第58話 泥棒猫
ワイキキの夜景が一望できる、七階のオーシャンビュールーム。
シャワーを浴び終え、ホテルのロゴが入ったふかふかのバスローブに身を包んだ私は、ベランダのデッキチェアでトロピカルジュースを傾けながら涼んでいた。
ふと部屋の中を覗くと、ベッドの上にちょこんと座ったルームメイト──東雲さんが、自分のスマホの画面を見つめながら、とろけるような甘い笑みを浮かべていた。
「どうしたの? さっきからすっごいニコニコしてるけど」
「あ、早瀬さん……ううん。今日、裕介くんに撮ってもらった写真を見てたの」
私が部屋に戻って覗き込むと、東雲さんは少し照れくさそうに画面を見せてくれた。
昼間の展望台で撮ったというその写真には、青空の下で並んで立つ東雲さんと結城くんの姿が写っていた。
強い風に煽られ、彼女のカーディガンと結城くんのベストの裾が、まるで一本の紐のようにしっかりと絡み合っている。
「うわ、これすごい奇跡の一枚じゃん! 服が手繋いでるみたい!」
「……うん。ふふっ」
画面を見つめる東雲さんの表情が、また一段と甘く緩む。
学校では『隙がない』なんて言われている彼女が、まぁ言ったのは私だけど、結城くんのことになると途端にこんな顔をするのだから、恋というのは本当に面白い。
「東雲さんと結城くんって、マジでお似合いのカップルだよね。最初はさ、東雲さんが結城くんの弱みでも握って、無理やりパシリにしてるのかと思ったよ」
「──弱み?」
ピタ、と。
部屋の空気が、一瞬にして張り詰めたものに変わった。
顔を上げると、東雲さんが見事なまでの美貌に、一切の感情を読み取れない完璧な微笑みを貼り付けてこちらを見ていた。
「どうして、そんな風に思ったの?」
「あ、えっと……」
(やばっ、つい口が滑った!)
私は内心で冷や汗をかいた。
結城くんに「弱みを握られているのか」なんて問い詰めたのは、私が彼のブログを読んでいるからこその発言だ。
「そ、その、ほら! 夏休み明けから、なんだか結城くんの様子が変だったからさ! 私、こないだ直接結城くんに聞いちゃったんだよね。『パシリにされてるの?』って」
「……結城くんに、直接?」
「う、うん。でも『嫌々なんかじゃないです』って本人が言ってたから、私の勘違いだったなって! あはは!」
必死に誤魔化して笑う私を見て、東雲さんは「ふぅん……」と目を細め、静かにベッドから立ち上がった。
彼女の甘い香水が混ざった匂いがふわりと漂う。
「ねえ、早瀬さん」
「は、はい」
「早瀬さんは、結城くんとそんな風に二人でお話しするくらい、仲が良いんだね。……お弁当のおかずのことも、すごく詳しかったみたいだし」
──ゾクッとした。
声のトーンはどこまでも優しくて穏やかなのに。
彼女の真っ直ぐな瞳の奥に、得体の知れない黒い渦のような『独占欲』がとぐろを巻いているのが見えた気がしたからだ。
きっと、これは『牽制』。
『私たちの邪魔をするな』と言っている。
私と結城くんの間に『自分の知らない秘密』があるのではないかと疑っている彼女は、今、極めてエレガントな方法で私にテリトリーを主張しているのだ。
「あっ、あのお弁当の件は、たまたまそういう話になっただけで、 だから全然、仲良いとかそういうのじゃないよ! ほら、結城くんってからかい甲斐があるからさ!」
「……からかう?」
「あっ、いや、変な意味じゃなくて! 私はただのクラスメイトとして応援してるっていうか……!」
しどろもどろになる私を見て、東雲さんはゆっくりと瞬きをした後、不意にベランダの手すりに歩み寄り、夜のワイキキの街並みを見下ろした。
「……結城くんね、すごく優しいんだ。あの服もね、私が『ハワイに着ていってほしい』ってワガママ言って、選んだの。彼、文句言いながらも、初バイトのお給料で買ってくれて……今日、ちゃんと着てきてくれた」
夜風に髪を揺らしながらそう語る彼女の横顔は、先程までの恐ろしいほどの圧が嘘のように、ただ恋する一人の可愛い女の子に戻っていた。
しかし、彼女はそこで言葉を切ると、ぎゅっと手すりを握りしめ、ひどく頼りない声でぽつりと呟いた。
「……でもね。私、時々すごく不安になるの。花火大会の時も……あんなに……あんなに近くにいたのに、結城くんは何も言ってくれなかった。結城くん、すごく優しいから、もしかして私と一緒にいるの、本当は嫌々なんじゃないかって……ただ私が無理やり振り回してるだけで、本当は迷惑してるんじゃないかって思うと、怖くて……」
振り返った東雲さんの瞳は、うっすらと涙ぐんでいた。
……そんなの、結城くんのブログを読めば一発で解決しそうな悩みだけど……花火大会以降、東雲さんへの想いを封印している事実は、もしかすると彼女には逆効果かもしれない。
「だから……早瀬さんが、結城くんと楽しそうに話してると……すごく怖くなるの。お願いだから、結城くんを取らないで。もし早瀬さんが本気でライバルになっちゃったら、私、勝てる自信ないよ……」
少年の心を鷲掴みにして離さない少女が、ガチで私みたいな「泥棒猫」を警戒して、泣きそうな顔で懇願している。
……って、待って待って。流石に誤解がスゴい!
「ちょっ、ちょっと待って東雲さん! 私が結城くんを狙うとか絶対ないから! それに私、普通に彼氏いるし!」
「……え?」
東雲さんは涙ぐんだまま、ぽかんと間抜けな顔で瞬きをした。
「彼氏……?」
「そうそう! 私にはちゃんとカッコいい彼氏がいます! 医療事務に居て、明日も一緒に回る予定だもん! だから、どれだけ結城くんがピュアで可愛くても、絶対に狙ったりしないの! 恋愛ごっこしてる東雲さんたちより全然大人なんだから!」
私が盛大にマウントを入れると、東雲さんは自分の発言の恥ずかしさに気づいたのか、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染め上げた。
「っ……! ば、馬鹿みたい……私、一人で勝手に……」
「あはは、でもそんなに結城くんのこと本気で好きなんだもんねー。可愛いなぁもう!」
「からかわないで……!」
枕を投げつけてきた東雲さんをキャッチしながら、私は心底ホッとした。
さっきまでの重たい空気はどこへやら、部屋の中にはキャッキャとじゃれ合ういつもの女の子たちの空気が戻っていた。
「……ねえ、早瀬さん」
「ん?」
「……ありがとう。なんだか、少しだけ勇気が出たかも」
「どういたしまして! 明日は自由行動だし、結城くんにアピールするチャンスなんだから、もっと自信持って行きなさいよ!」
こくんと頷いた東雲さんの表情は、さっきまでの不安が嘘のように晴れやかで、やっぱり世界で一番可愛い女の子だった。
遠くから聞こえるワイキキの波音を背に、私たちはそれぞれの胸に秘めた想いを抱えたまま、長いハワイの夜の続きを迎えるのだった。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




