第69話 ベッドの上より近い距離で
パンケーキの甘い余韻を腹に抱え、私たちは大通りを西に向かって歩いていた。
目的地は、通りを少し進んだ先にある巨大な高級ショッピングセンターだ。
日本でいう所のデパートのような場所で、有名ブランドからハワイ固有のアイテムまで何でも揃うらしい。
アスファルトからの照り返しで揺れる陽炎の中。
通り沿いには路面店が隙間なく軒を連ね、店先までズラリと色鮮やかな商品が並べられていた。
「わぁ、こっちのお店も可愛いね」
東雲さんが不意に足を止めたのは、少し薄暗い、奥行きのある雑貨屋だった。
店先には極彩色の幾何学模様が編み込まれた絨毯が吊るされ、木彫りの置物や、貝殻をあしらった小物が所狭しと並んでいる。
スパイシーなお香の匂いが、ハワイの潮風に混じっていた。
「こういうの、部屋に一つあるだけで一気に南国っぽくなりそうだよね」
東雲さんは、ターコイズブルーの石が埋め込まれた小さな小物入れを手に取り、嬉しそうに目を細めた。
「確かに。ただ、その絨毯なんかを買って帰るとなると、スーツケースの大半を占領しそうですが」
「ふふっ、流石に絨毯は買わないよ。でも、見てるだけでも楽しいよ」
そんな風に、二人で商品の細工や色使いについて呑気に話していた、その時だった。
「オー! カワイイね! オニイサン、カノジョに買ッテアゲル?」
店の奥から、強いココナッツの香水の匂いと共に、一人の女性店員が現れた。
日焼けした肌に、ハワイ特有のチューブトップのような、胸元とへそが大胆に露出した服を纏っている。
彼女はカタコトの日本語を滑らかに操りながら、ずいっと私たちのパーソナルスペースへと入り込んできた。
「コレ、手作リネ。スゴク人気! アナタ、肌白イカラ、こっちの青イ石、トテモ似合ウヨ!」
ジャラジャラと腕輪を鳴らしながら、店員は東雲さんの手から小物入れを取るなり、別のネックレスを彼女の首元に当てて、やたらと馴れ馴れしい手つきで肩や腕に触れた。
「あ、えっと……」
突然の距離感の近さと、むせ返るような香水の匂いに、東雲さんは明らかに顔を引きつらせていた。
さり気なく私の方を向き、SOSを求めるように目配せをしてくる。
私は彼女の意図を察知し、密かに頷いた。
ネットの世界で培った(と勝手に思い込んでいる)私の対人スキルは、相手の土俵に上がらず、のらりくらりと躱すことにおいて右に出る者はいないのだ。
「あー、確かに綺麗ですね。でも、まだハワイに着いたばかりで、初日から荷物を増やしたくないんですよ」
私が淡々と作り笑いを浮かべて答えると、店員は怯むどころかさらに食い下がってきた。
「オニイサン、ケチね! カノジョ、コンナニ可愛イノニ! じゃあコッチ! コレなら小サイヨ! ディスカウント、スルヨ!」
「いやいや、そういう問題ではなくて。まだ他のお店も見て回りたいので、また後で寄らせてもらいますよ」
私は相手の勢いに一切飲まれることなく、嫌味にならない程度の適当な相槌を打ちながら、次々と繰り出されるセールストークを受け流し続けた。
我ながら完璧なディフェンスだ。これなら角を立てずにスマートに店を出られるだろう。
「あ、あの! 結城くんっ!」
不意に、東雲さんが少しだけ焦ったような、上擦った声を上げた。
「そろそろ……ほ、ホテルに戻る時間じゃない……?」
「……へ?」
私は不思議に思って首を傾げた。
時刻はまだお昼を過ぎたばかりだ。今日は夕食の予定も決めていないし、そもそもこれから高級デパートへ向かう途中である。
「そうでしたっけ? 私はまだ大丈夫ですよ? 日も高いですし」
私が一切の悪気なく、寧ろ『どうです、完璧なアシストでしょう?』くらいのドヤ顔で、純粋な事実を口にした瞬間。
東雲さんの眉が、ピクリと不自然に跳ねた。
「っ……もう! 戻るの!!」
「えっ、ちょ……」
ガシッ、と。
東雲さんが勇気を振り絞るように、私の左手を右手で力強く掴んだ。
──それは、密室でのあの危うい接触とは全く違う。
体温と生命力に満ちた、有無を言わさぬ温かさだった。
彼女は「ソーリー! サンキュー!」と店員に向かって早口で叫ぶなり、呆然とする私の身体を引っ張って、店の前を強引に歩き出したのだ。
「え、東雲さん? ちょ、ちょっと! 引っ張らないで下さい、転びますって!」
「いいから! 早く!」
彼女は振り返ることなく、私の腕を引いたまま、人通りの多い大通りを早歩きで進んでいく。
繋がれた手から、彼女の焦りと、じんわりとした汗の熱が伝わってくる。
店からある程度離れた所で、東雲さんはパッと私の手を離し、今度は一目散に走り出した。
「えっ?! 走るんですか?!」
「早く!」
「いや、だからなんで逃げてるんですか?! 別に普通に断れば……!」
私が後ろから問いかけると、東雲さんは走りながら、半ば叫ぶように振り返った。
「普通に断れないから逃げてるんでしょ! あの店員さん、距離近すぎだし、香水の匂いキツいし、ボディタッチ激しいし……っ、もう無理って思って目配せしたのに!」
「えっ、あの『ホテルに戻る時間』って……」
「嘘に決まってるでしょ!」
熱気を帯びたアスファルトの上を、デニムのショートパンツが軽やかに駆けていく。私は慌てて革靴の音を響かせながら、彼女の背中を追いかけた。
走りながら叫ばれた言葉で、ようやく私は自分の致命的な勘違いに気が付いた。
それに気付かず、私は呑気に「まだまだ大丈夫」などと、スマートに助けているつもりで彼女の逃げ道を自ら塞いでしまっていたのだ。
ヤシの木の影を幾つも通り過ぎ、先ほどの店が見えなくなる路地の角まで駆け込んだ所で、私たちはようやく足を止めた。
「……っ、はぁ……っ」
「はぁ……はぁ……っ」
日陰の壁に背中を預け、二人して肩を上下に揺らして息を整える。ハワイの生ぬるい風が、汗ばんだ首筋を撫でていった。
少し呼吸が落ち着いてきた頃、東雲さんが顔を上げ、私をキッと睨みつけた。
しかし、その瞳の奥には怒りよりも、どこか可笑しさを堪えきれないような光が宿っていた。
「もっと早く気付いてよ!」
彼女は珍しく声を張り上げ、楽しそうに怒鳴った。
「私、あんなに何度もSOS出したのに! なんで結城くん、あそこで世間話みたいなの始めちゃうの?!」
「あんな言い方じゃ分からねーよっ!」
東雲さんの勢いに押され、私は思わず、普段の『です・ます調』の壁を忘れて言い返してしまった。
「『ホテルに戻る時間』って言われたら、スケジュール勘違いしてるのかなって思うだろ普通!」
「思わないよ! ドラマとかでも定番の逃げ口上でしょ?!」
「俺はドラマの主人公じゃねーから!」
言い合いをしているうちに、私は自分が、彼女に対して完全にタメ口で、まるで同い年の悪友に言い返すような口調になっている事に気がついた。
ハッとして言葉を切ると、東雲さんも同じ事に気がついたのか、パチパチと何度か瞬きをして、それから。
「……あははははっ!」
お腹を抱えて、路地裏に明るい笑い声を響かせた。
つられて、私も小さく吹き出してしまう。
「……すみません。口が滑りました」
「ううん、今のままでいいよ。なんだか、やっと結城くんの本当の声が聞けた気がする」
目尻の涙を拭いながら、東雲さんは嬉しそうに微笑んだ。
その言葉が、熱を持ったハワイの空気と一緒に胸の奥にすっと落ちてくる。
ああ、そうか。
私たちは今、間違いなく、今までで一番近い距離にいる。
あの堅苦しい敬語の境界線を越えて、ただの人間として、真正面から向き合っている。
………………何なら、ベッドの上より近い距離で。
その事実が、私の心臓をじんわりとした熱で満たしていった。
「……高級デパートでしたっけ」
私はわざとらしく咳払いをして、ズレたロングベストの襟を直し、ショルダーバッグから東雲さんが赤丸を付けたハワイのパンフレットを取り出した。
「……あの店の前は、もう通りたくないですね」
「うん。絶対捕まる」
私たちは顔を見合わせて笑い合い、地図上で安全な回り道を確認すると、再び目的地を目指して、並んで歩き始めた。
影が少しずつ長くなり始める歩道で、二人の歩幅は、先ほどよりもずっと自然に揃っていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




