第70話 クソ雑魚なの?
大理石が敷き詰められた広大なショッピングモールは、外の喧騒と熱気が嘘のように涼やかだった。
吹き抜けの天井から降り注ぐ柔らかな光と、微かに香る高級ブランドの香水、そして冷房のひんやりとした空気が、火照った肌の熱をゆっくりと奪っていく。
入ってすぐ東雲さんが見つけたのは、洗練されたハワイアンジュエリーの専門店だった。
白を基調としたシックな外観の店内で、間接照明に照らされた重厚なガラスケースが静かに光を放っている。
「私、ちょっと中を見てくるね」
吸い寄せられるように店内へ入っていく彼女を見送り、私は少し離れた通路の壁際に寄りかかった。
静寂と高級感に包まれた空間は、私のような人種にはどうにも居心地が悪い。
ピカピカに磨き上げられた床に映る自分の革靴を見つめながら、私は彼女が戻ってくるのを静かに待った。
二人で買い物というと、あの買い出しの日に彼女が選んでくれた、コーラルピンクのワンピースの光景をどうしても思い出す。
楽しかった思い出の一つになってしまっていて、多分私はこれから宝石店を見る度に、一生あの日の彼女の笑顔を思い出すのだろう。
十分ほど経った頃、ふわりと、あの清潔なシャンプーの香りが近づいてきた。
「結城くん、ごめんね。待たせちゃった?」
「いえ。何か、気に入ったものはありましたか?」
「うん、可愛いのがいくつかあって迷っちゃって……」
彼女は自分の頬に軽く手を当てると、バツが悪そうに上目遣いで私を見た。
「でもその前に……あの……ちょっと……お手洗いに行きたくて」
「あぁ、なるほど。案内板によれば、このフロアの突き当たりにありましたよ。いってらっしゃい」
私が手をひらひらと振って見送ろうとすると、彼女はむうっと唇を尖らせて私の袖を軽く引っ張った。
「海外を女の子一人で歩かせるの? 襲われちゃうよ?」
「……この静かで安全そうなデパートの中でですか?」
「さっきみたいな変な人にまた捕まっちゃうかもしれないよ?」
彼女は先ほどの路面店での一件を盾にして、少しだけ強引に迫ってくる。
……路地裏をあんなスピードで駆け抜けられる人が、そう簡単に襲われるとは思えないが。
袖を掴むその指先から伝わってくる、甘えるような無防備さを無下にできるほど、私はもう『ただのクラスメイト』に徹しきれなくなっていた。
「……分かりました」
「よしよし」
彼女は安堵したようにふわりと笑うと、私の隣を歩き出した。
さっき一緒に走っただけなのに、二人の間にある見えない壁は、確実に一段階低くなっている。
目的の化粧室は、メインの通路から少し奥まった薄暗い廊下の先にあった。
通路の突き当たりで男女の入り口が左右に分かれている構造だ。
私はその手前、通路の入り口付近の壁に背中を預けて立ち止まった。
「すぐ戻るからね」と小走りで奥へ向かう彼女の背中を見送る。
静まり返った通路で待機していると、不意に重々しい足音が近づいてきて、一人の大柄な現地の男性が私の横でピタリと立ち止まった。
彼は真っ直ぐ通路の奥を見つめ、どこか手持ち無沙汰に身体を揺らしている。
どうやら、通路の奥にある男子トイレが酷く混雑していて、ここ(通路の入り口)まで行列が溢れ出ているのだと勘違いしたらしい。
彼はふと私を振り返り、英語で話しかけてきた。
どうやら『この列はここで合っているのか? お前も並んでいるのか?』と確認しているようだった。
……先に言っておくが、私はそんなに英語は得意ではない。
「Uh …… I'm waiting! for …… for my …… my girlfriend!」
(私は女友達を待っています)
自分でも驚くほど拙い発音だった。
ただ単に『自分は並んでいるわけではない』と弁解したかっただけなのに。
続く言葉を用意しないまま、見切り発車で口走ってしまい、その直後に訪れた空白を埋めようとする焦りが、致命的な単語選びを引き起こしてしまった。
男性は一瞬きょとんとした後、私の顔と女子トイレのドアを交互に見やり、それから私の肩をバシンと力強く叩いて、満面の笑みを浮かべた。
「Oh! I see, I see! You are a lucky guy, man ! Take care of her, alright?」
彼は何かを流暢に言った後、アメリカ映画のような見事なオーバーリアクションで私に「Respect!」と親指を立て、そのまま誰も並んでいない突き当たりの男子トイレへと意気揚々と吸い込まれていった。
ふぅ、と深く息を吐き出し、私は冷たい大理石の壁に後頭部を預けた。
多分状況は上手く伝わったのだろう。
しかし……いくら焦って頭が真っ白になったとはいえ、咄嗟の言い訳として引きずり出した英単語が『ガールフレンド』だなんて。
「フレンド」でも「クラスメイト」でも、他にいくらでも適切な単語はあったはずだ。
それなのに、あの瞬間に一番都合のいい言葉として、その単語を選んでしまった自分の浅ましさ。
それは間違いなく、私が心の奥底で未だに捨てきれていない未練の証明だった。
恥ずかしいという感情すら湧かず、ただひたすらに自分の弱さと諦めの悪さに呆れ果ててしまう。
その時、カツカツという軽い足音と共に、東雲さんが戻ってきた。
彼女は壁際でぐったりと首をうなだれている私を見て、不思議そうにパチパチと瞬きをした。
「……結城くん? どうしたの、凄く疲れた顔してるよ。何かあった?」
「……いえ、何でもありません。ただ自分のクソ雑魚具合に心底絶望していたところです」
「結城くん、クソ雑魚なの?」
「そうかもですけど……東雲さんが口に出すのはやめて下さい」
喉の奥にへばりついた『彼女』という言葉の残骸を飲み込みながら、私は自嘲気味に息を吐いた。
東雲さんは「えっ?」と腑に落ちない様子で私を見つめ、心配そうに顔を近づけてこようとしたが、私はその真っ直ぐな瞳を直視することができず「さ、次に行きましょう」と逃げるように早足でその場を歩き出した。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




