第65話 ストッキングがシーツと擦れて
私がこの密室に足を踏み入れてから、かれこれ一時間は経っていただろうか。
ベッドでゴロゴロとくつろぐ東雲さんと、一人掛けのソファで彫像のように固まる私という奇妙な構図のまま、私たちは思いのほか自然に雑談に花を咲かせている──ように見えているはずだ。
だが、それはあくまで表面上だけの話である。
淡々と相槌を打ちながらも、私の心は、彼女の無防備な仕草や、身体のあちこちに目を奪われ続けていた。
バスローブの裾から覗く足首、寝返りを打つたびに危うくたわむ胸元の合わせ目、クッションを抱きしめる細い指先。
その一つ一つに視線を吸い寄せられながら、私は脳の処理能力の九割を「平常心を装うこと」に費やしていたのだ。
そんな海の底に沈むような空間で、東雲さんはクッションに顎を乗せ、ふにゃりと笑った。
「早瀬さん、今頃どこを歩いてるのかな。ハワイの海辺でデートなんて、きっとすっごくロマンチックだよね」
「……ええ。そうですね」
彼女は何も知らない。
その明るい報告の裏に、早瀬さんがどれほどの痛みを隠して部屋を出て行ったのかを。
(いや……本当に何も知らないのだろうか?)
ふと、今朝のレストランで彼女が最後に見せた、どこか焦燥感に駆られたような強い瞳が脳裏を過る。
彼女がなぜ、わざわざこの状況で『早瀬さんの彼氏』の話を振ってきたのか。
私がその真意を図りかねていると──。
「外、すごくいいお天気だし……ん。なんだか、部屋の中も少し熱くなってきたね」
ふと、東雲さんがベッドの上でゆっくりと身を起こした。
首筋に滲んだ汗を指先で拭うと、彼女は。
「……やっぱりバスローブだと重いね」
と小さく呟き、キュッと結ばれた帯に手をかけた。
「えっ……ちょ、東雲さん──」
私の言葉より早く、彼女の細い指先がするりと帯を解く。
「……っ……あ」
声にならない声を出そうと、口が震えるように動く。
しかし、彼女の姿から目が逸らせない。
真っ白な厚手の生地が、彼女のなだらかな肩から滑り落ちた。
まるで脱皮するように、ふわりと脱ぎ捨てられた衣類は、シーツの上に波打って広がる。
そこに現れたのは、淡い水色のレースがあしらわれた華奢な下着と──そのほっそりとした下半身を包み込む、黒いパンティーストッキングだった。
極薄のナイロン繊維越しに透ける肌の艶かしさが目に飛び込んでくる。
窓越しの柔らかな光を浴びて、ストッキングに包まれた脚の輪郭が、微かに、しかし生々しく乱反射していた。
「ふぅ……うん、涼しいし、これで良いや。ほら。もう下に下着着けてるし、大丈夫だよ」
彼女はすぐ横に用意していた真っ白なワイシャツを手に取ると、その姿のまま、それをふわりと素肌に羽織った。
フロントのボタンは一つも留められておらず、動くたびに大きめのシャツの隙間から水色のレースと、呼吸で上下する白い谷間が覗く。
そして、シャツの裾から投げ出されたストッキング越しのしなやかな脚。
それは、どんなに露出の多い衣服よりも、致命的に私の理性を狂わせる『アンバランスさ』だった。
「それでね、結城くん。さっきの早瀬さんの彼氏さんの話なんだけど──」
彼女はシャツの襟元を少し直しながら、何事もなかったかのように会話の続きを紡ぎ始めた。
いっそのこと心臓なんて止まってしまえば良いのにと、私は速くなるばかりの鼓動に、落ち着くよう何度も何度も言い聞かせていた。
しかし、目の前の異常な光景と、あまりにも日常的なトーンの落差が、決定的に私の神経を侵食し始める。
自然と目を逸らすよう努力していたはずなのに。
当たり前のように繋がる会話の途中で彼女から目を逸らしてしまう方が、私の内に潜む熱い欲望を肯定してしまう気がして、私はどうしても視線を外せなくなっていた。
彼女がベッドの上で寝返りを打つたび、ストッキングがシーツと擦れて、シッ、シッ、という微かな音を立てる。
その妙に色っぽい衣擦れの音が、私の鼓膜を直接撫で回すように響いた。
「結城くん……? どうしたの、黙り込んじゃって」
「……いえ、聞いてます。ハワイでのデートの、話……ですよね」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
ただでさえ限界だった私の余裕は既にマイナスに振り切れている。
熱を帯びた彼女の肌の白さと、ストッキングに包まれた滑らかな曲線。
視界の端で揺れるシャツの裾。
シッ、とまた一つ、シーツが鳴る。
「結城くん」
彼女がベッドから身を乗り出し、私を覗き込んできた。
その距離が急激に縮まり、彼女の纏うシャンプーの甘い匂いと、ナイロン越しに伝わってくるような肌の熱が私の領域へと侵入してくる。
「ねえ、結城くんもベスト……脱げば? 暑くない?」
「っ……」
答えない私を見て、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
そして、ソファの肘掛けに置かれていた私の手元へと、すっと自分の細い腕を並べる。
「ふふっ。結城くん……ほら。やっぱり腕とか手とか、こんなに真っ白で綺麗」
羽織っただけのワイシャツの袖口から覗く彼女の腕と、シャワーを浴びてきたのに、既に汗ばんでしまっている私の腕。
触れ合うか触れ合わないかのギリギリの距離で、二人の体温が混ざり合う。
彼女は自分の肌と私の肌を見比べながら、くすくすと楽しそうに笑った。
「……ほら、私より白いかも」
純真無垢な賞賛とともに、彼女の柔らかな吐息が私の手の甲を撫でる。
視線を落とせば、並べられた腕のすぐ向こう側に、大きく開いたシャツの胸元と、そこから覗く水色のレースが嫌でも目に入ってしまう。
(……これ以上は、もう)
喉が鳴り、全身の血流が足元から頭頂へと逆流するのを感じる。
私は彼女の真っ直ぐな瞳から逃れるように目を閉じて、荒くなる息を殺すようにして、指の関節が白くなるほどソファの肘掛けを強く握りしめた。
「……結城くん」
至近距離で私を見つめる無垢な瞳。
彼女の艶やかな肌のコントラストが、どれほど私の理性を削り、男としての余裕を剥ぎ取っているか。
彼女がそれに気づいていないはずがない。
──私の結界なんて、最初から存在しなかったのだ。
この一時間は、ただ彼女が私を弄ぶために用意した甘い儀式に過ぎなかったのかもしれない。
この閉ざされた密室で、彼女だけがどこか勝気な微笑みを浮かべ、私だけが逃げ場のない熱に溺れかけている。
やはり、先生の見張りは必要だった。
誰か、今すぐこの扉を叩いて私を助け出してほしい。
そうでなければ、私はもう──。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




