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第87話 最後の一歩

 カラオケ店の分厚い防音扉を両手で押し開けると、冬の容赦ない冷気が、涙で濡れたままの顔を鋭く打ち据えた。






「はぁっ、はぁっ……!」






 肺の奥まで凍りつきそうな空気を吸い込みながら、私は広大な駐車場へと駆け出した。



 薄暗い街灯が点在するアスファルトの海。


 何十台も停まっている車の中から、彼女の姿を探して必死に視線を走らせる。




 ……いない。


 どこにもいない。




 私が部屋の中で自分の醜い感情を吐き出して泣き崩れている間に、さっさと帰ってしまったのか。




 私はまた間に合わなかったのか。




 焦燥感が胸を激しく締め付ける。 


 あんなふうに、無様なほどに自分の殻を破ってまで走り出したというのに、間に合わなかったらどうしようもなく惨めだ。

 このまま部屋になんて戻れない。





 視界がまだ微かに歪んでいる。

 私は上着の袖で乱暴に目元を擦り、震える指でポケットからスマホを取り出すと、祈るような気持ちで彼女の名前をタップした。







 冷たい風の音に混じって、無機質なコール音が鳴り響く。


 一回、二回、三回──出ない。










 ……頼む。

 ここで繋がらなかったら、もう二度と会えない気さえする。










『…………もしもし?』


 繋がった!!

 ふいに、電話口からクリアで落ち着いた声が聞こえた。


 その声に、私は周囲をぐるぐると見渡しながら叫ぶように尋ねた。







「東雲さん?! 今、どこですか?!」







 すると、スマホの向こうから、くすり、と小さく息を漏らして笑う声が聞こえた。








『ふふっ。……まだ駐車場にいるよ?』


「え……?」


『後ろ』








 言われるがままに、バッと背後を振り返る。


 店舗の入り口から少し離れた、照明の届きにくい暗がり。


 東雲さんの水色の軽自動車、運転席側のドアに寄りかかるようにして、スマートフォンの画面を耳に当てている小さなシルエットがあった。


 目が合うと、彼女は電話越しに微かに微笑み、空いた方の手を小さくヒラヒラと振ってみせた。






「っ……」






 その姿を見た瞬間、全身から一気に力が抜け、私はその場にへたり込んでしまった。



 それを見て東雲さんが駆け寄ってくる。




「……大丈夫?」


「……東雲さん」




 手を差し伸べてくれた彼女の手を握り締めて、立ち上がり、息を切らし、肩を上下させて彼女の前に立つ。


 彼女は悪びれる様子もなく、スマホをコートのポケットにしまいながら私を見上げた。


 冷たい夜風に、彼女の首元で例のダイヤモンドのネックレスが微かに光を反射している。





「お疲れ様、結城くん」





 東雲さんは穏やかな声でそう言った直後、私の顔を下から覗き込むようにして、ピタリと動きを止めた。


 街灯の僅かな光の下でも、今の私の顔がどんな惨状になっているか、隠し通せるはずがなかった。





「……結城くん、どうしたの。その顔……」





 彼女の目が丸くなる。


 無理もない。

 さっきまで部屋で嗚咽を漏らして泣き崩れていたのだ。

 目はウサギのように真っ赤に充血し、まぶたは腫れ上がり、頬には乾ききっていない涙の跡がはっきりと残っている。

 きっと鼻の頭まで赤くなっていることだろう。



「……東雲さんが居なかったので……心配で……」



 私は咄嗟に視線を逸らし、ゴシゴシと再び目元を擦った。



 みっともない。

 あんなに格好つけて「なりたい自分」を自覚した直後に、こんな情けない泣き顔を彼女に晒すことになるなんて。




「……子供じゃないんだから、泣かないの」


「……まだ子供ですよ」


「……ふふ、そうだった」




 東雲さんは小さく微笑むと、私に一歩近づいた。

 そして、冷え切った彼女の細い指先が、私の頭へと伸びる。




「よしよし」




 彼女の親指の腹が、私の髪の間を抜けて、優しく、本当に愛おしそうに撫でてくれた。




「部屋で泣いちゃったの?」


「……」


「私の為に泣いてくれたの?」


「……」


「みんなに何か言われた?」


「別に……虐められたわけじゃないです」


「……そうだね。結城くんは一人で居ても平気な強い人だもんね」


「もう……そうじゃないってことくらい、貴女が一番分かっているでしょう」


「……うん」




 彼女の甘いシャンプーの香りと、真っ直ぐに見つめてくる潤んだ瞳の前に、私がかき集めようとしていたちっぽけなプライドも、用意していた言い訳も、音もなく溶けて消えた。


 私は大きく息を吐き出し、これ以上の言い訳を諦めた。






「……体調は、大丈夫なんですか?」



 私が話題を逸らすように尋ねると、東雲さんは私の頭から手を離し、クイっと可愛らしく首を傾げた。



「そんなの、嘘に決まってるじゃん」



 あっけらかんと言い放つ。

 微塵も悪びれていない。



「……は?」


「カラオケ、ちょっと息苦しかったし。みんなのテンションに合わせるのも疲れちゃって」




 東雲さんはつま先でアスファルトをトントンと軽く叩きながら、少しだけ視線を落とした。




「結城くんが来てくれなかったら、どうしようかと思った」




 その声は、先ほどの悪戯っぽい響きから一転して、どこか心細げな、捨てられた子猫のようなトーンに変わっていた。


 ……まただ。




 私のブログを隅々まで読み、私の抱えている重い感情を知り尽くしているはずの彼女が、不安そうに上目遣いで私を見つめている。


 本当に、この人はどこまで残酷で、魅力的なのだろうか。


 私が彼女の引力から絶対に逃れられないと分かっていて、こうして私を試すような真似をする。




「……スマホに、連絡してくれたら良かったのに」 




 私は呆れたように、でも心の底からの安堵を込めて言った。




「一人で外に出る前に『一緒に来い』と。そう言ってくれれば、私に断る選択肢なんてなかったのに」




 私の言葉を聞いて、東雲さんは小さく首を横に振った。




「ヤダ」




 冬の冷たい空気の中で、彼女の静かな声が響く。




「私が頼んだら意味ないよ」




 東雲さんは潤んだ瞳を真っ直ぐに私に向けた。


 その瞳の奥には、いつかのハワイの夜に見せたような、不安と期待が入り混じった強烈な熱が宿っていた。




「……結城くんが、私のこと。自分の意志で……追いかけて来てくれるか、賭けてみた」




 無自覚な残酷さではない。

 これは明確な、彼女からの『テスト』だ。


 ただのクラスメイトという安全圏に引きこもろうとする私を、無理やりにでもそこから引きずり出し、自分の隣に立たせようとする、彼女なりの歪で愛おしい執着の形。


 私が泣きはらした顔でここまで走ってきたこと。

 その事実こそが、彼女が賭けに勝ったという何よりの証明だった。


 私は、冷たい夜風の中で小さく笑いをこぼした。


 やっぱり私は、この底知れなくズルくて、腹が立つほど可愛い女の子に、どうやったって敵わないのだ。


 ……私はゆっくりと、けれど確かな意志を持って、彼女との間にある最後の一歩を踏み出した。

全90話で完結予定です。

少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。

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