第55話 ノーコメントでお願いします
約七時間のフライトを終え、飛行機を降りた瞬間。
国際空港にはハワイ特有の甘くけだるい風が吹き抜けていた。
日本の冷たい秋の空気とはまるで違う、むわっとした熱気。どこからか漂ってくるココナッツや南国の花のような甘い香りが、一瞬にして私たちの肺を満たしていく。
入国審査を終えて到着ゲートを抜け、空港の外へと一歩足を踏み出すと、視界の全てが鮮やかな原色に塗り替えられたような錯覚に陥った。
頭上には、吸い込まれそうなほどに高い、抜けるようなコバルトブルーの空。
強烈な南国の太陽が、アスファルトを白く飛ばすほどの眩しい光を容赦なく照りつけている。
沿道に等間隔で並んだ背の高いヤシの木が、海から吹き込む暖かな風に煽られて、ザワザワと大きな葉を揺らしていた。
「あー、暑いっ! マジで夏じゃん!」
「日差し強すぎ! やばーい!」
自動ドアを抜けたクラスメイトたちが、その圧倒的なバカンスの空気に当てられてワラワラとはしゃいだ声を上げる。
ガラガラとスーツケースを転がす音があちこちで響き、デザイン科の生徒たちは一気に非日常へと飲み込まれていった。
私も東雲さんと並んで空港の外に出たものの、日本の秋に合わせて着てきた上着が、今はまるでサウナスーツのように熱を内側にこもらせていた。
「暑い……流石にこの格好は失敗しましたね」
私がたまらず上着の襟元を掴み、パタパタと手で煽って風を送っていると、隣を歩いていた東雲さんが立ち止まり、ふふっと小さく笑った。
「結城くん、ちょっと待ってて」
彼女はそう言うと、周囲の邪魔にならない場所へ移動し、おもむろに自分のスーツケースを寝かせてチャックを開けた。
パカッと開いたスーツケースの中に、ここまで着ていた秋物のコートをくるくると丸めて押し込む。
そして代わりに彼女が取り出して羽織ったのは、風をはらんでヒラリと舞う、薄手でアジアンテイストなデザインのカーディガンだった。
柔らかなコーラルピンクのワンピースに、南国の風に揺れる軽やかなカーディガン。
無造作に風になびく長い髪をかき上げるその姿は、思考のピントが弾け飛ぶほど綺麗だった。
抜けるような青空とヤシの木の緑を背景に立つ彼女の可憐さは、まるで旅行雑誌の表紙をそのまま切り取ってきたかのように、その場の空気を一瞬で華やかに染め上げていた。
(……見とれてる場合じゃないぞ、私)
あまりの美しさに呆然としていた私は、ハッと我に返り、パタパタと煽っていた上着を勢いよく脱ぎ捨てた。
そして東雲さんに倣って自分のスーツケースを開け、上着を押し込むと、一番上に入れておいた『アレ』を取り出した。
──あの日、彼女が目を輝かせて選び「ハワイにはこれ、着ていこうね」と私にお願いしてきた、グレーのロングベスト。
初めてのバイト代を使って、男としての意地とプライドで会計を済ませた思い出の服だ。
ヒラヒラとした襟が裾まで続く、まるでいけ好かないモデル衣装のようなそれを、私が襟付きシャツの上からサッと羽織ると、東雲さんがハッとしたように目を丸くし、口元を両手でふわりと覆った。
「あっ……それ」
「ええ。『ハワイに着ていこうね』っていう命令でしたから」
「……お願い、だよ?」
「どっちにしろ、逆らえません」
私が少しだけ自嘲気味に肩をすくめると、東雲さんは花が咲いたような満面の笑みを見せ、弾むような声で答えた。
「……うん! すっごく似合ってる。あの日お店で見た時より、ずっとかっこいいよ」
「……東雲さんも。その服、すごく……綺麗です」
「ふふっ、ありがとう。なんだか、お揃いみたいだね」
「……ノーコメントでお願いします」
あの日と同じように見透かされた恥ずかしさでショートしそうな脳を必死に誤魔化す。
お互いの姿を見つめ合い、私たちは照れくさそうに、けれどとても嬉しそうに笑い合った。
吹き抜けた強い風が、ヒラリと二人の服の裾を揺らす。
彼女のカーディガンと私のロングベストの端が、まるで手と手を繋ぐように、空中でふわりと重なり合った。
南国の風を受けて立つ二人並んだ姿は、予想以上に絵になっていた。自惚れだと分かっていても、今の私たちなら、誰の目から見ても『お似合いのカップル』そのものに見えるはずだ。
お互いの中にだけある、秘密の買い物デートの思い出。
それが今、こうして常夏の空の下で完璧な形になっていることが、どうしようもなく誇らしかった。
「それじゃあ結城くん。行こっか、私たちのハワイへ!」
「はい。思い切り楽しみましょう!」
軽やかにスーツケースの持ち手を握り直した東雲さんと並んで歩き出す。
ハワイの強い日差しも、照り返すアスファルトの熱も、今はただ、これから始まる特別な時間を祝福してくれているように感じられた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




