第6話 獣人紳士
「緑茶で良かったかな。それとも上質なほうじ茶にする?」
「……冷たいのあります?」
「えっ?! あ……うんっ! 勿論だよ! ク、クライアントの希望には柔軟に対応しないとね。ちょっと待ってて!」
茶葉の袋を片手に障子戸から顔を出していた東雲さんは慌てた様子で、パタパタと台所へ引き返していった。
ここは少し年季の入った平屋の日本家屋。
通された居間は、い草の香りがする畳敷きで、部屋の中央には庶民的な木目の座卓がどっしりと置かれている。
壁には地元の信用金庫の大きなカレンダーが掛けられており、教室で彼女が放っていたミステリアスなオーラとは対極にある、実家感丸出しの空間だった。
「はい、お待たせ。我が家が誇る冷たい麦茶だよ」
……上質なほうじ茶ではなかった。
戻ってきた東雲さんが、縦に長い少しオシャレなグラスを座卓に置く。カラン、と涼しげな氷の音が響いた。
彼女は私の向かい側にもう一枚座布団を敷き、
ぺたん、と。
自覚があるかどうかは兎も角、小動物のように悪魔的に可愛らしく着地した。
「ありがとうございます。でも……私なんかがお邪魔して大丈夫なんですか? 見知らぬ男が勝手に上がり込んでしまっていますよ」
冷たい麦茶で喉を潤しながら尋ねると、彼女はふんす、と少し得意げに胸を張った。
「勝手にじゃないから大丈夫。それに私はいつも帰ったら一人だから。お父さんは単身赴任で、お母さんもパート。だから当分は誰も……帰ってこない…………です、はい」
この広い平屋の家屋に、私と東雲さんの二人きり。
その事実を改めて言語化された瞬間、急に居間の空気が、輪郭を持ち始めた気がした。
東雲さん自身も、自分で言っておきながらその意味の重さに気づいたのだろう。
長い前髪の奥で黒い瞳が激しく泳ぎ、グラスを持つ両手が微かに震えだした。
マッドサイエンティストのような悪意を持って、堂々と誘拐犯を演じたはずなのに、その耳の先はずっと真っ赤に染まったままだ。
「そ、その……あ、安心したまえ! 結城くんのプライバシーと安全は、この私が完全に保障するし、作業が終われば責任を持って速やかに送り届けるし……っ」
「……それはどうも」
安全を保障すると言われても。
教室のデスクや車のダッシュボードを凌駕する規模の『動物園』が、この昔ながらの居間には広がっている。
テレビ台の上、本棚、床の間の隅。
至る所に小さな動物のぬいぐるみが所狭しと配置されている。和室の厳かな空間にポップな動物たちが点々と生息している光景は、もはや一種の現代アートのようだった。
「……東雲さん」
「な、何かな。結城くん」
「……部屋中のぬいぐるみに監視されているような気分です」
「そ、それは、その……っ」
東雲さんの視線がさらに激しく泳ぎ、姿勢がドンドン小さくなっていく。
「こ、これはディスプレイ・パターンC……ではなくて! 彼らも突然の来客に驚いて……野生の本能的なアレで、一斉に警戒しているだけであって……」
「パターンAやBもあるんです?」
「……わ、忘れてください」
彼女が顔を真っ赤にして、子供のようにアタフタする様子を眺めているのは、内心とても楽しかった。
いつもなら適当に話を切り上げて、適当に突き放して、適当なタイミングで帰る所だ。
だが、古臭い部屋の空気と、目の前で一人慌てふためいている歳不相応な少女を見ていると、どうにも調子が狂ってしまう。
手伝って欲しいけど警戒はしているぞという、クラスメイトの男子を無理矢理家に連れ込んだとは思えないチグハグな距離感。
私は彼女のペースに巻き込まれ、すっかりと開き直り、可愛い女の子と二人きりというこの恵まれた幸運を、どうせなら精一杯楽しんでから帰ろう──今はそういうスタンスにシフトしている。
私は小さく息を吐き、座卓の上に置かれた彼女のノートパソコンに視線を落とした。
「それじゃあ……始めましょうか」
「そ、そうだね! あ、パスワードは……これね」
東雲さんは、モニターの縁に貼られた小さな付箋を指差した。
そこにはアルファベットで『saustage』と記されている。
「えと……『ソーセージ(sausage)』ですか?」
「違うよっ?! サウ! ステージ! 私の名前! 真ん中にほら!『t』があるでしょ! 挽き肉の腸詰めじゃないよ?!」
「自分は好きですよ、ソーセージ。皮がパリッとしてればですけど。なので魚肉のはあまり食べないです」
「そういう問題じゃなくて……!」
どうでもいいことを弁明する彼女をスルーしつつ、私は淡々とキーボードを叩いてロックを解除する。
「そもそも……この課題はペアで提出する物なので、別に攫わなくても言ってくれれば……。課題のデータはどこに入れました?」
「あ、そこの……『5月課題案』ってフォルダ」
言われた通りにデスクトップへ視線を走らせた私は、目的のフォルダを探す過程で、すぐ隣に置かれた不穏な文字列に気づいてしまった。
「……『【閲覧厳禁】獣人紳士(執筆中)……』」
「…………ふぇ?」
無意識に声に出して読み上げてしまった直後。
ピシリ、と。
向かい側に座る東雲さんの時が止まった。
彼女の顔が、耳の先から首筋まで、一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まっていく。
パソコンにパスワードを掛けていることで完全に油断し、自分がデスクトップのど真ん中に、どんなパンドラの箱を放置していたのかを忘れていたらしい。
「……これって小説か何かですか?」
バタンッ!!
突然、大きな音が居間に響き渡った。
東雲さんが座卓越しに身を乗り出し、開いていたノートパソコンのモニターを上から力任せに押し付けて閉じたのだ。
画面とキーボードの間に私の指が挟まれなかったのは、奇跡的な反射神経のおかげである。
こんなことに奇跡を使ってしまった。
勿体ない。
私は閉じたパソコンの上に突っ伏す形になっている彼女を、ジト目で見つめた。
「……東雲さん? このままでは作業が出来ません」
「君は何も見なかった……い、良いね? 良いよね?」
「…………」
「ねっ?!」
「……はい」
「……信じるよ?!」
涙目で小刻みに震えながら、有無を言わさぬ力押しで迫ってくる彼女を見て、私はあえてそれ以上は追求しないことにした。
普段はあんなに大人しい彼女の頭の中がどうなっているのか、想像するだけでこちらまで顔から火が出そうになるが、これ以上いじれば、彼女は羞恥心のあまりこの部屋のぬいぐるみを全て私に投げつけて爆発してしまうかもしれない。
「……そんなに心配なら、ほら」
私は自分のすぐ横の畳を、ポンポンと手で叩いた。
「隣に座ってください。その方が画面も見えますから」
「……う、うん」
私が促すと、東雲さんはおずおずと立ち上がり、私の隣へと移動してきた。
……しかし、何故かその距離がおかしい。
肩と肩がぴったりとくっつくほどの至近距離に、ぺたんと座り込んできたのだ。
「……あの、東雲さん? いくら何でも近すぎませんか?」
「……見張るためだもの」
彼女は長い前髪の奥からジト目で私を睨みつけ、牽制するようにピタリと身を寄せてきた。
「結城くんが余計なところをクリックしないように……私がしっかり監視しないと」
いや、これでは見張るというより、ただの密着である。
東雲さんは私をジトリと監視するような視線のまま、閉じていたノートパソコンを恐る恐る開いた。
デスクトップには相変わらず、あの危険なファイルが当たり前のように置かれているが、私は極めて冷静な手つきでマウスを動かし、目的の『5月課題案』のフォルダだけを正確にダブルクリックした。
「ほら、開きましたから」
画面に課題のデータが並んだのを確認し、私は彼女へ言う。
「作業がしにくいので離れて下さい。……それに、私も男なので可愛い女の子を襲わないとも限りませんよ?」
「…………っ!」
密着してくる彼女への、私なりの反撃(という名の強がり)だった。
そう告げると、東雲さんは顔を真っ赤にして密着していた肩をスッと数センチだけ離した。
「こ、コホン。……そ、それじゃあ、気を取り直して。ほら、次も開いて開いて」
動揺を誤魔化すように、彼女はフォルダの中、さらに画像の一つを指差した。
そしてデータを開いた私は、思わず別の意味で言葉を失う。
画面に映し出されたのは、彼女が事前に作成していた雑誌のレイアウト原案だった。
先ほどまで涙目で力押しのごまかしをしていた人物と、同一人物が作ったとは到底思えないほど、それは立派なクオリティだったのだ。
色彩の配置、フォントの選び方、そして余白の使い方のバランスが絶妙で、まるで本物の洗練されたカルチャー雑誌を見ているかのような錯覚を覚える。
「……これ、東雲さんが一人で組み立てたんですか?」
「む、無論です。甘く見るなと言いました。 ……まぁ、放課後先生に見せて、少しアドバイスは貰ってたんだけど」
自分のデスクトップの地雷を見事に踏み抜かれたダメージを引きずりながらも、東雲さんは少しだけ得意げに、けれど照れくさそうに白く細い人差し指で前髪をいじった。
……なるほど。
それで今日も、教室から遅れて出てきたのだろう。
ソフトの使い方は分からなくても、デザインセンスにはきちんと積み重ねてきた確かなものがあるらしい。
まさに、私とは真逆のパターンだ。
「これなら、自分が口を挟む余地はありません。……ただ」
「ただ?」
「このテキストデータ、全部『画像』として直書きされていますよね。これだと後から文字の修正が出来ませんし、印刷した時に文字が滲みます。テキストレイヤーを使わないと」
「てきすと、れいやー……?」
東雲さんは途端に眉をハの字に曲げ、完全に未知の言語を聞いたような顔になった。
一時期、SNSでこんな顔をした猫の画像が流行っていた気がする。
「文字をカッコ良くするのは良いんですけど、システム側に『これは文字ですよ』という情報は残しておかないと……。いや、長くなりそうなのでやっぱり良いです。忘れてください。これは私が何とかします。自分が文字組みの枠を作るので、東雲さんはフォントの指定と配置の微調整をお願いします」
「……よろしくお願いします」
私は早速キーボードに指を走らせる。
彼女のデザイン原案をベースに、正しい手順でレイアウトソフトにデータを再構築していく。
私がショートカットキーを駆使してテキパキと画面を動かしていくと、隣で数センチの距離を保っている東雲さんから「今のは……」「ほぅ……」「神の一手か……」と、ボソボソと小さく感嘆(?)の声が漏れた。
作業に没頭するうちに、最初にあれほど満ちていた気まずさは、いつの間にか消え失せていた。
「東雲さん。ここの見出しのフォント、明朝体とゴシック体ならどちらがイメージに近いです?」
「えっとね、そこは……少し掠れたような明朝体がいいと思う。全体の空気が引き締まるんじゃないかな……多分」
「分かりました。……これでどうでしょう?」
「そう! 結城くん! これだよこれ!」
東雲さんは嬉しそうに声を弾ませ、身を乗り出して画面を覗き込んできた。
先ほどの牽制とは違う、純粋な無防備さ。
ふわりとあの甘い香りが、より一層強く鼻先をくすぐる。
再び触れ合った肩から、年上のお姉さんというよりは、等身大の女の子としての温かい体温が直接伝わってくるようだった。
「……っ」
私は、マウスを握る手に少しだけ力を込めた。
「結城くん?」
「……もう少しです。一気に終わらせてしまいましょう」
努めて平坦な声を出し、画面に視線を固定する。
依然として大量のぬいぐるみたちが、獲物を狙うように私たちをじっと見つめていたが。不思議ともう、最初のような威圧感は感じなくなっていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




