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第75話 紙袋

「じゃあ、おやすみなさい。……明日、ロビーで」


「うん。おやすみ、結城くん」



 少しだけ名残惜しそうに微笑む東雲さんを見届け、私はゆっくりとドアを引いた。








 ガチャリ、と。








 扉が閉まり、無機質なオートロックの音が深夜の廊下に低く響き渡る。


 その瞬間、私たちを包んでいたあの甘く熱を帯びた夜風も、波の音も、すべてが分厚い壁の向こう側へと遮断された。


 まるで、ハワイという時間がここで終わり、私と彼女の間に再び明確な境界線が引かれたことを告げる音のように聞こえた。


 私はドアノブから手を離し、ふかふかとした廊下の絨毯に視線を落として、深く、長く息を吐き出した。


 まだ微かに絡め合った小指に彼女の熱が残っている気がする。


 けれど、私はその右手をゆっくりと握り込み、ポケットの奥へと隠した。


 胸の奥がチクリと、引き剥がされるように痛んだが、私はすぐにその感情に重い蓋をして目を伏せた。









(……これで、良かったんだ)









 これ以上を望んではいけない。


 彼女にとってのハワイ旅行が、少しでも良い思い出になったのなら、私の役目はそこで終わりだ。


 ただのクラスメイトに過ぎない私が、彼女の特別な領域にこれ以上踏み込む資格はない。


 ハワイという非日常の魔法に当てられて、身の丈に合わない未来を夢見てはいけない。


 ……あの夜、身勝手な言葉で彼女を傷つけてしまった私に、これ以上を望む資格はないのだ。


 諦めのような、あるいは安堵のような重たい感情を抱えながら、私は踵を返した。








「おー、結城ー」








 薄暗い廊下の奥から、パタリパタリとスリッパの音を立てて、近づいてくる影があった。


 裕介さんだった。


 彼は手にした紙袋を、私に向かって無造作に突き出している。





「忘れ物だぞ。お前、折角買ったのに自分のベッドに置きっぱなしだったろ」





 差し出されたのは、小さな紙袋。

 それは今日の昼間、東雲さんにバレないようにこっそり買った、しっかりした造りの綺麗な綺麗な紙袋だった。


 私は紙袋を見つめる。

 裕介さんはわざわざここまで届けてくれたのだ。


 私はゆっくりと手を伸ばし、その小さな紙袋を受け取った。

 それは小さく、けれど今の私には持ちきれないほど重たく感じられる。





「……ありがとうございます」





 私の背後には714号室のドア。


 勿論ノックをすれば、彼女はきっとまた、あの嬉しそうな笑顔でドアを開けてくれるだろう。


 しかし、私は手から提げた紙袋を見つめ──静かに言った。





「……でも、もう良いんです」


「は?」


「わざわざ持ってきて頂いたのに、すみません」





 私は裕介さんに軽く頭を下げると、彼とすれ違うように、エレベーターホールへと向かって歩き出した。




「えっ、おい、ちょっと待てよ!」




 裕介さんが慌てて背後から迫ってくる。


 だが、私は足を止めなかった。


 スタスタと前だけを見て進み続ける。

 分厚い絨毯が、逃げるような私の足音を重苦しく吸い込んでいく。





「だから……もう良いんです」


「良い、って……お前、それ……!」






 裕介さんの声が震える。























「東雲さんへのプレゼントだ、って!


 自分でッ!!


 言ってたじゃねぇかッッ!!!」






















 静寂に包まれた深夜の廊下に、裕介さんの悲痛にも似た、声を荒らげる声が響いた。



 部屋の中まで聞こえたらどうするんだ。



 彼の言う通り、このしっかりとした紙袋の中身は、彼女のコーラルピンクのワンピースに合わせて、彼女の喜ぶ顔を想像しながら一生懸命に選んだ物だ。









 でも、渡せなかったのではない。


 …………………………渡さなかったのだ。









 あの美しい夜。


 並んで星空を見上げ、夢を語り合い、小指を絡め合った。


 あの思い出だけで私には、一生分の宝物になるくらい十分過ぎる奇跡だった。














 そして、きっとあの約束は……………………叶わない。












 

 私はエレベーターの扉の前で立ち止まり、振り返った。






「……そうですね」






 そして、心配そうに眉をひそめる裕介さんへ向けて、笑ってみせた。


 自分でも分かるくらい作り物めいた、感情を綺麗に切り離して張り付けたような笑顔だった。


 裕介さんは私のその表情を見て、ハッとしたように息を呑み、そしてギリッと奥歯を噛み締めた。






「お前……そんな顔して……っ」






 彼は何かを言いかけて、だが私が彼の言葉を頑なに拒絶していることを悟ったのか、悔しそうに拳を握りしめて言葉を飲み込んだ。



 ……チーン、と。



 冷ややかなエレベーターの到着音が、重苦しい空気を切り裂いて鳴り響いた。






 私は静かに開いた扉の中へと足を踏み入れ、階数ボタンを押してすぐ、扉を閉めるボタンも押した。



 ゆっくりと閉まり始める金属の扉の向こう側で、裕介さんはただ力なく、呆然と立ち尽くしている。



 私の背中が隠れ切る直前、廊下の向こうから彼の声が微かに零れ落ちた。








「……結城」








 どうしようもない苛立ちと、友人としての痛みを孕んだようなその呟きは、完全に閉ざされた扉に遮られ、もう私の耳には届かない。


 ウィーンという機械音とともに、エレベーターがゆっくりと降下していく。


 どこまでも静かで、冷たく明るい密室の中で。













 私は一人。













 行き場を失った小さな紙袋を、痛いほど強く握りしめていた。

本作を読んで下さっている方々、

ありがとうございます。


本作は小説家になろう及びカクヨムにて、掲載を始めましたが、本日小説家になろうの方でランキング通知が届きました。


現在、日間ランキングで76位にいるそうです。






休日は時間のある方が多いと思い、更新話数を増やしていましたが、それが起因してランキングに入ったようです。


お読み頂きまして、本当にありがとうございます。





1週間ほど小説家になろうの方が掲載開始が早かったので、向こうより話が進んでいるのも理由かと思います。


別にランキングに入ったからと言って何かあるわけではないですが、より多くの人の目に触れて、誰かの記憶に残る機会を頂けたことを嬉しく思います。


改めて、ありがとうございます。

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