第62話 私、東雲さん!
「それじゃあ結城! 行ってくるぜ!」
「裕介さん、日焼け止め塗りました? ハワイの紫外線は舐めると後で地獄を見ますよ?」
「海に入るのにそんなもん塗ってられるか! 男は黙ってサンオイルだ!」
朝食を終えて部屋に戻るなり、同室の裕介さんは早々に水着に着替え、浮き輪とタオルを抱えて嵐のように出掛けていった。
勢いよくドアが閉まると、二人部屋にも急に静寂が訪れる。
「……本当元気だな」
私は小さく苦笑しながら、靴を脱いで、広々としたツインベッドの一つにドサリと仰向けに倒れ込んだ。
徹夜明けの体に、ふかふかのマットレスが吸い付くように馴染む。開け放たれたベランダの窓からは、ザザーッという心地良い波の音と、ハワイ特有の甘く気だるい風が静かに流れ込んできていた。
天井でゆっくりと回るシーリングファンをぼんやりと見上げながら、私は深く、長く息を吐き出した。
(……静かだ)
目を閉じると、この修学旅行が始まってからの──いや、始まる前からの、彼女との出来事が次々と浮かんでは消えていった。
思えば、私は最初から東雲さんのことで頭がいっぱいだった。
二人で出掛けた修学旅行の買い出し。彼女が選んだコーラルピンクのワンピースの隣を歩きたくて、少し背伸びをして買ったロングベスト。
空港へ向かう夜のバスで、わざわざ私の隣を選んで座ってくれたこと。コートの隙間から、あのワンピースの生地が見えた時の、心臓が跳ね上がるような嬉しさ。
機内でCAさんに夫婦だと間違われ、顔から火が出るほど恥ずかしかったこと。
薄暗い照明の中、規則正しい寝息を立てる彼女の横顔から、どうしても目が離せなかった深夜のフライト。
そして、ハワイの強烈な日差しの下。
空港を出てお互いに上着を羽織った時、風に揺れる彼女のカーディガンと私のロングベストが、まるで図ったかのように完璧に調和していたこと。
展望台の吹き上げる風の中、二人並んで撮ってもらった写真。
祐介さんに「新婚旅行みたいだ」とからかわれて、焦りながらも、本当は飛び上がるほど嬉しかったこと。
(……眠い)
どれもこれも、思い出すだけで胸の奥が甘く締め付けられるような記憶ばかりだ。
彼女が笑いかけてくれるだけで、ただ隣にいてくれるだけで、私の世界はこんなにも鮮やかに色づく。
『後方支援は得意であります!』
朝食の席で、早瀬さんはそう言っていた。
あの調子の良い敬礼を思い出すだけで少しイラッとする。
彼女の方こそ東雲さんと同じ部屋なんだから、上手く言いくるめておいて欲しいのだが、あの様子だと、あまり期待は出来そうにない。
……ただ、東雲さんにしても、早瀬さんにしても、折角のハワイ旅行があまりにも幸先の悪いスタートになってしまっている。
出来ることなら二人とも、楽しい思い出として修学旅行を終わらせてあげたい。
……かと言って、ただのクラスメイトの一人でしかない私に出来ることなんて何もないのだけれど。
そんな無力感を胸の奥で募らせながら、私は波の音の心地良いリズムに身を委ねた。
徹夜明けの重たいまぶたはすぐに限界を迎え、私はいつしか、泥のような深い眠りへと落ちていった。
***
──ジリリリリリリリリリッ!!!
「えっ?!」
静寂に包まれていた部屋に、鼓膜を破るような激しいベルの音が鳴り響いた。
私はビクッと肩を跳ねらせ、勢いよくベッドから跳ね起きた。
音の出処を探すと、枕元のサイドテーブルに置かれた備え付けのアイボリー色の電話機が、震えるように鳴っている。
「で、電話?! これ、外から鳴るのか?!」
私は完全にパニックになっていた。
ホテルの部屋にある電話なんて、フロントに用事がある時に一方通行に掛けるだけのものだと思い込んでいたのだ。
まさか着信が来るなんて微塵も想定していなかった。
火災報知器のようなベルの音に急かされて電話機に手を伸ばしたものの、電話の取り方が分からない。
ただ受話器を持ち上げればいいのか?
それともボタンをどこか押した方が良いのか?
迷った末、私はそのまま受話器を手に取り、恐る恐る耳に当てる。
「も、もしもし……?」
『あ、繋がった! 結城くんですか?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは聞き慣れたいつもの声。
今朝の朝食会場で、私と頑なに目を合わせようとしなかった、あの東雲さんの声だった。
「えっ……し、東雲さん?!」
『うん、私、東雲さん!』
「そんな怪奇現象みたいに……」
その声色は、嘘のように元気だった。
朝の不機嫌オーラはすっかり消え去り、いつもの屈託のない彼女に戻っているように聞こえる。
早瀬さんが宣言通り、誤解を解いてくれたのかどうかは分からないが、少なくとももう機嫌は元通りのように聞こえる。
「ど、どうしたんですか? というか、どこからどうやってこの部屋に……?」
『ふふっ。フロントの人に部屋の電話の使い方を聞いてね、先生に電話して、結城くんの部屋番号を教えてもらったの!』
(個人情報ガバガバ過ぎる……!)
私は心の中でツッコむ。
いくら同じクラスの生徒同士とはいえ、男女の部屋番号をノーチェックで教えるなんて。我が校のプライバシーとセキュリティ意識に、私は思わず受話器を持ったまま頭を抱えた。
「先生も随分とあっさり……。いや、そんなことより……何か私に御用ってことですよね?」
『うん。あのね、結城くん……今から、私の部屋に来てほしいの』
「……はい?」
予想の斜め上をいく提案に、私は間抜けな声を漏らした。
「い、いや、東雲さんの部屋って、女子のフロアですよね? 流石にマズいんじゃ……」
『大丈夫大丈夫。もう子供じゃないんだから』
「……余計にマズいです。早瀬さんは?」
『早瀬さんなら、これから彼氏に会いに行ってくる!って、嬉しそうに出掛けて行ったよ?』
その言葉を聞いた瞬間、私の思考がピタリと止まった。
……彼氏に会いに行く?
そんなはずはない。
だって彼女は昨日の夜、その彼氏にこっぴどく振られ、朝までホテルのロビーで泣き明かしていたのだから。
会いに行く彼氏なんて、もういないはずだ。
「…………そうか」
早瀬さんは、自分が振られたことを東雲さんに隠したまま、私たちが二人きりになれるように、わざと一番不自然じゃない嘘をついて、部屋を空けてくれたのだ。
自分の傷はまだズキズキと痛むはずなのに、気丈にも明るく振る舞って、もしそれを伝えてしまえば、東雲さんが今日一日を自分の為に使ってしまうかもしれないと思ったから。
(早瀬さん……あなたって人は、本当に……)
その不器用で優し過ぎる気遣いに気付き、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼女が昨夜の修羅場を東雲さんにどう説明したのか、私の誤解が本当に解けているのかどうかは分からない。
しかし、何らかの弁明の効果があり、この電話が結果で、この気遣いが合図なのだろう。
『……だから、電話に早瀬さんが出たらどうしようかと思った』
「はは、は、そんなわけ……」
そんな怖い声出せたんですね、東雲さん。
『結城くん、今日はずっと部屋でゴロゴロしてるって言ってたよね? どこも出掛けないんでしょ? だから……ね?』
有無を言わさぬ、しかしどこか甘えるような東雲さんの声。
私は一つ深呼吸をして、腹を括った。
「……分かりました。行きますよ」
『ほんと?! やった!』
「あ、でも軽くシャワーを浴びてからでも良いですか? 実は今丁度寝ようとしてた所……というか実際寝てたので、出掛けられる格好に着替えてから行きます」
流石に寝起きのベタベタした髪や格好で女子の部屋に行くのは申し訳ない。
しかし、電話の向こうでは不自然なほどの沈黙が流れた。
『……えっ。あ、シャワー……』
「はい。15分くらいでササッと済ませて向かいますので」
『しゃ、シャワー浴びてから、来るんだ……そっか。う、うん、分かった……』
なぜか急に東雲さんの声が小さくなった。
受話器の向こうで声が遠くなったような気がする。
もしかすると時計を見たのかもしれない。
十五分後では遅過ぎるということだろうか?
「……東雲さん? シャワー浴びる時間もないくらい急ぎの用ですか?」
『あ、いや、全然! じゃ、じゃあ待ってるからね! 部屋番号は714号室! ゆっくりで良いからね!』
ガチャッ、ツーツー。
何だか慌てたような様子で、電話は切られてしまった。
でもまぁ、ゆっくりでも良いと言っているのだから、小綺麗にしておいて損はない。
私は受話器を置いてベッドから立ち上がった。
「取りあえず、シャワー……浴びよう」
これから「女子の部屋に一人で向かう」という事実に、自分の心臓が先ほどの電話のベルよりもうるさく鳴っている。
誤解がどうなっているのか分からない怖さと、ほんの少しの期待を胸に、私は二日目に着る予定だった着替えを引っ張り出して、使い勝手の分からないバスルームへと迷い込んだ。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




