第7話 足先の解放は思考の解放だ
すっかり夜も深まり、テレビからは見たこともない連続ドラマが流れている。
手作業の山場はほぼ私の担当になり、デザインの指示をあらかた出し終えた東雲さんは、すっかり手持ち無沙汰になっていた。
「……ねえ、結城くん。この主人公、どうしてここで素直に本音を言えないんだろうね。普通に考えれば、今ここで謝っておくのが一番楽なのに」
座卓の向こう側から、ドラマにツッコミを入れる声がする。
視線を上げると、東雲さんは座布団の上で膝を抱えるようにして座り、画面を食い入るように見つめていた。
その格好を見て、私は少しだけタイピングの手を止める。
数十分前、彼女は「脳がヒートアップしてきたから、少し熱を逃がそう」と独自の理屈をこねて、羽織っていた薄手のカーディガンを脱ぎ捨てた。
さらに、足元を覆っていた靴下も「足先の解放は思考の解放だ」と言いながら無造作に丸め、ぽいっと畳の上に放り投げている。
そこにはただの、家で自分の時間をダラダラと過ごす、無防備な女の子が居るだけだった。
それはまだ、恋心として自覚するような分かりやすい感情ではなかったが、彼女が必死に張っていた『年長者』としての虚勢の裏側に、こんなにも隙だらけで生活感のある素顔が隠されていたことに、妙に安心している自分に気が付いた。
いつも淡々と授業を受けて、誰とも深く交わろうとしなかった彼女の輪郭が、ここに来て急に、血の通った一人の人間として色づいて見えたのだ。
「東雲さん、すっかりくつろいでいますね」
素直な言葉が皮肉に聞こえてしまうのではないかと心配したが、彼女は素足の指をきゅっと丸め、照れ隠しのようにふいっと顔を背けた。
「大半のデジタル処理を結城くんに任せてしまっている手前、私がこれ以上口出しをして、邪魔してしまっては元も子もないからね。断じて飽きたわけではないよ? 全ては私の的確な指示あってこそだからね」
「頼もしい限りです」
「ふふふ、そうとも」
そう得意げに言って、彼女は再びテレビへと視線を戻した。
しばらくの間は、ドラマの登場人物たちの話し声だけが、い草の香る居間に響いていた。
***
「……結城くんが、羨ましいよ」
ぽつりと落とされた声は、ドラマの感想にしてはあまりにも温度が低かった。
私はキーボードに音を立て続けたまま、小さく応える。
「羨ましいとは?」
東雲さんはテレビモニターの光に照らされながら、両膝に顎を乗せ、どこか遠くを見るような瞳をしていた。
長い前髪の隙間から、私の方をちらりと見る。
「いつも……こっそりと君を見ていたんだ。君が小林くんや杉田さんと、とても自然に、楽しそうに話をしているのをね」
東雲さんは自嘲気味に小さく笑うと、畳の上に転がっていた自分の靴下を白く細い指先でつまみ上げ、意味もなくいじり始めた。
「私ね、入学した時……新しい環境で、今度こそ上手くやろうって思ってたよ」
(……今度こそ?)
その短い言葉の裏側に、私は微かな違和感を覚えた。
三つ年上で、この専門学校に入り直した彼女。
大学生活か、あるいは一度社会に出てからか。
何か人間関係で大きくつまずくような、苦い経験があったのかもしれない。
今ここで深く踏み込むような野暮な真似はしないけれど、彼女が抱える不器用さの根っこに、少しだけ触れた気がした。
「でも、周りはみんな年下で。三つも年上だっていう変なプライド……いや、劣等感かな。子供みたいな緊張が邪魔をして、自分から声を掛けるタイミングを完全に見失ってしまった。……気付いたら、周りの女の子たちのグループの輪に入りそびれていて。……ぬいぐるみだってね、無理矢理作った自分らしさみたいなものだよ」
彼女の指先で、靴下が、コロコロと、くるくると丸められていく。
「だから……誰にも臆せず、自由に、自分の居場所を見つけて立つ君が、ずっと羨ましかった。どうすれば君みたいに、分け隔てなく自然体で人と関われるんだろうって……ずっと観察してたの」
教室で幾度となく感じていた、彼女からの視線。
それは決して私を不審者として警戒するものではなく、途方に暮れた迷子が、陽の当たる場所を歩く人間を遠くから見つめるような……痛いほど切実な、羨望の眼差しだったのだ。
臆せず、自由で、自然体。
彼女の目には、私がそんな風に映っていたらしい。
……勿論、それは買い被りだ。
私が誰に対しても敬語を崩さないのは、決して器用だからではない。踏み込まれないように、そして自分から踏み込まないように、表面上の関係を取り繕っているだけのこと。
彼女が不器用なプライドで結界を張ったように、私もまた、空っぽな自分を守る為に壁を作っているに過ぎない。
でも、その理屈をここで長々と説明するのは……少し、彼女が求めている『答』とは違うような気がした。
「……自分も、東雲さんが思っているような、器用な人間じゃありません」
「え?」
「ただ、周りの空気に合わせて、自分が一番楽な距離感を測っているだけです。東雲さんと同じですよ」
私の言葉に、東雲さんは少しだけ目を丸くした。
それから、何かを見透かそうとするように私の顔をじっと見つめ、やがて、小さく、けれど確かに、ふわりと微笑んだ。
「……そっか」
私たちは初めて、同じ目線で向き合えた気がする。
勿論、私自身友達が多い方ではないが、目の前で「友達が出来ない」と靴下をいじりながら俯いている女の子を見て「放っておけない」と思うのは……傲慢だろうか。
「……東雲さん」
「ん? 何かな、結城くん」
「もし良ければ……連絡先を、交換しませんか?」
「え……?」
東雲さんは弾かれたように顔を上げ、前髪の隙間からパチクリと瞬きをした。
「れ、連絡先って……電話?」
「メールアドレスでも良いですけど……私、SNSは何もやってなくて他には無いんです。ほら、今回の課題もまだ途中ですし、これからもペアワークがあるみたいですから。連絡取れた方が、色々と都合が良いかなと思いまして」
我ながら、業務連絡という最強の盾を構えた、随分と隙のない見事な言い訳だったと思う。
東雲さんはしばらくの間、彫刻のように固まっていたが、やがて顔はみるみるうちに朱く染まり、着ているTシャツの襟元から覗く白い首筋まで赤くなっているのが分かった。
「そ、そうだね! 業務連絡の効率化や、データ共有という観点において、連絡手段の確保は極めて合理的な判断だと言える! うん、交換しよう!」
慌てて自分のスマートフォンを手に取り、嬉しそうに座布団をパシパシと叩く彼女の姿に、私の口元がつい緩む。
言われるがままにスマートフォンを差し出し、画面に数字を打ち込んでいく。
短い電子音が響き、私の連絡先一覧に『東雲紗雨』という名前が新しく追加された。
もう一つのスマホには『結城奏汰』の表示がほぼ同時に映る。
画面に表示された四文字を見つめながら、東雲さんは嬉しさを隠しきれない様子で、小さな白い歯を覗かせて笑った。
「ふふふ……これで私も、クラスにプライベートな通信網を確保したわけだ。少しだけ、前進出来た気がするよ。ありがとう、結城くん」
「いえ、こちらこそ」
そんな少し気恥ずかしくも温かい空気の中、私のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、母親からの返信だった。
「あ、母から丁度メッセージが来ました。『遅くまでお邪魔してすみません』だそうです」
「お母さんに連絡してたのかい?」
「ええ。友達の課題を手伝う事になったから、帰りは直接家まで送ってもらうと伝えておきました。……というわけで東雲さん、今度こそ自分の家までよろしくお願いします」
東雲さんは目を丸くした後「な、なるほど……!」と感心したように声を漏らした。
「根回しが完璧だね、結城くん。リスク管理能力が高過ぎる……。よし、それじゃあ年上のお姉さんとしての最後の任務だ。君を家まで、今度こそ安全に、最短ルートで送り届けよう。……何せ今の私は、君の連絡先を知る特別なナビゲーターだからね」
畳の上に脱ぎ捨てていたカーディガンをパッと羽織り、車のキーを少し得意げにチャキッと鳴らす彼女の背中を追いかけながら、私は自分のスマートフォンをポケットに仕舞った。
ほんの数時間前までは、ただの右隣の人だった。
けれど、ポケットの中で微かに重みを持った彼女の連絡先が、明日からの教室の景色を、ほんの少しだけ変えてくれるような気がしていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




