らす。


「痛みはございませんか?」


「いいえ……不思議ね。強く押されているわけではないのに、奥のほうが緩む感じがするわ」


「ありがとうございます。呼吸を楽になさってくださいませ」


私は力加減を調整しながら、丁寧にほぐしていく。


そして、肩甲骨の内側に指を添えた、その瞬間。


「あっ……!」


マルグリット様の身体が、びくっと小さく跳ねた。


挿絵(By みてみん)


「申し訳ございません。痛みましたか?」


「い、いいえ……違いますの。そこ、ずっと重かったところで……」


私は力を緩め、ゆっくりと圧をかけ直した。


「んっ……ああ……そこですわ……」


ほうっと息を吐いたマルグリット様が、頬を赤らめる。


「……失礼。こんな声を出してしまうなんて」


「ふふ。どうぞお気になさらず。お身体の力を抜いてくださいませ」


マルグリット様は観念したように目を閉じた。


私は呼吸に合わせて、ゆっくりと筋肉をほぐしていく。


やがて、肩の緊張が少しずつ和らいできた。


(よし。ここから、ほんの少しだけ)


私は意識を集中させた。


手のひらに、淡い金色の光が灯る。


治癒術。


身体が本来持っている回復する力を、そっと後押しするもの。


私は《コンディション》を確認しながら、必要な分だけ光を流した。


「……あら?」


マルグリット様が目を開ける。


「温かい……」


「はい。治癒術を少し使っています」


「これが、ヴィオラの言っていた光なのね」


「ええ。ただ、魔法だけでお身体が整うわけではありません。ほぐしと組み合わせて、無理のない範囲で行っています」


「不思議ね……。肩が、ふわっと軽くなった気がするわ」


施術を終えたマルグリット様は、ゆっくりと肩を回した。


「……軽い」


そして、もう一度。


「本当に、軽いわ!」


その顔に、少女のような笑みが浮かんだ。


「モニカさん」


「はい」


「あなた、来週の私のお茶会にいらっしゃらない?」


「お茶会、ですか?」


「ええ。王都の貴婦人たちを招く予定なの。皆さん、肩や腰の悩みを抱えていらっしゃるわ」


彼女は楽しそうに微笑んだ。


「私のお茶会で施術を披露していただければ、あなたのお店の評判は、もっと広がると思いますわよ」


(お茶会で出張施術……!)


私は頭の中で予定を組み立てた。


店の営業を止めるわけにはいかない。けれど、これは大きな機会だ。


「ありがとうございます。日程と施術人数を調整できましたら、ぜひお伺いしたいです」


「まあ、即答なさらないのね」


「お店のお客様とのお約束もございますので」


マルグリット様は一瞬驚いた顔をして、それから声を上げて笑った。


「気に入りましたわ!」


⸻


次にご案内したのは、エレオノーラ様だった。


施術室に入るなり、彼女は壁際に並べられた清潔な布に目を留めた。


「ずいぶん布を使うのですね」


「はい。お客様ごとに交換しております」


「毎回?」


「もちろんです」


「費用がかかるでしょうに」


「ええ。でも、そこは省きたくないんです」


私は微笑んだ。


「安心してお身体を預けていただくためですから」


エレオノーラ様は、少しだけ感心したようにうなずいた。


「……では、お任せします」


上着を脱ぎ、施術台に横になった彼女は、背筋をぴんと伸ばしたままだった。


(あらあら。横になってまで、そんなに緊張しなくてもいいのに)


私はそっと肩に手を添える。


《コンディション》


淡い文字が浮かび上がった。


【エレオノーラ・ヴァイス】


【疲労:82】


【頸部・肩周囲:筋緊張・重度】


【腰部:筋疲労・中度】


【睡眠不足:重度】


【精神状態:警戒/責任感/緊張】


(これは……かなり無理をなさっているわね)


「エレオノーラ様。最近、あまりお休みになれていないのでは?」


「……なぜ、そう思うのです?」


「肩と背中の張りが強いので。お仕事が続いていらっしゃるのかな、と」


「……ええ。少々、立て込んでおりまして」


少々、ね。


《コンディション》を見る限り、少々どころではなさそうだ。


「では、今日はゆっくり緩めていきましょう。痛みがあれば、すぐにお知らせください」


「お願いします」


私は肩から背中へ、ゆっくりと手を滑らせた。


「……っ」


挿絵(By みてみん)


エレオノーラ様の呼吸が、一瞬止まる。


(うん。ここが特に張っているわね)


筋肉の状態を確かめながら、慎重に圧を加えていく。


「んっ……!」


彼女の肩が、びくっと小さく震えた。


「痛みましたか?」


「い、いえ。問題ありません」


声はいつもどおり落ち着いている。


けれど、耳がほんのり赤い。


「無理に我慢なさらなくても大丈夫ですよ」


「……我慢など、しておりません」


(ふふ。真面目な方ね)


私は少し力を緩め、呼吸に合わせて施術を続けた。


やがて、固くこわばっていた肩が、少しずつ柔らかくなっていく。


「……あっ」


今度は、先ほどよりも小さな声だった。


「そこ……少し、気持ちがいいです」


「よかったです。そのまま楽になさってください」


「……はい」


私は肩甲骨の周囲を丁寧にほぐしていった。


「ん……」


エレオノーラ様の指先から、ふっと力が抜ける。


先ほどまで真っすぐだった背筋も、ようやく施術台に馴染んできた。


「……不思議ですね」


「何がでしょう?」


「普段は、こんなふうに誰かに身体を任せることなどありませんから」


「お仕事では、いつも気を張っていらっしゃるのでしょうね」


「ええ。判断を間違えれば、多くの人に迷惑がかかります」


「それは、大変なお仕事ですね」


「……そうですね」


彼女は静かに息を吐いた。


「でも、私が弱音を吐くわけにはいきません」


私は手を止めずに答えた。


「こちらでは、少しくらい弱音を吐いていただいても大丈夫ですよ」


「……え?」


「今はお仕事中ではありませんから」


しばらく、沈黙が流れた。


そして。


「……そう、ですね」


エレオノーラ様は、初めて少しだけ笑った。


私は意識を集中させる。


手のひらに、淡い金色の光が灯った。


「……これは?」


「治癒術です。お身体の回復を、少しだけお手伝いしますね」


温かな光が、肩から背中へゆっくりと広がる。


「……あぁ……」


エレオノーラ様の唇から、深い吐息がこぼれた。


今度は、取り繕うこともなかった。


「……温かい」


「はい」


「身体の奥まで……ほっとするような……」


私は《コンディション》を確認しながら、必要な分だけ治癒術を使った。


しばらくして施術を終えると、エレオノーラ様はゆっくりと身体を起こした。


そして、自分の肩に手を当てる。


「……驚きました」


「いかがでしょうか?」


「肩が軽いだけではありません。頭まで、すっきりした気がします」


「それはよかったです。ただ、お疲れがすべて取れたわけではありませんので、今夜はできるだけお休みくださいね」


「……ええ。そうします」


彼女は小さく微笑んだ。


それから、ふと施術台の清潔な布に視線を落とした。


「モニカさん。一つ、伺っても?」


「はい、何でしょう?」


「あなたは、なぜこれほど衛生管理に気を配るのですか?」


私は少し考えてから答えた。


「身体を元気にすることと、病気を防ぐことは、どちらも大切だと思っているからです」


「病気を……防ぐ?」


「はい。治癒術があっても、すべての病気を治せるわけではありません。だからこそ、清潔な水やお風呂、手洗いといった日々の習慣が大切だと考えています」


エレオノーラ様の表情が変わった。


先ほどまでの柔らかな顔から、上級監察官の鋭い目に戻る。


「……それは、興味深いお考えですね」


彼女は少し身を乗り出した。


「実は王都でも、共同浴場の衛生管理が問題になっています。設備はあっても、管理の仕組みが整っていない場所が多いのです」


「そうなのですね」


「モニカさん。もしよろしければ、今度、民政院でお話を伺えませんか?」


(民政院……!)


思いがけない申し出に、胸が高鳴った。


「私でお役に立てるのでしたら、ぜひ」


エレオノーラ様は、今度こそはっきりと微笑んだ。


「ありがとうございます。正式なご案内をお送りします」


そして、少し照れくさそうに付け加えた。


「……それと、施術の予約もお願いできますか?」


「もちろんです」


「できれば、仕事が終わったあとに」


「ふふ。承知いたしました」


あの厳格そうな上級監察官が、こんなに柔らかく笑うなんて。


私は嬉しくなった。


身体が緩めば、心も少し軽くなる。


前世からずっと、大好きだった瞬間だ。


そして今。


この小さな風呂屋から、王都の行政へ。


新しい道が、また一つ開こうとしていた。


⸻


翌朝。


「モニカ! 外、見て!」


リリの声に、私は玄関へ向かった。


扉を開けると――。


「……まあ!」


店の前に、人が並んでいた。


十人、二十人。


さらに、その後ろにも。


「ここが、ヴィオラ様のおすすめの店ですか?」


「ローゼンベルク伯爵夫人が絶賛なさったとか!」


「治癒術も使えるって聞いたんだけど!」


「お風呂だけでも入れますか?」


私は一瞬、ぽかんとした。


そして、思わず笑みがこぼれた。


(口コミの威力って、本当にすごいわね!)


とはいえ、この人数をそのまま受け入れるわけにはいかない。


私は一度店内に戻り、予約帳と紙を持ってきた。


「皆様、お越しいただきありがとうございます!」


集まった人々に向かって、声を張る。


「施術は予約制となっております。本日ご案内できる人数には限りがございますので、順番にご希望を伺わせてください!」


すると、一人の男性が声を上げた。


「金なら倍払う! 先にやってくれ!」


私はにっこり笑った。


「ありがとうございます。でも、先にご予約いただいたお客様を優先いたします」


「なんだと?」


「皆様に気持ちよくご利用いただきたいので、ご理解いただけますと幸いです」


周囲から、小さな笑い声が起こった。


男性は少しばつが悪そうに頭をかき、列へ戻った。


(よし。まずは混乱を収められたわね)


私は予約帳を開き、順番に希望を伺っていった。


施術は数日先まで埋まり、入浴だけのお客様も増え始めた。


嬉しい。


けれど、ここからが本当の勝負だ。


⸻


昼前。


エリオが、一人の若い女性を連れてやってきた。


「モニカ。昨日話してた娘を連れてきたぞ」


「まあ、ありがとう!」


エリオの後ろから、ひょいと顔を覗かせたのは、黒髪を短く切り揃えた若い女性だった。


くりっとした琥珀色の瞳に、健康的な血色の頬。小柄ながら引き締まった身体つきで、どこか少年のような快活さがある。


「初めまして! ミーナです!」


にこっと笑うと、八重歯がちらりと覗いた。


その人懐っこい笑顔に、私もつられて微笑んでしまう。


服装も少し変わっていた。


動きやすい短めの上着に、膝上丈のショートパンツ。腰には作業用の布を巻き、首には汗を拭くためのタオルを掛けている。


上着とパンツの間から、おへそがちらりと覗いていた。


(あら、ずいぶん身軽な格好ね。でも、水仕事にはぴったりかも)


「以前は宿屋で働いていました。掃除も洗濯も得意です!」


元気のいい声だった。


エリオが苦笑する。


「見てのとおり、じっとしてるのが苦手なやつでな。でも、仕事は真面目だ。そこは保証する」


「もう、エリオさん! 余計なこと言わないでくださいよ!」


ミーナが頬を膨らませる。


そのやり取りに、私は思わず笑ってしまった。


(ふふ。いい子みたいね)


「それではミーナさん、まずは少しお話を聞かせていただけますか?」


「はい! よろしくお願いします!」


私は仕事内容や勤務できる時間を確認し、以前の宿屋でどんな仕事をしていたのか尋ねた。


ミーナは、一つひとつ丁寧に答えてくれた。


「では、今日は少しだけ、お仕事を見ていただけますか?」


「はい!」


「実際にやってみて、お互いに合うか確かめましょう」


ミーナはほっとしたように笑った。


「ありがとうございます!」


私はリリを呼んだ。


「リリ、ミーナさんに布の置き場所を教えてあげてくれる?」


「うん!」


リリはミーナを見上げた。


「こっちだよ。きれいなのと、使ったのは分けてるの」


「ありがとう。案内してくれる?」


「うん!」


二人は並んで奥へ向かった。


私はその後ろ姿を見送りながら、少し笑った。


(いい感じね)


⸻


午後。


ミーナの仕事ぶりは、期待以上だった。


「よいしょっ!」


水を張った木桶を軽々と持ち上げ、洗い場へ運んでいく。


短い黒髪が揺れ、首に掛けたタオルが跳ねた。


使い終わった布を手際よく集め、洗濯物を整理し、床を丁寧に磨いていく。


動きはきびきびとしていて、見ているこちらまで元気になりそうだった。


「ミーナ、こっちの布はきれいなやつだよ」


リリが棚を指さす。


「了解! じゃあ、こっちに並べるね!」


「うん!」


二人はすっかり息が合っているようだった。


しばらくすると、ミーナが洗い場から顔を出した。


「モニカさん! こっちのお掃除、終わりました!」


額にはうっすらと汗が浮かんでいる。


短めの上着の裾を気にすることもなく、首のタオルで汗を拭う姿は、実に健康的だった。


「ありがとう、ミーナさん。とても助かります」


「えへへ! 身体を動かす仕事、大好きなんです!」


そう言って、彼女はまた元気よく洗い場へ駆けていった。


(ふふ。これは頼もしい仲間が増えたわね)


私は自然と笑顔になっていた。


挿絵(By みてみん)

⸻


夕方。


営業を終えたところで、エリオがやってきた。


「どうだった? ミーナは」


「とてもいい子ね。紹介してくれてありがとう」


「そりゃよかった」


私は帳簿を取り出した。


「それより、エリオ。借金の返済について相談したいの」


エリオの表情が引き締まった。


「……ああ」


「次の返済は金貨一枚でしょう?」


「そうだ」


「今の売上と、これからの予約を整理したいの。人を雇うなら、その分の費用も必要になるから」


エリオは椅子を引き寄せた。


「わかった。一緒に計算しよう」


私たちは帳簿を広げた。


売上は確実に伸びている。


けれど、まだ安心はできない。


薪代、布代、食材、修繕費。


そして、これから必要になる人件費。


「……なるほどな」


エリオが小さくうなずいた。


「これなら、返済の目処は立ちそうだ」


「ええ。でも、予約が入っただけでは売上にはならないもの。きちんとお客様を迎えて、満足していただかないとね」


「お前、本当に商売が好きなんだな」


「ふふ。そう見える?」


「ああ」


エリオは少し笑った。


「昔は、こんなふうに帳簿を見て笑うことなんてなかったのに」


その言葉に、私は一瞬だけ胸がちくりとした。


昔のモニカ。


エリオが知っている、もう一人の私。


「……そうかもしれないわね」


私は静かに答えた。


エリオは何か言いかけたが、やがて首を振った。


「まあ、いいさ」


「エリオ?」


「お前が元気なら、それで」


その笑顔が、少しだけ寂しく見えた。


私は胸の奥に、小さな痛みを覚えた。


⸻


その夜。


私は一人、予約帳を眺めていた。


ヴィオラ様から始まったご縁。


マルグリット様の社交界。


エレオノーラ様の行政への関心。


新しいお客様。


そして、新しく働くことになったミーナ。


ほんの数日前まで、静かだった風呂屋。


それが今、確かに変わり始めている。


(でも、ここからが本番ね)


お客様が増えれば、責任も増える。


人を雇えば、その人の暮らしも背負うことになる。


それでも。


私は、わくわくしていた。


(このお店、もっとよくできる)


お風呂を整えて。


施術の技術を広めて。


清潔で、安心して過ごせる場所を増やして。


いつか、この国の人たちが、もっと健やかに暮らせるように。


そのための第一歩が、今ここにある。


私は予約帳を閉じた。


「よし!」


明日も忙しくなりそうだ。


けれど、それが今は、たまらなく嬉しかった。

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