第71話 死ぬまでずっと『私の好きな人』
無料のシャトルバスがホテルの車寄せに到着するなり、東雲さんは「部屋に荷物を置いたら、ビーチに集合ね!」と一方的な宣告を残し、小走りでエレベーターへと消えていった。
押し切られる形で、私はホテルの正面に広がるプライベートビーチへと足を運んだ。
そこには昼間の喧騒が嘘のように静まり返った、夕暮れの海が広がっていた。
頭上の空はまだ抜けるような青さを保っているものの、水平線の彼方、空と海の境界線はすでに溶け出したような濃密なオレンジ色に染まり始めている。
波打ち際に立つと、海を渡ってくる風が、ハワイのむせ返るような熱気を心地よい涼しさへと変えていた。
ザザーッと寄せては返す波の音だけが響く。
私は一人、波打ち際のギリギリを歩いていた。
波が足元まで迫ってくるたびに、慌てて数歩後ずさりをする。
履き慣れたスニーカーを、ハワイの海水と砂まみれにするわけにはいかない。
幸いビーチの隅の方は人気が少なく、波は来るものの、家族連れやサーファーの姿はなく、東雲さんと二人きりの時間は十分に作れそうだった。
「結城くん、お待たせ……っ!」
ふいに背後から声がして振り返ると、そこには自分の身体の半分ほどもありそうな、カラフルな浮き輪を抱えた東雲さんが立っていた。
「……これから泳ぐんですか? さっきまであんなに歩き回っていたのに、随分と体力がありますね」
「やっぱハワイに来たからには、一回くらい海には入らなきゃ!」
彼女は満面の笑みでそう言うなり、砂浜にビーチサンダルを脱ぎ捨て、着ていたコーラルピンクのワンピースの裾を掴み、迷うことなくバサリと脱ぎ捨てた。
「っ……」
私は思わず息を呑み、反射的に視線を逸らしかけた。
ワンピースの下に隠されていたのは、眩しいほどに白い生地に、控えめなフリルがあしらわれた可愛らしい水着だった。
そう。
あれは水着だ。
頭では理解しているのだ。
なのに、滑らかな肌を覆う布の少なさと、何よりその清潔感のある白いフリルのデザインが、つい数時間前に714号室のベッドの上で見てしまった光景と完全にリンクしてしまい、私の脳内でどうしても処理しきれない。
夕陽を浴びてほんのりと琥珀色に染まる肌の輪郭に、私の心拍数が一気に跳ね上がる。
「わぁっ、冷たくて気持ちいい!」
私の密かな動揺などお構いなしに、東雲さんは浮き輪を抱えたまま、歓声を上げて海へと駆け出していった。
オレンジ色を反射し始めた水面を割って進む彼女の姿は、とても美しく絵になっていた。
私は放り投げられたワンピースを拾い、手元でくるくると折り畳む。
しばらくバシャンバシャンと波と戯れていた彼女だったが、やがてくるりとこちらを振り返り、浮き輪の向こう側から私に大きく手を振った。
「結城くんも入ろうよ! すっごく気持ちいいよ!」
「遠慮しておきます! 私は水着を持ってきていないので」
私が安全な砂浜から大声で断ると、彼女の伸ばしていた手がピタリと止まった。
少しだけ唇を尖らせ、波を掻き分けながらゆっくりとこちらへ戻ってくる。
彼女は濡れた身体のまま、波打ち際にぽつんと体育座りで座り込んだ。
寄せては返す波が、定期的に彼女の白い太ももを濡らしていく。
チャパチャパと足先で水飛沫を揺らすその横顔は、なんだか酷くつまらなそうで、酷く寂しげなものだった。
私はスニーカーが濡れないギリギリの距離を保ちながら、彼女の斜め後ろに立ち、沈みゆく夕日をただ黙って眺めることしか出来なかった。
「……ねえ、結城くん」
波の音に溶けて消えてしまいそうな、静かな声だった。
「結城くんってさ、もし……本当に好きな人が出来たら、どうするの?」
…………………………本当にって、何だよ。
私は突然突き刺された言葉のナイフを抜くことも出来ず、ただ歯を食いしばり耐えながら、それを悟られないように笑顔で答えるしか選択肢がない。
だって実際それしか言えなかったのだから。
後から言えたことには出来ない。
「……どうする、とは?」
「自分から誘ったり、相手を振り向かせようと頑張ったりするのかなって」
私は突然の恋愛トークに戸惑った。
ただ……これは言っておかなきゃいけないことだと思った。
もう、届かないかもしれないけれど、言わなきゃいけない。
「……するでしょうね。何もしなかったら、好きだってことにも気付いてもらえません。でも……気持ちを伝えて駄目だったら……友達として傍に居ることも辛くて……辛くて。多分、それでも嫌いになれなくて……一生引き摺っていくでしょうね」
私は波打ち際を見つめながら、絞り出すように言葉を紡いだ。
「その人との楽しい思い出が無くなるわけじゃないですし、振られたからと言って、私はその人を嫌いにはなれないと思います。……その人はきっと十年後でも二十年後でも、死ぬまでずっと『私の好きな人』です」
東雲さんは膝に顔を埋めたまま、ぽつりと、微かに震える声でこぼした。
「……そっか。私は、結城くんの思い出に、ちゃんと残れたかな」
その言葉が、私の胸の奥深くに鋭く突き刺さった。
彼女を見下ろす。
体育座りをした小さな背中。濡れた髪。
彼女の寂しそうな横顔を見た瞬間、私の中に張り巡らされていた何かが、音を立てて砕け散った。
悔しいのか、嬉しいのか、もう分からない。
ただただ、涙が止まらなかった。
「え……結城くん?」
私の不意の行動に顔を上げた彼女の返事を待つことなく、私は一歩、海へと足を踏み入れた。
スニーカーの中に冷たい海水が染み込んでくるが、もうどうでもいい。
私は彼女の隣にしゃがみ込むと、彼女の背中と膝裏に腕を差し込んだ。
「きゃっ?!」
そのまま力を込め、東雲さんの身体をふわりと抱き上げる。
いわゆる、お姫様抱っこの体勢だ。
「ちょ、結城くん?! なに、何してるの?!」
突然宙に浮いた身体に驚き、彼女は私の首にしがみつきながら、パニックになったように声を上げた。
至近距離で重なる視線。
彼女の瞳には、驚きと、そして微かな期待が揺れていた。
「思い出作りですよ……!」
私は彼女を胸に抱いたまま、一切の躊躇なく、夕暮れの海へと駆け出した。
「ん、ちょっ……! わぁっ!」
ザバッ! ザバッ! ザバッ! とスニーカーが海水を乱暴に蹴り上げる。デニムのズボンが重く水を吸い込み、足にまとわりつく。
それでも構わずに波を掻き分け。
腰の深さまで到達したところで。
私は彼女と一緒に。
オレンジ色に燃える海面へと思いっ切り。
派手に水を散らしながら。
ダイブした。
盛大な水飛沫が上がり、二人の姿が波間に消える。
一瞬の無重力。
そして、生温かい海水が全身をすっぽりと包み込んだ。
足の着く浅瀬で海面から顔を出し、髪の毛の水を滴らせながら大きく息を吐くと、目の前で、同じようにずぶ濡れになった東雲さんがガバッと勢いよく立ち上がった。
彼女は一瞬、何が起きたのか分からないというように目を丸くしていたが、やがて、心底嬉しそうに、そして胸のつかえがすべて取れたような晴れやかな顔で笑い出した。
それは私も同じだった。
涙は海水で誤魔化せていると思った。
「……あははっ! 結城くん、バカじゃないの! 全部濡れちゃったよ!」
「これで! 私にとっては! 忘れられない思い出になりましたから!」
「……うん」
ハワイの夕風が、濡れた顔を心地よく撫でていく。
だが──その直後だった。
ふと、目の前の彼女の胸元に視線を落とした瞬間。
私の全身の血の気が、一瞬にして凍りついた。
激しくダイブした際の衝撃か、それとも水圧のせいか。
浅瀬で立ち上がった彼女の身体は、丁度おへそから上の上半身がすっかり水面から露出している状態だった。
そして、そこにあるはずの白いフリルの水着は、背中のホックだけでなく首の後ろの結び目までもが完全にほどけ、彼女の身体からするりと離れ落ちてしまっていた。
つまり──。
本来なら厳重に隠されているはずの、彼女の無防備で柔らかな胸元が、夕暮れの空気の中に、今一切の遮るものなく曝け出されている。
夕陽のオレンジ色を乱反射する滴を纏ったその滑らかな肌を、私は真正面から直視してしまう。
「……っ!!!」
視界の端、すぐ隣の波間にプカプカと白い布切れが漂っているのを見つけ、狂ったような手つきで慌ててそれを掴み取った。
「あ、あのっ! し、東雲さん……! こ、これ……!!」
私は顔から火が出るほど赤面し、明後日の方向を向きながら、拾い上げた濡れた水着を震える手で彼女へと差し出した。
「……あ」
自分の胸元が完全に露わになっていることに気づいた東雲さんは、小さく声を漏らした。
普通なら、ここで鼓膜を破るような悲鳴が上がり、平手打ちの一つや二つ飛んできてもおかしくない。
私は目をギュッと瞑り、来るべき制裁に身を硬くした。
しかし。
彼女は悲鳴を上げることも、慌てふためいて身を隠すこともなかった。
ゆっくりと目を開けると、チャプ……と静かな音がして、彼女はどこか余裕すら感じさせる魅惑的な動作で、肩まで波間に沈み込んだ。
前髪で表情は見えなかったが、まるで温泉にでも浸かるような動きで、水面下に身体を隠しながら、私の震える手からそっと水着を受け取った。
「あ、あの……」
海面の下で、私の目の前で、モゾモゾと水着を結び直す。
永遠にも似た数秒。
……私はこれを眺めていて良いのだろうか。
……きっと良くない。
でも私は東雲さんが何も言わないから…………ただ……ただ眺めることしか出来なかった。
「ありがと……」
少しだけ熱を帯びた、甘い声だった。
その声に恐る恐る視線を戻すと、東雲さんは夕日を背に受けて、水面から顔だけを出していた。
濡れた長い髪が、細いうなじや鎖骨に色っぽく張り付いている。
彼女は顔を赤く染めながらも、私の狼狽ぶりをからかうように、そして少しだけ挑発するように、悪戯っぽく目を細めた。
「……サービス、し過ぎちゃった」
それは、昼間の無邪気な彼女からは想像もつかないほど、艶やかで、大人びた表情だった。
燃えるような夕暮れのオレンジ色の光が、濡れた彼女の頬と、妖艶な弧を描く唇を照らし出している。
強がりと恥じらい、そして私だけに向ける特別な熱が混ざり合った、今日一番の、どうしようもなく美しくて可愛いその表情。
夕暮れの海はすべてを琥珀色に染め上げていたのに。彼女の濡れた瞳の奥に宿る熱だけは、私の理性を焼き尽くすほど、鮮やかで危険な色彩を放っていた。
ザザーッ、と波の音が響く中、私は何も言い返すことが出来ず、ただ呆然と、早鐘のように打ち鳴らされる自分の心臓の音だけを、いつまでも、いつまでも聞き続けていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




