第88話 思っていた通りの人
冬の夜風が、火照った頬の熱をゆっくりと奪っていく。
私は小さく笑いをこぼしたまま、目の前に立つ東雲さんを真っ直ぐに見つめ返した。
「……本当に、性格悪過ぎです。わざわざ私が取り乱すのを分かっていて、こんな寒い駐車場でずっと待ってたなんて」
私の口から出たのは、これまで絶対に言えなかったような、彼女への呆れと文句だった。
けれど、その言葉に棘はない。
自分でも驚くほど、私の声は穏やかで、すとんと腑に落ちたような響きを持っていた。
「……怒った?」
東雲さんが、少しだけ不安そうに上目遣いで私を窺う。
「怒ってますよ。当然じゃないですか」
私はゆっくりと息を吐き出し、彼女に向かって一歩、足を踏み出した。
「私がどれだけ部屋の中でパニックになって、どれだけ情けない顔をしてここまで走ってきたか……。東雲さんは、自分の残酷さを自覚するべきです」
「残酷って……人聞きの悪いこと言わないでよ」
「残酷ですよ。私があの夏の日から、どれだけ必死に自分の気持ちを殺してきたか、全部知っていたくせに」
私の口から出た『あの夏の日』という言葉に、東雲さんの肩がビクッと跳ねた。
そう、花火大会の夜。
私が小さな嫉妬に絡め取られ、彼女から明確な境界線を引いたあの日。
今日まで絶対に触れることの出来なかった最大のタブー。
その事実に触れれば、保ち続けてきた歪な関係性が崩れ去ってしまうと恐れていたからだ。
でも、もう隠す必要なんてなかった。
私は彼女への未練を断ち切るためではなく、彼女の隣に胸を張って立つために、この痛みに向き合うと決めたのだ。
「……結城くんのブログ、読んだよ」
東雲さんは、私の視線から逃げるように俯き、ぽつりと呟いた。
「実は……結城くんのブログ、入学前から知ってたの。結構前だと思うんだけど……お母さんの手術か何かで、千羽鶴を集める企画してたよね? あの時、実は……私も折ったんだよ? 鶴」
「そんな前から……?」
「それから……時々上がる絵とか小説とか読んで……きっと優しい人なんだろうなって思ってた。でも……学校で隣になってからは、結城くんが何を考えてるのか知りたくて……毎日更新を待ってた。……最低だよね」
「……人の黒歴史を楽しみにしていたなんて、本当最低です」
「楽しんでなんか、ないよっ……!」
東雲さんが弾かれたように顔を上げた。
「結城くんが……私なんかのために、ずっと傷ついて、ずっと一人で苦しんでるのを知って……。それでも、次の日には学校で、何事もなかったみたいに優しく話しかけてくれるから……私、どうしていいか分からなくて……」
「……」
「結城くんがブログに書いてた『理想の女の子』……。私、そんな完璧な人間じゃないもん。だらしないし、ワガママだし、ズルいし……残酷だし、結城くんに甘えてばっかりだし……。結城くんの理想と違うって幻滅されるのが……すごく、怖かった……。結城くんは……私が思っていた通りの人だったから」
私は息を吸い込み、冷たい夜で肺を満たす。
「……片付けは出来ないし、酒癖は悪いし、すぐに人に頼るし、試すし……ブログに書いたような、ちっちゃくて可愛い理想の文学少女じゃないってことは、この一年で嫌というほど思い知らされました」
私の言葉に、東雲さんがショックを受けたように目を見開く。
しかし、私は言葉を止めない。
「でも、私が好きなのは……そんな東雲さんです」
冷たい風が二人の間を吹き抜ける。
遠くの国道を走るトラックの音が、やけに鮮明に聞こえた。
「寂しがり屋で、ワガママで、私を振り回す最低で最悪な女の子を……私は、どうしようもなく好きになったんです。一度振られたからって、そう簡単に嫌いになれるわけないじゃないですか。ハワイでも言いましたよね? 死ぬまでずっと、貴女が『私の好きな人』だって」
「……っ」
「もう、都合のいいクラスメイトのフリは辞めます。私はあなたを諦めるのを……たった今、諦めました」
それは、ただのクラスメイトからの完全な卒業宣言だった。
もう、美しい敗北なんていらない。
泥臭くても、無様でも、私は自分の意志で彼女の隣に立つ。
東雲さんは両手で口元を覆い、大きな瞳からポロポロと涙を溢れさせた。
そして、コートのポケットから震える両手を取り出すと、私に向かって、おずおずと伸ばしてきた。
「……手、冷たくなっちゃった」
涙声で、ずるい口実を作る彼女。
私は呆れたように笑い、そして、ためらうことなくその小さな両手を自分の手で包み込んだ。
私は彼女の冷え切った指先を、自分の体温で溶かすように、ぎゅっと強く握りしめた。
冬の駐車場の暗がり。
二人を繋ぐ手から伝わる熱だけが、この世界で唯一の確かなもののように感じられた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




