第72話 抱き締めてみても
オレンジ色に燃えていた空が徐々に深い群青色へと沈みゆく中、私たちは重い足取りでホテルのロビーを歩いていた。
ズギュッ、ズギュッ。
大理石の床を踏みしめるたび、海水をたっぷりと吸い込んだ私のスニーカーが、情けない悲鳴のような音を立てる。
冷房がガンガンに効いた豪華なロビーを、ずぶ濡れの男女が歩く姿は控えめに言っても悪目立ちしていたが、今の私には他人の視線を気にするだけのキャパシティが脳にも体力にも、まるで残っていなかった。
「……ふふっ。結城くんの靴、カエルみたいに鳴いてるよ」
私の斜め後ろを歩く東雲さんが、濡れた髪をタオルで拭きながら小さく吹き出した。
コーラルピンクのワンピースを上から羽織っているものの、その下は先ほど私の前で完全に外れてしまったあの白い水着。
布地越しに伝わってくる熱と、脳裏に焼き付いて離れない『夕陽に照らされた滑らかな肌』の残像が、私の足取りをぎこちないものにしていた。
「……私はずっと着衣で東雲さんと遊んでいたんですよ? もうへとへとなんですよ。早く部屋に戻りましょう」
努めて冷静な(そしてカエルみたいな足音の)私に、東雲さんは「はーい」と間延びした声で答え、私の背中をツンツンと指先で突いた。
──714号室。
私の理性を粉々に打ち砕いたあの密室のドアを開ける。
「東雲さん、先にシャワーをどうぞ」
「えっ、でも結城くん、服のままだし先に入ったら?」
「私の服は脱いで干しますから平気です」
「でも私……下、水着なんだけど」
「…………?」
「じ、実は海の中で慌てて結んだから、固くて、全然、ほどけなくて……」
東雲さんは真っ赤になった顔を俯かせ、もじもじとワンピースの胸元を握りしめた。
そして、上目遣いで私を見て、とんでもないことを口にした。
「……結城くん。ほどくの、手伝って……くれない?」
「は……?」
私の思考回路がまた停止した。
ほどくのを、手伝う。
何を?
彼女の素肌に直接巻き付いている、あの水着の紐を?
「……い、いや、流石にそれは……!」
「だって、このままじゃシャワー浴びれないもん……。お願い、ちょっとだけだから……」
涙目で訴えかけられ、私は抗う術を失った。
こういう時に限って気の利いたジョークが出てこない。
「……」
私が震える足で彼女に近付くと、東雲さんは「……お願いします」と、背中を差し出した。
ワンピースの背中側から僅かに覗く、細いうなじ。
まだ微かに濡れている髪の間から、例の白い紐が複雑に絡まり合っているのが見えた。
私は息を止め、震える指先をそこへ伸ばした。
指の腹が、彼女の温かい首筋に触れてしまう。
「ひゃっ……」
「っ、すみません……!」
彼女の肩がビクッと跳ねるたびに、私の寿命が数日単位で縮んでいく。
やることは靴紐と変わらないのに、ただ固結びをほどくだけの作業が、永遠のように長く感じられた。
彼女のシャンプーの匂いと、ハワイの海の匂い。
そして、指先に伝わってくる彼女の体温と、微かな鼓動。
「……ほどけ、ました」
紐がほどけた瞬間、水着のテンションがふっと緩むのが分かった。
「……ありがと。助かりました」
東雲さんは首まで真っ赤に染めながら振り返り、そのまま逃げるようにバスルームへと消えていった。
パタン、とドアが閉まり、すぐにジャーッという熱いシャワーの音が部屋に響き渡る。
私は一人取り残された静かな部屋で、ほうっと深く、肺の底に溜まっていた息を吐き出した。
ガンガンに効いたエアコンの冷風が、濡れた服を通して容赦なく体温を奪っていく。
私は我に返り、海水をたっぷりと吸い込んだスニーカーを脱ぐと、重くなったロングベストとネイビーのシャツ、そしてデニムを次々と脱ぎ捨てた。
ハンガーをいくつか取り出し、窓際のカーテンレールに濡れた服を干していく。
「……ん?」
下着姿になったところで、私は自らの間抜けすぎる致命的な事実に気がついた。
私の着替えが入ったスーツケースは、自室である613号室に置いたままだ。
海から戻る流れでつい彼女の部屋まで一緒に来てしまったが、よく考えればここには私の着替えなど一切ない。
流石に下着まで脱いでしまうのは躊躇われ、海水を吸った不快な下着だけは我慢して身につけた。
この干した服が乾くまで、あるいは生乾きでも廊下を歩けるレベルになるまで、私は自分の部屋に帰ることすら出来ない。
私の視線の先には、壁のフックに掛けられたホテルの備え付けの分厚いバスローブがあった。
数時間前、東雲さんが身に纏い、私の理性を焼き尽くしたあの凶悪なアイテムだ。
「……お、お借りします」
私は深い溜息をつき、その真っ白で重い生地に袖を通し、腰の帯をきゅっと結んだ。
窓際のソファに深く腰を下ろす。
水の滴る音。
バスルームから聞こえる微かな水音。
部屋の中にはオレンジ色の間接照明だけが静かに灯っている。
一人になってようやく、先ほどの海での自分の発言が、恐ろしいほどの重量を持ってのしかかってきた。
「……」
頭を抱え、バスローブの膝に顔を沈める。
完全に勢いだった。
彼女の寂しそうな横顔を見たら、誤魔化すことなんて出来なかった。
私は「気持ちを伝えて駄目でも、私は一生引き摺っていく」と、己の情けなくも重い未練を完全に曝け出してしまった。
あの日、決定的な痛みを抱えて身の程を知ったはずの男が、数ヶ月越しにそんな重い感情を突きつけてしまったのだ。
彼女からすれば、とっくに終わっていたはずの相手が、未だに自分に執着しているという事実は、どれほど気味が悪く、恐ろしいことだろう。
自分が自分で嫌になる。
綺麗に諦めたフリをして、物わかりの良い友人の仮面を被っておきながら、こんな非日常の空気に当てられて、あっさりとボロを出してしまう。
やがて、ドライヤーの音が止み、ガチャリとバスルームのドアが開いた。
「お待たせ! 結城くんも早く綺麗に──」
すっかり温まってピンク色の頬をした東雲さんが、私の姿を見た瞬間、パチクリと瞬きをして言葉を止めた。
彼女はショートパンツにゆったりとした部屋着のTシャツという、いつもの可愛らしい格好に戻っていた。
「……すみません。私の着替えは部屋に置きっぱなしで。服が乾くまで、少し居座らせて下さい」
「…………」
東雲さんはしばらくの間、バスローブ姿の私をじっと見つめていた。
そして、みるみるうちに林檎のように顔を真っ赤に染め上げると、手近にあったクッションにボフッと顔を埋めてしまった。
「な、なんか……今度は逆だね。……結城くんのバスローブ姿、その……ちょっと、心臓に悪いかも……」
「……ちょっと? 心肺停止で私は殺されるかと思いましたけど」
「え……あ。……ふふふ、そうだった」
私は居心地の悪さを誤魔化すように、視線を逸らした。
沈黙が落ちる。
気まずいような、それでいて甘いような、独特の空気が二人の間に漂っていた。
「……ねえ、結城くん」
不意に、クッションから顔を半分だけ出した東雲さんが、ぽつりと私の名前を呼んだ。
海で聞いた時と同じ、静かで、透き通るような声だった。
「はい」
「さっき、海で……言ってくれたこと。覚えてる?」
私の背筋がピクリと跳ねた。
忘れるわけがない。
私の一世一代の、誰に向けているのか明白すぎる、不格好でみっともない現状報告。
「もし好きな人に振られても、嫌いになれない。……死ぬまでずっと、好きな人だ……って」
東雲さんはクッションを抱えたまま、ゆっくりとベッドから降り、私の元へと歩み寄ってきた。
そして、私が座るソファのすぐ目の前で立ち止まり、真っ直ぐに私の目を見つめ下ろした。
潤んだ瞳。
少しだけ震えている小さな唇。
彼女はもう、海で見せた小悪魔のような挑発的な色気も纏っていなかった。
ただの一人の女の子として、無防備で、真剣な顔をしていた。
彼女は、あの夜の残酷な結末を知っている。
私が誰のことを言っているのか、絶対に気づいているはずだ。
それなのに、何故そんなにも泣きそうな、すがるような瞳で私を見るのだろうか。
「……私、自惚れてもいいのかな」
「……」
「結城くんの、その……」と言葉を区切り、彼女は一度、泣き出しそうな顔で深く息を吸い込んだ。
「『十年後も二十年後も好きな人』って……」
彼女の指先が、私のバスローブの袖口を、強く掴んだ。
まるで、私に逃げられないように。
あるいは。
私に突き放されることをひどく恐れているかのように。
「……私のことだって、思っても……いいの?」
バスローブの袖をきゅっと握りしめたまま、東雲さんが上目遣いで私を覗き込んでくる。
──ずるい。
あの日、残酷なまでに明確な境界線を引いたのは彼女の方だ。
それなのに、こんな非日常の空気に当てられて、彼女は今、自分の抱えきれない不安や寂しさを、私という存在で埋めようとしている。
無自覚な残酷さ。
私にすがりつく、その細い指先。
「……他に、誰がいるんですか」
私は乾いた声で、ポツリとこぼした。
「あの夜からずっと……私の時間は止まったままです。……あの日、あなたに引かれた境界線を、私はどうやっても越えられなかった。結局、私は一生、あなたに囚われたままです」
それは、惨めで不格好な敗北宣言だった。
恋人になれなくてもいい。
都合の良い存在でも構わない。
私はこの先もずっと、あなたを好きでい続ける。
その言葉を聞いた瞬間。
「……っ」
東雲さんは短く息を呑み、そのまま一歩、私の方へ踏み出してきた。
こつん、と。
私の胸元──分厚いバスローブのタオル地に、彼女の額が押し当てられる。
「し、東雲さん……?」
「……重いよ」
胸に顔を埋めたまま、彼女は微かに震える声で言った。
握りしめられていた私の袖口が、さらに強く、きつく引き絞られる。
「結城くんの気持ち、すごく……重い」
「……すみませ──」
「でも……すごく、あったかい」
私の謝罪を遮るように、彼女は私の胸にさらに体重を預ける。
ガンガンに冷房が効いた部屋の中で、そこだけが異常なほどの熱を持っていた。
「……ごめんね、結城くん。私、ずるいね」
懺悔のようにも、甘えのようにも聞こえる声。
自分の残酷さに気づきながら、それでも私の重い感情を手放そうとしない。
私は、ゆっくりと息を吐き出した。
一度終わっている私が、自分から手を出してはいけない。
その鉄の掟が、音を立てて崩れていく。
私は、震えそうになる両腕をゆっくりと持ち上げた。
「一回だけ……抱き締めてみても、良いですか?」
「……」
言葉で返事はなかった。
私は胸にすがりつく彼女の小さな背中へ手を回し、そっと、抱きしめてみた。
私の腕の中で、東雲さんの肩がビクッと跳ねた。
けれど、彼女が私を突き飛ばすことはなかった。
それどころか、私の背中にそっと腕を回し、しがみつくように力を込めてくる。
窓際では、ハンガーに吊るされた私の服が、エアコンの風に揺れている。
時折、ポタッと水滴が落ちる音がする。
あの服が乾くまで、私はこの部屋から出られない。
乾いたとしても、もう私は彼女から離れられないだろう。
「……少しだけ。……少しだけこのままで、いい?」
「……はい」
私たちは、恋人同士ではない。
『付き合う』という明確な言葉は、どちらの口からも出ない。
けれど、シャンプーの甘い香りと微かな潮の匂いが混ざり合うこの密室で、私たちはお互いの体温に縋り付くように、ただ静かに抱きしめ合っていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




