第89話 結城くん次第じゃない?
私が包み込んだ東雲さんの手は、本当に氷のように冷え切っていた。
それでも、彼女は私の手を振り払うどころか、その冷たい指先を私の指の間に滑り込ませ、ギュッと握り返してきた。
「……あのね、結城くん」
俯いたまま、東雲さんがぽつりと口を開く。
「もう一つだけ……白状しなきゃいけないことがあって」
「……何ですか?」
私が呆れたように笑うと、彼女は少しだけ気まずそうに、私の胸元あたりに視線を彷徨わせた。
「あのね……結城くんのブログ、入学前から知ってたって言ったじゃない?」
「ええ。私の痛々しい初登校の記録もですね」
「そこに……結城くんが描いた『理想の女の子』のイラストや設定なんかも、載ってたから……」
東雲さんは言葉を濁し、上目遣いで私をチラリと見た。
「……出会った頃の私。結城くんの理想に合わせて……ちょっと、お淑やかなフリ、してたの」
「………………はい?」
私の思考が、一瞬だけピタリと停止した。
出会った頃の、お淑やかなフリ。
──『思えば、出会った頃の彼女はもう少し堅苦しい喋り方をしていたような気がする』。
数日前の教室で、私が一人で勝手に懐かしんでいた、あの「事務的で、少しおどおどしていて、守ってあげたくなるような出会った頃の東雲さん」。
あれは、緊張していたからではなかったのか。
「……演技、だったんですか?」
「え、演技っていうか! ほら、ちょっとでも可愛く見られたいっていうか……!」
「詐欺じゃないですか」
「詐欺じゃないよっ!」
東雲さんが顔を真っ赤にして、指を絡めて繋いだままの私の手を、文句を言いながらブンブンと振り回す。
「最初は言葉遣いとかも気を付けてたのに……! 結城くんが甘やかして、何でも許してくれるから……だんだん気が緩んで、今みたいに……」
「私のせいにしないで下さい。ボロが出るのが早過ぎますよ」
私は溜息を吐きながら、けれど、どうしようもなく込み上げてくる笑いを堪えきれなかった。
肩を揺らして笑う私を見て、東雲さんは「笑い事じゃないもん!」と頬を膨らませた。
「……本当に」
私は笑い声を収め、真っ赤になった彼女の顔を見つめた。
彼女も同じだったのだ。
私は「都合の良いクラスメイト」の仮面を被り、彼女は「理想のヒロイン」の仮面を被っていた。
お互いがお互いに嫌われたくなくて、必死に自分を偽って、空回りして、勝手に怯えていたのだ。
こんなにも滑稽で、不器用なすれ違いが他にあるだろうか。
「幻滅した……?」
「別に……寧ろ、安心しました」
「安心?」
「私だけが必死に自分を取り繕っていたわけじゃなかったんだなって」
私がそう言うと、東雲さんは目を丸くし、やがて、フッと肩の力を抜いて柔らかく微笑んだ。
「……それこそ、取り繕っていたのは私の方」
繋いだ手にギュッと小さな力を込めながら、東雲さんは俯いたまま、ぽつりぽつりと紡ぎ出した。
「結城くんの前ではずっと良い子のフリをしてた。……私の方こそ偽物だった。だから……あの日、私は…………」
冬の夜風が、二人の間を静かに通り抜ける。
東雲さんの声は僅かに震え、その目には再び大粒の涙が込み上げていた。
「……結城くんが好きになってくれたのは本当の私じゃない。ブログを読んで、結城くんの『理想』を盗み見ただけの……『偽物』だったんだもん」
彼女の言葉が、冷たい空気の中に白く溶けていく。
「結城くんが褒めてくれた私の好きなところ、全部全部っ! 私が必死に演じてたところでしかなくて……!」
「………………あ」
その瞬間、すべてのピースが絶望的な形に組み上がった。
あの日、私は彼女を振り向かせようと、思い付く限りの彼女の魅力を必死に言葉にして褒め称えた。
しかし、それが彼女にとっては残酷な演技指導になってしまっていたのだ。
だから彼女はあの日、あんなにも深く頭を下げて、謝罪して断るしかなかった。
東雲さんは、あり得たかもしれない世界を夢想する。
「……いつか絶対にボロが出る。本当の私を知ったら、結城くんは絶対に幻滅する。……結城くんの理想から外れて、結城くんの中から私の居場所がなくなってしまうのが……嫌われるのが……すっごく、怖くて……」
ポロポロと、彼女の指の隙間から涙がこぼれ落ち、アスファルトに黒い染みを作っていく。
──ああ。
なんということだろう。
私は、自分が都合の良いクラスメイトを演じる『偽物』だから、彼女に選ばれるわけがないと絶望していた。
しかし彼女もまた、自分が『偽物』だからこそ、私からの好意を受け取るべきじゃないと怯えていたのだ。
お互いがお互いに嫌われたくなくて。
お互いがお互いの隣にいたくて。
必死に自分を偽って、空回りして、ただ傷つくことを恐れて……私たちは、こんなにも残酷で遠い回り道をしてしまった。
「……」
私は、顔を覆って泣きじゃくる東雲さんの手を優しく退け、赤く染まった彼女の頬を両手でそっと包み込んだ。
彼女の涙で潤んだ大きな瞳が私を見上げる。
「私も、貴女に嫌われたくなくて、ずっと『偽物』の仮面を被っていました」
「結城、くん……」
「もう『理想』なんて要りません。私が一緒にいたいのは、片付けが出来なくて、お酒に弱くて、すぐに私を頼ってくる……その、面倒くさい東雲さんです」
私の言葉に、東雲さんは「面倒くさいって言わないでよ……」と泣き笑いのような顔をして、私の胸にコテンと額を押し当てた。
「今の貴女が、私の『理想』になったんです」
冷え切った冬の駐車場。
厚いコート越しでも、彼女の微かな体温と、トクン、トクンという心音まで伝わってくるような気がした。
「……私、結城くんにいっぱい迷惑かけるよ」
「望むところです」
「私、すぐ結城くんに甘えちゃうよ」
「私が甘やかしているんです」
「……結城くんのこと、また振り回しちゃうかもしれないよ」
私の胸に顔を埋めたまま、彼女は不安を一つ一つ確認するように呟く。
私はその背中にそっと腕を回し、凍えるような寒さから彼女を守るように、静かに抱き寄せた。
耳元でそう囁くと、東雲さんは私の背中に腕を回し、ギュッと強く、本当に強く、私にしがみついてきた。
バッドエンドが運命付けられたシュレディンガーの恋。
あの時、バッドエンドしか入っていないと思っていた箱の中には、互いの「嫌われたくない」という不器用な愛情がいっぱいに詰まっていたのだ。
私はゆっくりと腕の力を緩めると、彼女の肩を掴んで少しだけ距離を取り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ねぇ、東雲さん」
「……なに?」
「このまま二人で、抜け出しちゃいませんか?」
不意の提案に、東雲さんが目を丸くする。
「えっ……でも、みんなまだ中で歌ってるし……」
「大丈夫です。私も何だか急に気分が悪くなってきましたから」
「ふふっ、なにそれ!」
彼女の不調という『言い訳』に、私が乗っかったのだと悟った東雲さんは、悪戯っぽくクスッと笑った。
「結城くん、悪い子」
「それなら東雲さんも共犯です。……裕介さんたちには後で『私も体調が崩れたので帰ります』ってメッセージを入れておきますよ。それだけで杉田さんと早瀬さんは察してくれます。裕介さんは……気付かないかもですけど」
そう言うと、私は彼女の冷え切った指に自分の指を絡め、今度こそ解けないようにしっかりと「恋人繋ぎ」で握りしめた。
東雲さんは驚いたように一瞬だけ目を細め、それから嬉しそうに耳まで赤く染めながら、ギュッとその手を握り返してくる。
「どこ行きます? 温かいものでも飲みに行きますか?」
私がそう尋ねると、東雲さんは首を横に振り、いつもの上目遣いで私の顔を覗き込んだ。
「……カラオケ、行きたい!」
「……はい?」
「だから、カラオケ!」
予想外の返答に、私は思わず背後にある建物を振り返った。
「いや、今そこから抜け出そうって話をしたばかりじゃないですか」
「だって、本当は私だって歌いたかったんだもん! ……でも、みんなとじゃなくて。結城くんと二人が良かったの!」
「……」
なるほど。
彼女は最初からカラオケ自体が嫌だったわけではないのだ。
ただ、私と二人きりで過ごす時間が欲しかっただけ。
本当に、どこまでも自分勝手で、愛おしい。
「……分かりましたよ。じゃあ、駅前の別の店に行きましょうか。ここだと裕介さんたちに見つかっちゃいますからね」
「うんっ!」
満面の笑みで頷く彼女を連れて、私はカラオケ店の明かりを背にし、東雲さんを私の車へと促した。
もう、偽物のクラスメイトのフリをする必要なんてない。
繋いだ手から伝わる温もりだけを道標に、私たちは二人だけの物語へ向かって、新しい一歩を踏み出した。
「その前に…………一つだけ聞いても良いですか?」
「……なぁに?」
「私たち、まだ『ただのクラスメイト』…………ですよね?」
「これからどうなるかは……結城くん次第じゃない?」
東雲さんはそう言って。
私の車の助手席へと、いつものように乗り込んだ。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




