第80話 シュレディンガーの恋
東雲さんはダイヤモンドのネックレスが欲しくて私の家に押しかけたのだ。
私が書き連ねたブログの失敗談を読んで、どうせ自分に宛てた物だろうと踏み、私の気持ちを包装紙のように破り捨てて、物だけを横から掠め取ろうとしている。
悪意的に見れば、そうとしか思えない。
「……開けていい?」
東雲さんはそれでも、私に選択権を残している。
引き出しに手を掛けたまま、デスクに……デスクにカッコよく腰掛けようとしているが、高さが思ったより高かったのか、出来なくて……諦めた。
「……」
私は目を逸らしたまま、東雲さんの問いに答えられなかった。
好意的に捉えれば、彼女は意気地なしの男の背中を押しに来た、何度目かのチャンスを湯水のように与えてくれる、まさにラノベのヒロインのようにも見えてくる。
だがしかし。
この物語は、バッドエンドが運命付けられたシュレディンガーの恋なのだ。
バッドエンドと書かれた箱の中に、バッドエンドしか入っていないことを知っているのに、ハッピーエンドが入っているかもしれないから持ち歩いているんだ、と周りに笑顔を振りまいている、滑稽な男の救えない話。
「…………分かりました。取りあえず……座ってください」
「はーい!」
彼女は立ち上がった私と入れ替わるように、弾むベッドへと飛び乗った。
彼女はあくまでもプレゼントとして受け取りたいのだろう。
……これから数十年、もしかしたら一生埃を被るはずだったネックレスが、正しい持ち主の手へ渡ることを喜ぶべきなのか、綺麗な思い出の最後の一ピースが失われてしまうことを悲しむべきなのか、きっと私は永遠に答えを出せない。
人生を左右しかねない手に汗握る葛藤の末、引き出しは、そんな思惑とは何の関係もなく、引けばスルリと開いてしまう。
そこには、あの日の約束が置いてあった。
正方形の立方体。
それが思い出の形。
紺色のケースが、まるで結婚指輪を彷彿とさせる。
……私には一生、それを彼女の左手に嵌める資格などないと、残酷なまでに思い知らされるような重厚感だった。
それを両手でそっと開くと、大きなダイヤモンドが堂々と台座に置かれていて、チェーンはクッションの隙間から裏側に通される仕組みだった。
「こんな感じですけど……」
「スゴい! 綺麗! 大人!」
「アレだけ呑んでおいて?」
「え、どうしよう! ちょっと待って!」
東雲さんは何か思いついたようで、バサバサと上着を脱ぎ、長い髪を束ねて持ち上げ、身体の前へと流す。
そしてベッドの上で向きを変え、私の方に背中を見せた。
綺麗なうなじが見えている。
「結城くん! ほら! 着けて!」
「今ですか?」
「今、今!」
「……」
ネックレスを見つめる。
たかが数万円だ。くれてやっても良いじゃないか。
それも可愛い女の子がアクセサリーを欲しがっている。
だったら丁度良いじゃないか。
別に貢ぐわけじゃない。
私の意思で勝手に買った。
使わないから人にあげるだけだ。
それで、良いじゃないか。
「……」
……私はゆっくりと。
ネックレスを取り出して、彼女の首へと掛けていく。
綺麗な肌に良く映える。
今日の服装がピンク色のワンピースでないことが残念だったが、そんなことは何の問題にもならなかった。
カジュアルな普段着の中にあっても、それはとても目立ち、首元で大きく煌めいた。
「ありがとう! 大切にする!」
「……どういたしまして」
しかし、彼女の胸元を見て思い出す。
そういえば東雲さんは、ハワイへの出発前に、自分でネックレスを一つ、それも私と一緒に買っていた気がする。
そうだ、あのワンピースはそもそも、そのネックレスに合わせて買ったものだ。
私はそれも忘れて、似たようなネックレスを選んでしまったかもしれない。
「でも……東雲さん。似たようなネックレスを一つ、ハワイ用に買ってませんでしたっけ?」
「え! 全然違うよっ! 全部一緒に見えるとか、彼女が出来たら絶対に言っちゃ駄目だからね?」
「……………………………………………………出来ないから。大丈夫ですよ」
もし、私がもっと馬鹿で自分勝手な男だったなら、このまま彼女の背中を強く抱きしめていたかもしれない。
もし、私が何も知らない鈍感な主人公だったなら、振り返った彼女の唇を奪っていたかもしれない。
もし、私が自分のプライドをすべて捨てられる人間だったなら、泣き喚いてでもそのネックレスを千切り捨てていたかもしれない。
そのどれもが出来なかったから、
私は今こんな小説を書いている。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




