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第63話 714号室

 熱めのシャワーで寝汗を洗い流し、私は鏡の前で入念に髪を乾かした。



 持参した服の中からネイビーの襟付きシャツと細身のパンツを選び……あの日、彼女のコーラルピンクのワンピースに合わせて買った大切なグレーのロングベストも羽織る。



 ルームキーとショルダーバッグを持ち、忘れ物がないことを確認して、私は意を決して部屋を出た。











 ***











 女子の部屋が集まっている七階に降り立つと、ほんのりと甘い香りが混ざっている気がした。


 静まり返った廊下を、踏み心地が滑らかなカーペットに体重を任せながら、ゆっくりと、まるで夢の中で不思議な美術館にでも迷い込んだような面持ちで、一歩一歩丁寧に進む。











 ──714号室。











 重厚なドアの前に立つ。

 私はごくりと乾いた喉を鳴らした。





 ホテルの部屋はオートロックだ。

 ルームキーを持たない私は、彼女に中から開けてもらわないと入ることができない。





 震えそうになる右手を軽く握り込み、コンコン、とドアノブの横を控えめにノックする。























「……結城です」























 数秒の、永遠にも似た沈黙。


 やがて、ドアの向こうから、そっと息を潜めるような声が聞こえてきた。








「……結城くん…………一人?」







「え? あ、はい、一人ですけど……?」








 私がそう答えると、カチャリ、と微かな金属音がして、重いドアが内側へとゆっくりと開いた。








 ドアの隙間から零れ落ちてきた光と、その先に立っていた彼女の姿を見た瞬間。


 私の世界からフッと生活音が消え去り、時間の流れが唐突に、泥のように遅くなった。





 



 そこに立っていたのは、朝の涼しげなワンピース姿でも、可愛らしい部屋着姿でもなく。





















 ──ホテルの備え付けである、分厚く真っ白なバスローブに身を包んだ、今までに見たことのない艶やかな東雲さんだった。





















「し、東雲、さん……? その、格好……」



「結城くんが、シャワー浴びるって言ってたから。……待ってる間、私も、浴びようと思って」




 彼女の華奢な体には、外国サイズのバスローブはあまりにも大き過ぎた。





 身じろぎするたびに胸元のV字がわずかにたわみ、華奢な鎖骨と透き通るような白い肌が覗く。





 きゅっと結ばれた腰の帯の下からは、黒いストッキングに包まれた脚がスラリと伸びていた。





 まだ湿った髪の毛先から微かに水滴が落ち、紅潮した白い首筋を滑り落ちていく。





 熱いシャワーを浴びたばかりの彼女から、石鹸の清潔な匂いと、女の子特有の甘く柔らかい香りが、むせ返るほど濃厚に漂ってきた。





 気合いを入れて上着まで羽織り、隙なく身支度を整えてきた自分とは対極にある、あまりにも無防備で、生々しいまでの湯上がりの姿。





 その視覚と嗅覚から流れ込んでくる破壊力に、私の両足は情けなく震え始めていた。






 頭の中で激しい警報が鳴り響いている。






 この部屋に足を踏み入れれば、今までのような『ただのクラスメイト』ではいられなくなる。






 そんな直感的な恐怖と、甘い引力に抗いきれず、私は思わず一歩、後ずさりそうになった。











「あ、あの……やっぱり、私は着替えるまで外で待って……」




「だ、だめっ」











 逃げようとした私の意図を察したのか。




 東雲さんが慌ててドアの隙間から白い腕を伸ばし、私のベストのヒラヒラとした裾を、小さな指できゅっと力強く握りしめた。











「早く、中に入って……。誰かに見られたら、恥ずかしいから……」











 恥ずかしいなら服を着てから呼んでくれ、という正論は、彼女の顔を見た瞬間に霧散した。






 上目遣いで私を見つめるその瞳は潤みを帯び、頬から耳の先まで、茹だったように真っ赤に染まっていたのだ。





 彼女自身も、自分のしていることの異常さと恥ずかしさに、今にも泣き出しそうになっているのが分かった。






 こんなに不器用で必死な誘いをされて、振り解けるはずがなかった。






「……お邪魔、します」






 彼女の指が引き寄せる微かな、それでも確かな力に身を任せ、私は震える足で、フラフラと部屋の中へと一歩を踏み入れた。






 ホテルの部屋特有の、少し冷たくて乾いたエアコンの空気が頬を撫でる。




 分厚い遮光カーテンの隙間から差し込むハワイの強烈な陽光が、薄暗い部屋の床に一筋の光の道を作っていた。





 ベッドサイドを照らすオレンジ色の間接照明。





 その仄暗いコントラストの中に、シーツの皺ひとつなく綺麗に整えられたクイーンサイズのベッドが二つ、やけに存在感を放って鎮座している。





 いつもなら気にならないはずの冷蔵庫の低いモーター音すら、今の私には酷く大きく聞こえた。






 私が部屋の奥へと視線を泳がせている間に、東雲さんが私の背後でドアを閉めた。











 ──バタン。


 分厚いドアが枠に収まり、外の廊下の音が完全にシャットアウトされる。











 ──ガチャリ。


 オートロックの金具が噛み合う、重い金属音。











 ──チャララ。



 内側から金属製のチェーンが掛けられた冷たい音が響く。











 その一つ一つの動作の音が、まるでスローモーションのように私の鼓膜を打ち、脳髄の奥深くまで響き渡る。


 逃げ場のない密室空間。


 この部屋には今、私と、バスローブ姿でほんのりと火照った彼女だけ。








「……ふぅ」








 退路が断たれた静寂の中、東雲さんが小さく息を吐き、無警戒に片膝を曲げた。


 慌てて履いたせいで少し捻れていたのだろう。






 彼女はバスローブの裾から伸びる脚にスッと手を這わせ。


 黒いパンティストッキングのシワを直すように。


 足首からふくらはぎ。


 そして太ももの奥へとゆっくりと撫で上げた。






 シャワー上がりの火照った白い肌と、腰までをすっぽりと包み込む黒いナイロン生地の透け感。


 その生々しい仕草を見せつけられて。


 私が必死に張り巡らせてきた『ただのクラスメイト』という理性の結界は、甲高い音と光を放ち、跡形も無く粉々に砕け散ってしまった。





 中から出さない為か、外から入れない為か。





 今となってはどちらか分からない鍵の音が、私の退路が完全に断たれたことを冷酷に、そしてこの上なく甘美に告げている。

全90話で完結予定です。

少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。

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