第56話 小賢しい真似を
空港から冷房のガンガンに効いた貸切バスに乗り込み、私たちのハワイ修学旅行・初日の観光ツアーが幕を開けた。
クラスメイトたちで賑わう車内。
当然のように私の隣には東雲さんが座り、私たちは車窓から流れゆく景色に釘付けになっていた。
「結城くん、見て! 海、すっごい青!」
ハイウェイを抜け、ワイキキの海岸線に出た瞬間、視界いっぱいに眩い色彩が飛び込んできた。
白砂のビーチに打ち寄せる波は、波打ち際の透き通るようなエメラルドグリーンから、沖へ向かうにつれて深みを帯びたサファイアブルーへと、溜息が出るほど美しいグラデーションを描いている。
海面は容赦なく照りつける太陽の光を反射して、まるで無数の宝石を散りばめたように乱反射していた。
沿道には鮮やかな赤やピンクのハイビスカスが咲き乱れ、サーフボードを小脇に抱えて歩く日焼けした人々の肌には、濃いヤシの木の影が落ちている。
ガラス越しでさえ、ココナッツオイルと潮風の匂いが漂ってきそうなほど、そこは圧倒的な常夏のリゾートだった。
「本当ですね。空も……日本の空より、ずっと青い気がします」
「うん。なんか、世界中の光が集まってるみたい」
「お、詩人ですね?」
「結城くんほどじゃないよ?」
「……詩なんて書いたことないですよ?」
「書けそうだもん」
窓の外を指差しながら無邪気に笑う東雲さんの瞳の中にも、きらきらと光る海が鮮明に映り込んでいた。
初日のスケジュールは、ホノルル周辺の定番観光スポットをバスで巡るというものだった。
石造りの厳かな宮殿の前に立つ、黄金色に輝くカメハメハ大王像。照り返すアスファルトの熱気に目を細めながら見上げたその姿は、抜けるような青空を背景に力強くそびえていた。
次に訪れた広大な公園では、空を覆い尽くすほど巨大なモンキーポッドの木の下を歩いた。
傘のように広がる枝葉が濃い日陰を作り、風が吹くたびに、木漏れ日が芝生の上でサラサラと踊る。
静かで涼やかなその空間は、ここが熱帯であることを一瞬忘れさせるほど穏やかだった。
そして昼下がり。
バスは海岸線を見下ろす、小高い丘の展望台に到着した。
「あっ、風がっ……!」
バスを降りた途端、海から直接吹き上げてくる強烈な潮風が、私たちの全身を包み込んだ。
ゴーッという風の音と共に、潮の香りが広がる。眼下には荒々しい火山岩の崖に打ち付けられて砕ける真っ白な波と、どこまでも果てしなく続く太平洋が広がっていた。
水平線が緩やかな弧を描いているのが分かるほど、視界を遮るものが何一つない壮大なパノラマだ。
東雲さんが「きゃっ」と声を上げて、風に乱れる長い髪を片手で押さえる。
彼女のカーディガンが、南国の風をたっぷりと孕んで、空へ向かってヒラリヒラリと大きく舞った。
それに呼応するように、私が着ている吸血鬼のロングベストの裾も、バサバサと音を立てて波打つように揺れる。
「東雲さん、大丈夫ですか? 飛ばされそうですけど」
「うん、風は強いけど……すっごく、気持ちいい!」
彼女は乱れる髪もそのままに、眼下に広がる青の世界を見下ろして、花が咲くように笑った。
空と海の息を呑むような青。
力強い緑の山肌。
その大自然のキャンバスの中で、海風に舞う、まるで風の妖精のように軽やかで自由な彼女の姿に、私は時間を忘れたように見入ってしまっていた。
「おい結城!」
不意に背後から声がして振り返ると、首から一眼レフカメラを下げた裕介さんが、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて立っていた。その後ろには杉田さんの姿もある。
「裕介さん……一眼レフなんて持ってきたんですか?」
「やっぱり青い海が映えるねぇ。お前ら並んで立ってると、マジで旅行雑誌の表紙っていうか、新婚旅行のパンフレットみたいだからな。撮ってやるよ!」
『新婚旅行』という単語に、私は機内でのCAさんの言葉を瞬時に思い出し、たまらず咳払いをして誤魔化した。
「べ、別に、自分のことは撮らなくていいです」
「東雲さん!撮っていい?」
「いいよー!」
……矛先を東雲さんに変えるなんて、小賢しい真似を。
「ほら、結城も笑って笑って!」
裕介さんがカメラを構えると、東雲さんは「ふふっ、お願いしまーす」と私のすぐ隣へとやってきた。
ほんの少し体重を傾ければ肩と肩が触れ合う距離。吹き上げる強風になびく彼女のカーディガンの裾が、まるで私の心の奥に隠した感情を撫でるように、私のロングベストに何度も絡みついては離れていく。
「はい、チーズ!」
波の音と風の音に混じって、シャッター音が青空に響いた。
「最高!」
満足そうに親指を立てる裕介さん。
「あ、裕介くん、私のスマホでも、いい?」
東雲さんが自身のスマホを、カメラを起動した状態で裕介さんへと手渡す。
「はい、もう一枚っと!」
再び似たようなシャッター音が響く。
「横も撮っとくか」
スマホを90度回してもう一枚。
東雲さんが撮影を終えたスマホを受け取り、お礼を言うと、裕介さんはまだ撮りたりない様子で他のクラスメイトの方へと走り去っていった。
嵐のような裕介さんの背中を見送りながら、私はドッと疲れて息を吐いた。
「……裕介さん、元気ですね」
「ハワイだからね」
風の音に負けないよう、東雲さんは少しだけ顔をこちらに近づけ、上目遣いに私を見た。
照れくさそうに、けれどとても嬉しそうに目を細める。
「何より、結城くんと一緒に写真撮れたのが嬉しいよ?」
「……」
太陽よりも眩しいその笑顔は、必死に保っていた私の理性の防壁をあっさりと決壊させるのに、十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
ハワイの強い日差しと照り返す熱気が、限界まで赤くなった私の顔を自然に誤魔化してくれていることだけを祈りながら。
初日の観光ツアーは、こうして視界いっぱいの鮮やかな景色と、胸を焦がすような甘い余韻を残しながら、私たちの宿泊先となるリゾートホテルへと向かっていった。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




