第67話 恋愛ごっこ
突拍子もない私の提案に、隣でワイシャツ姿のまま呆然としていた東雲さんは、きょとんとした顔で私を見下ろしていた。
数秒の、奇妙な沈黙。
やがて、彼女はギュッとシャツの胸元を握りしめたまま、少しだけ潤んだ瞳を揺らした。
「……えっと……私、何か……変、だった……?」
消え入りそうな声。
「パンケーキの方が……良かった……?」
完全に自信を失い、不安げに上目遣いで私を覗き込む彼女。
私は、今まさに結界を破り、部屋の中から現れた『化け物』を、一刀両断する魔法使いのように。
そして『恋愛ごっこ』に似合うよう、精一杯カッコつけて呟いた。
「そんな無防備な顔で誘われたら、パンケーキどころか、今日一日部屋から一歩も出られなくなっちゃいますよ」
「っ……?!」
その瞬間、東雲さんはカァッと首の先まで茹だるように真っ赤に染め上げた。
パニックになり、シーツをぎゅっと握りしめて目を白黒させる東雲さん。
肉体的な無防備さには鈍いくせに、こうして少し精神的に踏み込まれると、途端に防御力がゼロになる。
その面白くて可愛らしい反応に、私は小さく笑った。
「……冗談ですよ。お腹が空いたのは本当ですから」
「……っ、ばかぁ……!」
私が身体を離してふっと笑いかけると、東雲さんは手近にあったクッションを私の顔にバフッと押し付けてきた。
ふんわりとした綿の匂いで、視界が暗転する。
──その瞬間。
私の胃の奥底から、ドロリとした強烈な自己嫌悪と、吐き気のような気持ち悪さが込み上げてきた。
本当は、あの夏の夜のトラウマに怯え、最後の一歩を踏み出す勇気がなかっただけのくせに。
彼女の健気な覚悟を弄んだ挙句、こんな安い『恋愛ごっこ』の台詞で逃げ道を塞ぎ、己の臆病さを取り繕っている。
その事実がどうしようもなくグロテスクで、情けなくて、たまらなく吐き気がした。
けれど、ここで私が顔を歪めてしまえば、きっと彼女を深く傷つけることになる。
私は必死に、込み上げるその不快感を奥歯で噛み殺し、顔の筋肉を総動員して、余裕のある『いつもの結城くん』の仮面を顔面に貼り付けた。
……きっと。
次に閉じ込められるのは『化け物』ではなく。
──私自身だ。
私は一生この日から抜け出せない。
私は一生この部屋から抜け出せない。
黒く重い足枷がまた一つ。
足元に見えた気がした。
しばらくクッション越しに私をポカポカと叩いてジタバタしていた東雲さんだったが、やがて顔を上げると、まだ赤い頬のまま、不満げに唇を尖らせた。
「……もう。結城くんの意地悪。……パンケーキ、いっぱい奢ってもらうからね」
「……はいはい。喜んで」
目尻にまだ涙を滲ませたまま、東雲さんはベッドからふわりと降りた。
「パンケーキ食べに行く前に、ちょっと作戦会議しよ! 美味しそうなお店、いくつかチェックしてあるんだ」
彼女はスーツケースから観光用のパンフレットを取り出すと、窓際の小さなガラステーブルに広げた。
私もソファから身を起こし、テーブルを挟んで彼女の向かいに座る。
テーブルに身を乗り出してパンフレットを覗き込む彼女は、依然として極めて無防備な格好だ。
動くたびにシャツの隙間から魅惑的な身体が覗き、テーブルの下ではナイロンに包まれた艶やかな脚が交差している。
私は努めて視線をパンフレットの紙面にだけ集中し、彼女が指差すページに目を落とした。
「ほら、ここ。マカダミアナッツソースが有名なお店と、こっちのフルーツ山盛りのところ。どっちがいいかな?」
「……へえ。随分と細かく調べてあるんですね」
私は感心してパンフレットを見つめた。
そこには、パンケーキ屋だけでなく、シュノーケリングのツアーや絶景スポットなど、あちこちに几帳面な赤丸が付けられ、移動にかかる時間まで細かくメモが書き込まれていた。
これだけびっしりと書き込まれているなら、相当念入りにハワイの計画を練っていたのだろう。
しかし、だからこそ疑問が湧いた。
「……これだけ調べてあるのに、東雲さんは今日、何もアクティビティの予約を取らなかったんですか?」
「えっ?」
「だってマリンスポーツも観光ツアーも、当日いきなりじゃ入れないところも多いはずです。……東雲さんは今日一日、どうするつもりだったんです?」
私が純粋な疑問としてそう尋ねた瞬間。
東雲さんの動きが、ピタリと止まった。
「あ、えと……それは……」
先ほど私の意地悪な言葉で赤面したばかりの彼女の顔が再び、沸騰したように真っ赤に染まっていく。
彼女は慌ててパンフレットを手で隠すように覆いかぶさり、泳ぐ視線をあちこちに彷徨わせた。
「と、特に意味はないよ?! ただ、その……予約とかしちゃうと、時間に縛られちゃうかなって……! ほら、誰かさんと一緒に『のんびり』……出来るかもしれないし……」
「……」
照れ隠しのように言葉を濁し、赤面して俯く東雲さん。
その反応を見て、私は内心ひどく困惑していた。
先ほどベッドの上で押し倒され、あと数ミリで一線を越えそうになった時は、恥じらうどころか私に対して余裕のある艶っぽい声まで出していたというのに。
折角のハワイ旅行に予定の一つも入れないなんて。
それとも……まさか、本当に、一日中『のんびり』するつもりだったのでは……と激しい後悔が押し寄せる。
「と、とにかく! お店はこっちのフルーツの方にしよ! 私、着替えてくるから!」
これ以上誤魔化しきれないと悟ったのか、東雲さんは照れ隠しのように立ち上がると、羽織っていたワイシャツのフロントボタンを下から手際よく留め始めた。
先ほどまで私の理性を狂わせていた水色のレースと白い谷間が、真っ白な生地の下へと隠されていく。
その事実にほんの少し安堵したのも束の間、次の彼女の行動が、再び私の視線を強烈に釘付けにした。
「よいしょ、っと」
彼女はトランクからデニム生地のショートパンツを取り出すと、そのまま、薄手のパンティーストッキングを穿いた足元からスルスルと引き上げたのだ。
ジップを引き上げ、フロントのボタンを留める。
下着のラインこそ厚手のデニムに隠されたものの、ショートパンツの裾からすらりと伸びる彼女の長い脚は、依然として極薄のナイロン繊維に包み込まれたままだ。
素足よりも生々しい、ストッキング特有の艶やかな光沢。それがカジュアルで短いデニム生地と合わさることで、かえって視覚的な刺激を倍増させている。
彼女が歩くたびにデニムとナイロンが擦れて音を立て、その微かな響きだけで、先ほどベッドの上で彼女に密着していた時の記憶が、否応なしに引きずり出されてしまう。
私は慌てて視線を窓の外へと逃がした。
まだ微熱が残っているらしい。
彼女の恥じらう姿に毒気を抜かれたはずなのに、その刺激的過ぎる脚線美を前にして、早くも煩悩の海へと引きずり込まれそうになる。
ちょっとした刺激で何度でも光景が蘇ってくる程に、記憶が鮮明に焼き付いてしまった。
「あ、そうだ。日差し強いし、帽子も持ってこ!」
背後で弾むような声がして振り返ると、彼女は部屋の片隅に置いてあった大きめの麦わら帽子をふわりと頭に乗せ、つばの角度を微調整して私に微笑みかけていた。
麦わら帽子の下から覗く、照れくさそうな笑顔。
そして、その下で圧倒的な色香を放ち続けるストッキング越しの長い脚。
「結城くん、お待たせ! 行こっか!」
「……はい」
私は小さく息を吐き、ようやく立ち上がった。
足元は少し覚束なかったが、胸の奥で暴れかけた熱は、今はどうにか奥底に仕舞い込めている気がした。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




