第59話 意外と紳士だね
深夜二時。
隣のベッドから聞こえてくる裕介さんの豪快なイビキで目を覚ました私は、酷く喉が渇いていることに気が付いた。
夕食でジャンクなハンバーガーとポテトをこれでもかと詰め込んだせいで、部屋の冷蔵庫にあったミネラルウォーターは既に飲み干してしまっている。
私は財布とルームキーだけをポケットに突っ込み、こっそりと部屋を抜け出した。
廊下に出て、エレベーターで一階まで降りる。
高校の時にはエレベーター前に先生が見張りで潜んでいたが、今回はどうやら居ないらしい。
流石に専門学校ともなれば生徒の中には成人している人たちも多い。
わざわざ見張る必要も無いということだろう。
昼間はあんなに観光客でごった返していた巨大なロビーも、この時間帯は嘘のようにガランとしていた。
間接照明だけが薄暗く灯る空間には、ウクレレの生演奏も人々の笑い声もなく、ただヤシの木を揺らす夜風の音と、遠くから聞こえる波の音だけが静かに響いている。
(えーと、自販機コーナーはあっちの陰だっけ)
大きな大理石の柱の裏手、少し奥まった場所にある自動販売機コーナーを見つけ、私は冷たいお茶のペットボトルを購入した。
ガコンという落下音が、静寂のロビーにやけに大きく響く。
お茶を取り出し、蓋を開けて喉を潤そうとした、その時。
「……っ、どうして……。なんで、今なの……っ」
不意に、啜り泣くような声が聞こえてきた。
ビクッとして柱の陰からそっとロビーの中央を覗き込むと、エントランスに続く大階段の近くに、二つの人影があった。
一人は、見覚えのある後ろ姿。
同じデザイン科のクラスメイトである早瀬さんだった。
普段は明るくて、女子のグループの真ん中でいつも笑っている印象がある彼女が、今は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣きじゃくっている。
そして彼女の前に立っているのは、日本人ではあるものの、ハーフのように彫りが深く、モデルかと思うほどかなり整った顔立ちをした長身の男だった。
「ごめん。でも、もう決めた事だから……」
「そんな勝手に……」
男の口から発せられたその言葉に、私は思わず持っていたペットボトルを取り落としそうになった。
(わ、別れ話……?)
どうやらあのイケメンは早瀬さんの彼氏らしい。
しかし、よりにもよって修学旅行の最中、しかも初日の深夜にハワイのホテルで別れ話を切り出すなんて、いくらなんでもタイミングが酷過ぎる。
日本に帰ってからでも良くないか?
いや、楽しい思い出を作ってからの方が残酷なのか?
どちらにせよこんなの、残りの日程をどうやって楽しめというのだろうか。
私は柱の陰で完全に身動きが取れなくなってしまった。
気まずい。気まず過ぎる。
今ここからノコノコと出て行って「こんばんは、お茶を買いに来ました」なんて言える空気では到底ない。
「本当に、ごめん。……じゃあな」
男は一方的にそう告げると、泣き崩れる早瀬さんに背を向け、足早に歩き出した。
問題は、その男が向かってくる方向だった。
男は自販機コーナーのすぐ横にあるエレベーターホールへと真っ直ぐに向かってくる。
私は慌てて自販機の死角に身を潜め、息を殺した。
すぐ数メートル先を男の足音が通り過ぎ、やがてエレベーターの到着音が鳴って、扉が閉まる音が響く。
男が上の階へ行ったことを確認し、私はようやく安堵の息を吐いた。
……これでやっと部屋に帰れる。
そう思って自販機コーナーから顔を出した私は、その場で足を止めてしまった。
広くて薄暗いエントランスの大階段。
そこに一人残された早瀬さんが、力なく座り込み、膝に顔を埋めて声を殺して泣いていたのだ。
冷たい大理石の階段にうずくまる彼女の背中は、あまりにも小さく、ひどく孤独に見えた。
「……」
私と早瀬さんは、教室ではたまに言葉を交わす程度の仲でしかない。
深入りするのはお節介かもしれないし、今の彼女は誰にも会いたくないかもしれない。
けれど、こんな異国で、夜中に泣いているクラスメイトを一人放置して部屋に戻るなんて、私にはどうしても出来なかった。
私は小さく息を吐き出すと、手に持っていたお茶のペットボトルを見つめ、もう一度自販機へと向き直った。
ポケットから小銭を取り出し、ボタンを押す。
ガコン、と。
再び静かなロビーに響いた音と共に、私はそれを取り出し、ゆっくりと大階段の方へと歩き出した。
「……早瀬さん」
私が声をかけると、早瀬さんが涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「……居たんだ」
「……泣き疲れた時は、甘いものがいいって言いますから」
私は言い訳のように付け足して、たった今自販機で買ったばかりの、冷たいミルクティーのペットボトルを、彼女の目の前にそっと差し出した。
早瀬さんは呆然とそれを見つめていたが、やがて、震える手で受け取ると、蓋を開けずに握りしめたまま、また視線を足元に落としてしまう。
「……聞いてたよね」
消え入りそうな声で彼女が問う。
私は彼女の隣から一人分離れたスペースに、遠慮がちに腰を下ろした。冷たい大理石の感触が、腰掛けた階段からじわりと伝わってくる。
「……すみません。逃げ出すタイミングがなくて」
「……最悪だよね。私。こんな場所で振られるなんて」
早瀬さんは自嘲気味に笑ったが、その瞳は真っ赤だった。
あんなイケメンの彼氏とハワイに来て、浮かれていたはずなのに、こんな仕打ちを受けた彼女の心中を思うと、掛けるべき言葉が見つからない。
「……彼は何て?」
「好きな奴が出来たから……明日はそいつと回る、って」
早瀬さんは、喉に詰まった感情を吐き出すように言った。
「私が……私が今日まで我慢して、やっとここまで来れたのに。もうハワイでは、その子と遊ぶ約束をしてたんだって。……最初から、私のことなんてどうでもよかったんだよ」
今はまだ怒りよりも、深い悲しみと絶望が彼女を支配しているようだった。修学旅行という一生に一度のイベントを踏み台にされたようなものだ。すぐには心の整理は出来ないだろう。
「……あいつ、絶対バチ当たりますね」
私が絞り出すようにそう言うと、早瀬さんはふっと息を呑み、そして小さく吹き出した。
「……あはは、結城くんって面白いね。そんなこと言ったって、何も変わらないよ」
「変わらなくても言いたいです。本当に、酷過ぎますよ」
早瀬さんはミルクティーのキャップをゆっくりと開け、一口だけ口に含んだ。甘い香りが夜のロビーに漂う。
そんな些細な甘さが、彼女の涙を少しでも拭えるかもしれないと祈るしかなかった。
静寂の中、彼女の嗚咽が少しずつ落ち着いていくのを待った。ここで気の利いた慰めなんて言えない。
ただ、彼女が一人じゃないと分かるように、隣に座り続けることしか出来なかった。
「……ねえ、結城くん」
「はい」
「明日の朝、まだ私の目が真っ赤でも笑わないでね」
彼女はそう言って、少しだけ弱々しいけれど、前を向こうとする笑顔を見せた。
その顔を見て、私は安堵で胸を撫で下ろした。
「……別に笑いませんよ。駄目だったらサングラスでも掛けたら良いです」
「……確かに。それ良さそ」
深夜のホテルのロビー。
遠くで波の音が聞こえる中で、私たちはしばらくの間、言葉もなく並んで座っていた。
吹き抜ける夜風と、大理石から伝わる無機質な冷気が少しだけ肌寒い。
私は無言で、Tシャツの上に羽織ってきていた上着──あの日、東雲さんに選んでもらった大切なグレーのロングベストを脱ぐと、隣で小さくなっている早瀬さんの肩にそっと掛けた。
「……え」
「夜は少し冷えますから。風邪引いたら、明日遊びに行けなくなりますよ」
早瀬さんは肩に掛けられたベストの裾をきゅっと掴み、驚いたように私を見た。
「……これ、結城くんの大事な服でしょ。東雲さんが選んだっていう。いいの?」
「……今日は特別です。流石にそれで涙とか鼻水は拭かないでくださいよ?」
私がわざとぶっきらぼうに言うと、早瀬さんは「……ふふっ」と、今日一番の自然な笑みをこぼした。
「……ありがと。結城くん、意外と紳士だね」
「意外と、は余計です」
今日は寝れないかもしれない。
何故なら彼女が立ち上がれるまで、私はここを離れるつもりがなかったからだ。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




