第68話 ミックスフルーツのパンケーキ
重厚なドアがカチャリと閉まり、オートロックの冷たい金属音が廊下に響いた。
714号室を後にした私たちは、二人でエレベーターホールまで歩く。
さっきまでの密室での出来事──あと数ミリで『ただのクラスメイト』という境界線を見失いそうになったあのヒリヒリとした熱を、私は冷房の効いた空気を深く吸い込むことで、どうにか肺の奥へと押し込めた。
エレベーターホールで立ち止まった東雲さんが、深く被った麦わら帽子のつばを指先で押し上げ、ふわりと振り返る。
「パンケーキのお店、ここから歩いて十分くらいだっけ?」
「十分ならすぐですね。……ただ、外は容赦ない陽射しですから、油断すると火傷したみたいに日焼けしますよ」
「ちゃんと日焼け止め塗ってきたし、平気平気!」
到着したエレベーターに乗り込む。
密閉された箱の中に、彼女の纏う湯上がりのシャンプーの香りが微かに広がる。
正面の鏡に映る二人の姿。
ネイビーのシャツにロングベストを羽織った私と、少し大きめのワイシャツとデニムのショートパンツに麦わら帽子を合わせた彼女。
密室に二人きりという状況はさっきの部屋と同じはずなのに、今の彼女の横顔には、あの危うい無防備さはなく、ハワイの街歩きに胸を弾ませる年相応の無邪気さだけが浮かんでいた。
その事実に私はホッと安堵しつつも、自分の手のひらに残る熱のやり場に、少しだけ困っていた。
一階のロビーへ降り立ち、エントランスから外へ踏み出した瞬間。
むあっとした熱帯の湿気と、眩暈がするほど強烈な光の壁が、私たちの全身を包み込んだ。
「わぁ……! やっぱり外は暑いね!」
アスファルトが白く霞むほどの陽射しの中、東雲さんは目を細めて大通りを見渡した。
ハワイの圧倒的な色彩の中にあっても、彼女の存在感は少しも霞まない。
むしろ、風をはらんで揺れる薄手のワイシャツの生地や、陽光を弾く髪の毛の艶が、この非日常の景色に驚くほど自然に溶け込んでいた。
「結城くん、早く早く! お腹空いた!」
数歩先から、楽しげに手招きをする彼女。
照り返す熱気に目を細めながら、私は小さく息を吐き、彼女の隣へと歩調を合わせた。
***
東雲さんがパンフレットに丁寧な赤丸を付けていたのは、大通りから少し小道に入った、小洒落たテラス席のある有名店だった。
お昼のピーク前に来れたおかげで、私たちはすぐに、大きなパラソルの日陰が落ちる壁際のテーブル席へと案内された。
腰を下ろすと、東雲さんは「ふぅ」と息を吐いて麦わら帽子を脱ぎ、隣の空き椅子へと置いた。
帽子に押さえつけられていた髪が、南国の海風を受けてサラリと解き放たれる。
彼女の細いうなじには微かに汗が滲み、火照った頬の赤みと相まって、とても人間らしい、生き生きとした体温を感じさせた。
彼女は手際よく店員さんを呼び『完熟マンゴーとミックスフルーツのパンケーキ』を注文した。
私はアイスコーヒーを頼み、テーブルの端に置かれた冷たい水のグラスを手に取る。
氷がカラン、と涼しげな音を立てた。
──ふと視線を下げれば、テーブルの下では彼女のデニムの裾から伸びるストッキング越しの脚が、所在なさげに小さく揺れている。
私は慌ててグラスの水をあおり、冷たさで思考を強制冷却した。
「結城くん、今さらなんだけどパンケーキで良かった? ガッツリしたものの方が良かったんじゃない?」
「いえ。昨日の夜、裕介さんたちと冗談みたいに巨大なハンバーガーを食べたので、むしろ甘いものの方がありがたいです」
東雲さんは少しだけホッとしたように目を細めた。
「そっか。……結城くん。今日は一緒に来てくれて……ありがと」
グラスの水滴を指先でなぞりながら、彼女は少しだけ声のトーンを落として微笑んだ。
「本当は部屋でずっとゴロゴロしてるつもりだったんでしょ? 私がわがまま言って、連れ出しちゃったから」
「……無理やり引きずり出されたわけじゃないです。私が会いたくて会いに行ったんですから」
仮面の裏側にあるグロテスクな自己嫌悪を隠すように。
私がわざと余裕のあるトーンでそう告げると、東雲さんはパチクリと瞬きをし、それから照れ隠しのように耳の先を赤くして視線を泳がせた。
「そ、そうだね。……じゃあ今日は一日、エスコートもお願いしちゃおうかな」
「東雲さんの方が下調べバッチリって感じですけど」
私が冗談めかして言うと、東雲さんは「ふふっ」と花が咲くように笑った。
「お待たせいたしました!」
絶妙なタイミングで、店員さんが巨大な白い大皿をテーブルの中央へと置いた。
そこに鎮座していたのは、日本のサイズ感を遥かに凌駕する、暴力的なまでのボリュームのパンケーキだった。
ふかふかの生地が三枚重ねられたその上には、これでもかと敷き詰められた黄金色の完熟マンゴー。
そして中央には、大人の拳を二つ重ねたような、天突く高さのホイップクリームの塔。
「すごい! 結城くん、見て! 写真よりずっと大きいよ!」
東雲さんは子供のように目をキラキラと輝かせ、早速フォークとナイフを両手に構えた。
「一人じゃ絶対食べきれないから、結城くんも手伝ってね!」
「ホイップクリームの山は東雲さんの担当ですよ?」
彼女はパンケーキを切り分け、クリームとマンゴーをフォークに絡めると、幸せそうに口に運んだ。
「んーっ! 美味しい! 結城くんも食べてみて!」
パラソルの隙間から差し込むハワイの強い陽射しが、彼女の楽しそうな笑顔をキラキラと照らし出している。
ネットの世界でどんなにクールな自分を演じようとも、現実の私はこうして、彼女の圧倒的な眩しさに焦がれ、その引力に心地良く引っ張られている。
私はアイスコーヒーのストローに口をつけながら、目の前で無邪気に笑う彼女の姿を、ただ静かに見つめていた。
ハワイの爽やかな海風が、私たちのテーブルを優しく吹き抜けていく。
胸の奥に仕舞い込んだ熱の存在を、今はほんの少しだけ忘れても良いような、そんな穏やかで特別な時間が、常夏の島でゆっくりと過ぎていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




