第66話 はだけた白いワイシャツ
「…………………ん、ふぁ……っ」
私の手の甲を撫でていた彼女の唇から、無防備で、ひどく甘い吐息が漏れた。
それが引き金だった。
私の頭の中で、限界まで張り詰めていた理性の糸が、ブツン、と音を立てて千切れるのが分かった。
自分がどう動いたのか、明確な記憶はない。
気づけば私は、ソファの肘掛けから手を離し、目の前にいた彼女の両肩を力任せに掴んでいた。
羽織られただけのワイシャツの薄い生地越しに、彼女の華奢な骨格と、熱を持った柔らかな肌の感触が直接手のひらに伝わってくる。
「えっ……きゃっ!」
小さな悲鳴。
私はそのまま彼女の身体を押し込むようにして、背後のベッドへと乱暴に押し倒していた。
バフッ……と分厚いマットレスが大きく沈み込み、真っ白なシーツの上に東雲さんの身体が仰向けに投げ出される。
私は彼女を逃がさないように、その顔の横に両手をつき、上から完全に覆い被さっていた。
荒くなった自分の息が、彼女の顔に掛かる。
そして──私の片足の膝は、仰向けになった東雲さんの、ストッキングに包まれた両脚のすぐ間に入り込んでいた。
あと数ミリ。
ほんの少しでも私が身じろぎすれば、ナイロン越しに彼女の身体に触れてしまう。
そんな、狂気じみた密着状態。
頭の中が真っ白だった。
視界には、乱れたワイシャツの隙間から露わになった水色のレースと、激しく上下する白い胸元しか映らない。
思考回路は焼き切れ、自分が今、どれほど取り返しのつかない一線を越えようとしているのかすら、理解出来ていなかった。
突然押し倒された東雲さんは、シーツに沈み込んだまま、信じられないものを見るように目を丸くしていた。
きっと彼女は心のどこかで『結城くんに限って、自分を襲うような勇気や度胸があるはずがない』と無意識にタカをくくっていたのだろう。
私自身、そう思っていた。
しかし、今の私の目には、明らかな暗い熱が宿っていたはずだ。
それに気づいたのか、流石の東雲さんもハッと息を呑み、その白い頬をみるみるうちに桜色に染め上げていく。
逃げ場のないベッドの上。
互いの吐息が混ざり合う距離。
緊張に身を強張らせながらも、彼女は私から視線を逸らさず、潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめ返してきた。
「……結城くん」
震えるような、それでいてひどく艶を帯びた声が鼓膜を打つ。
彼女ははだけそうになるワイシャツの胸元をギュッと握りしめ、上擦った声で、致命的な一言を口にした。
「……ねぇ。これから……どうするの……?」
……これから?
それは、今まさに私が踏み出そうとしている『崖』について聞いているのか。
それとも『今日一日の予定』を聞いているのか。
無自覚で、あまりにも無防備な問いかけ。
……ドクンッ!!
心臓が、肋骨を突き破らんばかりに爆発的な脈動を打った。
全身の血が一気に沸騰し、脳内の酸素が急速に失われていく。
視界が明滅し、このまま気を失って彼女の上に倒れ込んでしまうのではないかという、甘く暴力的な目眩。
もうダメだ。限界だ。
そう覚悟を決めた、次の瞬間だった。
──カラン……コロン……。
鼓膜の奥で『下駄の音』が鳴った気がした。
明滅する視界の裏側に、突然、ハワイの陽光とは真逆の『あの夜』の景色が鮮烈にフラッシュバックしたのだ。
残酷なほど美しかった、海浜公園の大花火。
冷え切ったチョコレートとバナナのクレープの感触。
彼女の優しさに甘えた、あの空虚で苦しい時間。
夜空の星を指差して、一瞬だけ重なった指先。
そして──私の言葉で、絶望的な温度差に気づき、すがるような瞳で私を見上げた東雲さんの、あの泣きそうな顔。
今日という特別な時間が終わってしまった、あのどうしようもない喪失感と、強烈な罪悪感。
(……私は…………)
自分なんかに、彼女の隣にいる資格はない。
見栄を張り、彼女に気を遣わせ、あの夜、私は自分で手を引いたのだ。
彼女の優しさを奪い、結果的に彼女を傷つけた、あの痛々しくて虚しい夜の終わりの静寂。
その生々しいトラウマが、劇薬のように脳髄を駆け巡った。
あんなに爆発しそうだった心臓の鼓動が、みるみるうちに速度を落としていく。
沸騰していた血液が急速に冷却され、下腹部に溜まっていた熱も、嘘のように波を引いて消え去っていった。
一瞬だったのか。
数分だったのか。
あるいは、数十分にも及ぶ時間だったのか。
押し倒した体勢のまま硬直していた私の瞳に、やがて、理性の光が戻ってきた。
静寂に包まれたハワイのホテルの密室。
私は、自分の足が彼女の脚の間にあり、両手で彼女をベッドに組み敷いているという現状を、極めて冷静な──まるで第三者のような視点で俯瞰していた。
私の中から、ありとあらゆる煩悩と情欲が跡形もなく消え去った気がした。
あんなにも激しく呼吸していたはずなのに、今やっと呼吸を思い立ったかのように、空気に味を感じ始めた。
「……えっと、結城、くん……?」
ただならぬ気配(あるいは全く気配がなくなったこと)を察知したのか、下で押し倒されている東雲さんが、戸惑ったように小さく声をかけてきた。
私はゆっくりと腕の力を抜き、彼女の上から退いた。
そして、バタン、と。
東雲さんの隣の空いたスペースに、仰向けの状態で丸太のように横に転がった。
「…………」
「…………ゆ、結城くん?」
天井の白いクロスを見つめながら、私は凪を取り戻した心で静かに、そして平坦な声で口を開いた。
「……お腹、空きましたね」
「…………え?」
「……パンケーキ。食べに行きましょうか」
私の隣には、はだけた白いワイシャツと、黒いパンティストッキング姿のまま、呆然としている東雲さん。
私は情けなく、また、手の届かない距離から、彼女を『守る』ことを選んでしまった。
これが正解だったのか、不正解だったのか。
どちらにせよ、やり直す機会は……。
………………………………きっともう二度と来ない。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




