第60話 彼氏に会いに行く
私が差し出した四ドルのミルクティーを一口飲んだのを皮切りに、早瀬さんの口からは感情が溢れ出していた。
「大体さぁ! 修学旅行の初日、しかもハワイのホテルのロビーで別れ話って、常識的にありえないと思わない?! 日本で言えっての!」
「……それはそうですね」
「私、この日のためにネイルも新しくして、向こうで水着になるからってダイエットも頑張って……さっきだって、彼氏に会うからって気合い入れてメイクして、わざわざ新しい香水までつけて部屋を出てきたのに……っ!」
最初はポロポロと涙をこぼしていた彼女だったが、話を聞いているうちに徐々に悲しみから怒りへとシフトしていったらしい。
私は静かな深夜のロビーの大階段に並んで座り、ただひたすらに彼女の愚痴に相槌を打ち続けた。
同じクラスとはいえ、今までほとんど接点のなかった私に自分の無様な姿を晒すのは、彼女にとっても本来なら不本意だったはず。
だが、異国の地で突然突きつけられた理不尽な振られ方と、楽しみにしていたハワイ旅行を初日で台無しにされた悔しさは、誰かに吐き出さなければどうにかなってしまいそうだったのだろう。
「……あいつ、前からスマホ隠すようになって、怪しいとは思ってたんだよね。でも修学旅行までは波風立てたくないって思って、ずっと我慢してて……バカみたい」
「早瀬さんがそれだけこの旅行を楽しみにしていたってことじゃないですか。それを踏みにじった向こうが100パーセント悪いです」
私がきっぱりと断言すると、早瀬さんはミルクティーのボトルを両手でギュッと握りしめ、少しだけ泣き笑いのような表情を浮かべた。
「……結城くんって、意外とハッキリ言うんだね。普段大人しいから、もっと事勿れ主義なのかと思ってた」
「理不尽なことに対しては、ちゃんと怒りますよ」
「ふふっ……ありがとう」
まとまらない言葉を延々と紡ぐ彼女の隣で、私は自販機で買った冷たいお茶をチビチビと飲みながら、ただただ耳を傾けた。
バイト先で教え込まれた客の話を聞くスキルが、こんな所で役に立つとは思わなかった。
しかし、時計の針は三時を回り、四時を過ぎる。
波の音だけが響いていたロビーに、やがてチュンチュンと南国の鳥の鳴き声が混ざり始めた。
気がつけば、漆黒だった空は薄い紫色から柔らかなピンク色、そして鮮やかなオレンジ色へと見事なグラデーションを描き、ハワイの爽やかな朝焼けがヤシの木のシルエットをくっきりと浮かび上がらせていた。
清々しい朝の空気が、徹夜明けの重たい頭にじんわりと染み込んでくる。
「……はぁ。ごめんね結城くん、一晩中私の愚痴に付き合わせちゃって。完全に徹夜じゃん」
すっかり空が白み始めた頃。
泣き腫らして目は真っ赤だが、憑き物が落ちたようにスッキリとした表情で、早瀬さんが大きく伸びをした。
「いえ。私は今日部屋でゴロゴロしている予定なので、全然問題ないのです」
「ハワイまで来て部屋でゴロゴロって……まぁ結城くんらしいと言えばらしいけど。でも本当に助かったよ。結城くんが聞いてくれなかったら、私、あのままロビーで朝まで一人で泣き続けてたと思う」
「一人が二人になっただけですが、少しでも気晴らしになったなら良かったです。……そろそろ部屋に戻りましょう。他の宿泊客も起きてくる時間帯です」
私たちは立ち上がり、凝り固まった体を軽くほぐしてから、エレベーターホールへと二人で向かった。
もちろん、早瀬さんの肩には、夜風を凌ぐために私が貸したグレーのロングベストが掛けられたままだ。
私たちは二人並んで上りボタンを押し、エレベーターの到着を静かに待った。
「……今日、東雲さんと遊んであげたら? バラすわけじゃないけど、東雲さん、部屋で不貞腐れてたよ?」
「不貞腐れてた? それは早瀬さんが一人で彼氏に会いに行ってしまったからでは?」
「いや、それは──」
そんな話をしながら、大きく欠伸をした、次の瞬間。
──ポーン、と。
軽快な電子音と共に、目の前のエレベーターの銀色の扉が静かに開いた。
「あ、やっと来──」
早瀬さんが一歩足を踏み出そうとして動きを止めた。
私も、開いた扉の向こう側を見て、同じように思考が完全に停止した。
「……え?」
エレベーターの中に立っていたのは、フリルがあしらわれた可愛らしいパジャマの上に、薄手のカーディガンを羽織っただけの女子生徒だった。
寝起きのせいか少しだけ髪が跳ねていて、手には小銭入れを握りしめている。
おそらく、早朝なら誰にも会わないと油断して、飲み物を買いにロビーへ降りてきたのだろう。
「……東雲、さん」
「結城くん……? と、早瀬さん……?」
偶然の鉢合わせに、東雲さんは私たちを交互に見た。
時刻は、朝の五時過ぎ。
数秒の沈黙の後、東雲さんの視線が、早瀬さんの顔にピタリと止まった。
そして、早瀬さんの泣き腫らした真っ赤な目と──その肩に掛けられている、見覚えのある『グレーのロングベスト』を、信じられないものを見るような目で見開いた。
「早瀬さん、その目……それに、その服。どうしたの……? っていうか……」
東雲さんの顔に、はっきりと絶望と混乱の色が浮かぶ。
彼女は震える指で、私と早瀬さんを交互に指差した。
「え、早瀬さん……昨日『彼氏に会いに行く』って言ってたのに……どうして結城く……まさか彼氏って……っ!」
「「あっ、いや、これは……っ!」」
──多分、最悪のすれ違いが起きている!!!
こういう時。
状況の理解は早いのに。
口が上手く回らない。
『昨日から彼氏に会いに行っていた早瀬さん』が。
『私の服を羽織って一緒に朝帰り』している。
その見事な伏線回収によって、東雲さんの頭の中で『早瀬さんの彼氏=結城(私)』という、とんでもない数式が完成してしまっている。
「東雲さん、一旦落ち着いて……!」
「そう! 結城くんは悪くないの! 私が無理言って付き合ってもらっただけで……!」
早瀬さんのフォローが、最悪な方向に裏目に出る。
早朝の静かなエレベーターホールに、私たち三人の慌てふためく声が虚しく響き渡る。
が、私たちの必死の形相と言い訳も虚しく。
東雲さんは光を失ったハイライトのない瞳で私たちを見つめたまま、スッと無慈悲に、エレベーターの『閉』ボタンを押した。
「「あ………」」
扉が閉まり切ると、階数表示は東雲さんの泊まっている部屋の階数までゆっくりと戻っていく。
爽やかなハワイの朝の空気とは裏腹に、私の自由行動の一日は、とんでもない波乱の幕開けを迎えていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




